→①より続き
5)死の召命はいつも善いものだ。ここと同様、そこでも問題を解決してくれるから。そしてどこで一番立派に自分の問題を解決することが出来るかは、屹度(きっと)自分で分かる
6)死者の魂を再び地上に呼び戻したいと思う願いは全く利己主義である。
7)それだからお母さんを安らかにやすませるのだ。その貴き生涯が君の力となり霊感となれば十分だ。
8)いよいよ君の一生の危機が来たから、君のなすべき仕事について、はっきりした考えを持たねばならぬ。
9)古今の聖賢は君を先駆者と呼ぶ。予言者は君を見てエリヤの再来と言っている。
10)君のここでの使命は先駆者のそれである。それは君が道をととのえるためにメシヤの面前に行き、人々に王を迎える準備をさせるのである。
11)準備とは心の純潔であり、心の清き者だけが王を認めることが出来る。
12)人に心の清きことを教えるには、先ず自分の心も言葉も行為も清きものとならなければならぬ。
13)君は幼い時誓約を立てて、ナザレ人となった。剃刀(かみそり)を顔にあててはならぬ。葡萄酒(ぶどうしゅ)と強き飲みものを飲んではならぬ。(民数記略三)
14)とにかく人々は自分たちの生活の模範を他に求めて、その後について行くのが好きだが、進んで他を指導することをしない。
15)町角に立って、路を指しながら、動こうとしない者は、まるで道標(みちしるべ)である。これは木切れで十分だ。
16)教師は道を踏んで行く。その足跡は地面にはっきり残るから、何人も自分たちの先生がその道を、歩いたことが分かる。
17)人々は見たり行うことによって、内なる生命を知り、儀式、形式によって神に行く。
18)そこで君が人々に清き生活によって、罪から洗い清められることを教えようとすれば、これを示す儀式を採用すれぱよい。
19)罪を離れて清き生活を送ろうと努力する者を水で洗うがよい。
20)この清めの式は準備の儀式であつて、かくして洗われた者は純潔教会をつくる。
21)それで君は言うがよい。「汝らイスラエルの人々よ、聞け、清き子となれ、そうすれば赦される」と。
22)この洗礼式とこの教会は、正しい生命を清めることによつて、魂が清められ魂の王国の象徴(しるし)となる。これは外観によることでなく、内なる教会である。
23)て君は決して道を示さず、自分で行わなかったことをなせと人々に言うことは出来ないだろう。先ず自分が先に行って道を示すより外はない。
24)人々に洗うことを教えようとすれば、先ず自分の身を清めなければならぬ。これは魂を洗う象徴(しるし)である。」
25)ヨハネは言った、「なぜ待つ必要がありますか。すぐに行って洗ってはいけませんか。」
26)マセノ、「結構だ。」それから彼らはヨルダン川の渡場(わたしば)に行き、エリコの東、丁度イスラエルの大衆が初めてカナンに入った時に渡った所で、しぱらく滞留(たいりゅう)した。
27)マセノは先駆者に、洗礼式の深き意味を説明し、自分を洗い、民衆を洗う方法を教えた。
28)それからヨルダン川でヨハネは洗われ、そして共に荒野に帰った。
29)これでエンゲジの山に於けるマセノの仕事が済み、ヨハネと共にエジプトに下った。それからナイル河の谷間にあるサカラの宮につくまで途中休まなかった。
→③に続く