へびのように賢く、はとのように素直であれ

いつの頃か、偽善が世の中に満ちている。偽善は見破らなければならない。へびのように賢く、はとのように素直でありたい。

不思議な少年!! その16 ①

2009-04-17 13:51:46 | Weblog

ヨハネの使命、洗礼式の制定!!



 洗礼のヨハネはいかにし て生まれたか。その目的と使命が、如実に語られている。おそらく、聖書にもこうも分かり易く記されていない。聖書は、多くの部分で時代が大きく飛んでい る。これは致し方がない。この物語が、その部分を真に補っているか否かは、読者の判断に委ねられる。

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 投稿者が強要するつもりは一切ないし、出来ない。只、滑落した部分を補って余りあると考えているし、一層その真意が理解出来る。聖書はよく読むし、通読は2回以上、部分的には10回を余る程読んだ記憶があるが、十分に理解出来ているとは思わない。かといってクリスチャンでは決してない。


 この物語は、3度読んだ。聖書の理解が進んだ。バステスマ(洗礼)の意義がよく分かる。


 バステスマ(洗礼)も儀式である。神道の「一拝 一祈念二拝 四拍手 一拝」も儀式である。五体投地であれ、なんであれ、儀式である。儀式は形から神に至る行為と捉えれば、それはそれで自由である。それ以上に大切なのは、意義を理解し、目的を違えないことである。


 宗教は好きかと問われるならば、好きではない。しかし、真理は好きである。真理を求めることは真実を求めることと同義である。それが宗教にあるとすれば、それは無視出来ない。


 真理は、ありてあるものである。真実はそれに沿うモノであると考えている。表現はともかくとして、人間が存在する遙か以前から、真理は存在した。宗教はその真理を追究する手段として、人間が作り出したものであるとしても、その意義は大きい。科学も哲学もそれと同様なものと考えることが出来るが、宗教を超えるものではない。寧ろ、宗教に含まれるものと考えることが出来る。


 演繹と帰納の違いであると考える。いずれが良いとも思わないが、人間の認識能力は限りがある。だとすれば、認識能力を超えた部分は演繹的に、あるいは形而上的に与えられると考えることの方が素直であると考える。


 その存在が、先駆者と呼ばれるのであれば、納得する。ヨハネは先駆者であり、イエスは偉大な人類の先駆者であろうと考える。イエス以外にも先駆者は多い。偉大なる先駆者から生まれた教えが宗教と考えられる。


 偉大な先駆者の教えも、時を経、人を経るに従って、形骸化し、あるいは意図を持って歪曲された側面が諸々の宗教にはある。それを見抜くためにも、真理の探究は必要であるし、その姿勢を堅持する方向には、必ず、真理の導きがあると信じている。真実も同じである。真実は追究してこそ、最終的には真実は顕れる。


 それにしても、マセノという人物、ヨハネのための隠れた先駆者である。バステスマのヨハネ、エリヤの再来のヨハネにしても、又、導かれている。イエスはヨハネにより掃き清められたし、数々の預言者によって、導かれていた事実をかいま見るであろう。 



 ヨハネ十二歳の時母は死んだ。隣人たちはヘブロンの墓所で、親戚のなかにあるザカリヤの墓の近くに、その亡骸(なきがら)をやすませた。ヨハネはいたく悲しみ泣いた。


 マセノは言う、「死のために泣くんでない。死は人間の敵でない。死は友人だ。一生の仕事が済めば、丁度地上に人間ボートを繋いだ綱を切り、一層静かな海に航するようにする。


 どんな言葉も、到底母なる者の価値を伝えることは出来ない。君のお母さんは苦労した。真心の人であった。しかしお母さんは仕事の済むまでは、世から召されなかった。死の召命はいつも善いものだ。


 ここと同様、そこでも問題を解決してくれるから。


 そしてどこで一番立派に自分の問題を解決することが出来るかは、屹度(きっと)自分で分かる死者の魂を再び地上に呼び戻したいと思う願いは全く利己主義である。それだからお母さんを安らかにやすませるのだ。その貴き生涯が君の力となり霊感となれば十分だ。


