ヒデ系の瞳

平和憲法尊守

主権回復どころか従属と屈辱の日 4/28歴史の真実は・・・。

2013-04-12 | 安保が分かれば、世界が見える
BLOOD LINE(フェンスの向こうの星条旗) /浜田省吾


 安倍内閣は4月28日、「主権回復・国際社会復帰を記念」するという式典を開こうとしています。1952年のこの日は、サンフランシスコ講和条約(サ条約)と日米安保条約が発効した日です。日本は形式的には独立したものの、米国への従属的な地位に縛りつけられたのが歴史の真実です。式典には沖縄県議会が抗議決議を採択し、与党内からも異論が出始めています。日本共産党は、志位和夫委員長が3月14日に「従属と屈辱の日を祝うのか―『主権回復の日』式典の中止を求める」との見解を発表。式典を欠席するとともに、労組・民主団体とともに抗議集会を開きます。「4・28」とは何か。あらためて考えます。

憲法に反し対米従属へ

 連合国に無条件降伏して占領下に置かれた日本が戦後、主権を回復するためには、戦争相手国との最終的な平和回復=「講和」を行うことが必要でした。
 外務省でサ条約・安保条約締結に関わった西村熊雄条約局長(当時)は「1949年夏まで対日平和は(中国やソ連も含め)全面講和として5大国間に協議されてきた」(『安全保障条約論』)と証言しています。その理由として、ポツダム宣言(日本への降伏勧告)などに加え、「国内では憲法も制定されて」いることを挙げています(62年8月9日、日本国際問題研究所での講演)。平和的原則を貫いて中立の立場を取ることが、日本が進むべき道だったのです。
 ところが、朝鮮戦争が起こった50年を契機に流れが変わります。日本を「反共の防波堤」にしようという米国の画策により、サ条約は米国の世界戦略に反対しない48ヵ国だけとの条約=「単独講和」となりました。
 調印式には、日本軍国主義の深刻な被害を受けた中国、韓国、朝鮮は招待されず、ソ連なども調印しませんでした。日本と北東アジアとの関係は、戦後の出発点から、不正常なものだったのです。
 
沖縄を米国へ売り渡す

 加えて、カイロ宣言(連合国の対日方針)やポツダム宣言に示された「領土不拡大」という戦後処理の大原則(関連資料2面)に背いて、サ条約第3条で琉球、奄美、小笠原などが米