 いよいよ君の一生の危機が来たから、君のなすべき仕事について、はっきりした考えを持たねばなら ぬ。古今の聖賢は君を先駆者と呼ぶ。予言者は君を見てエリヤの再来と言っている。君のここでの使命は先駆者のそれである。それは君が道をととのえるために メシヤの面前に行き、人々に王を迎える準備をさせるのである。


 準備とは心の純潔であり、心の清き者だけが王を認めることが出来る。人に心の清きことを教えるに は、先ず自分の心も言葉も行為も清きものとならなければならぬ。君は幼い時誓約を立てて、ナザレ人となった。剃刀(かみそり)を顔にあててはならぬ。葡萄 酒(ぶどうしゅ)と強き飲みものを飲んではならぬ。(民数記略三)

 

 とにかく人々は自分たちの生活の模範を他に求めて、その後について行くのが好きだが、進んで他を指導することをしない。町角に立って、路を指しながら、動こうとしない者は、まるで道標(みちしるべ)である。これは木切れで十分だ。教師は道を踏んで行く。その足跡は地面にはっきり残るから、何人も自分たちの先生がその道を、歩いたことが分かる。


 人々は見たり行うことによって、内なる生命を知り、儀式、形式によって神に行く。そこで君が人々に清き生活によって、罪から洗い清められることを教えようとすれば、これを示す儀式を採用すれぱよい。


 罪を離れて清き生活を送ろうと努力する者を水で洗うがよい。この清めの式は準備の儀式であつて、かくして洗われた者は純潔教会をつくる。それで君は言うがよい。「汝らイスラエルの人々よ、聞け、清き子となれ、そうすれば赦される」と。

 
  この洗礼式とこの教会は、正しい生命を清めることによつて、魂が清められ魂の王国の象徴(しるし)となる。これは外観によることでなく、内なる教会であ る。 さて君は決して道を示さず、自分で行わなかったことをなせと人々に言うことは出来ないだろう。先ず自分が先に行って道を示すより外はない。


 人々に洗うことを教えようとすれば、先ず自分の身を清めなければならぬ。これは魂を洗う象徴(しるし)である。」


 ヨハネは言った、「なぜ待つ必要がありますか。すぐに行って洗ってはいけませんか。」


 マセノ、「結構だ。」それから彼らはヨルダン川の渡場(わたしば)に行き、エリコの東、丁度イスラエルの大衆が初めてカナンに入った時に渡った所
で、しぱらく滞留(たいりゅう)した。マセノは先駆者に、洗礼式の深き意味を説明し、自分を洗い、民衆を洗う方法を教えた。それからヨルダン川でヨハネは洗われ、そして共に荒野に帰った。


 これでエンゲジの山に於けるマセノの仕事が済み、ヨハネと共にエジプトに下った。それからナイル河の谷間にあるサカラの宮につくまで途中休まな
かった。数年間マセノはこの宮にある兄弟団の教師となったが、ヨハネの人となりと人の子らに対するその使命について語ったので、聖師は喜んで先駆者を迎え、これを「兄弟ナザレ人」と呼んだ。

 

 十八年間ヨハネはこの宮の門内に生活して働き、ここで自我を克服して、聖者となり、先駆者の務めを学んだ。



【宝瓶宮福音書:栗原 基訳】

第四部 先駆者ヨハネの子供時代と初期の教育

第十五章 エリサベツの死と埋葬。マセノの教訓。死の奉仕。ヨハネの使命。洗礼式の制定。マセノ、ヨハネをエジプトに運れて行く。ヨハネ十八年間サカラの宮に留まる。

1)ヨハネ十二歳の時母は死んだ。隣人たちはヘブロンの墓所で、親戚のなかにあるザカリヤの墓の近くに、その亡骸(なきがら)をやすませた。


2)ヨハネはいたく悲しみ泣いた。マセノは言う、「死のために泣くんでない。


3)死は人間の敵でない。死は友人だ。一生の仕事が済めば、丁度地上に人間ボートを繋いだ綱を切り、一層静かな海に航するようにする。


4)どんな言葉も、到底母なる者の価値を伝えることは出来ない。君のお母さんは苦労した。真心の人であった。しかしお母さんは仕事の済むまでは、世から召されなかった。

→②に続く



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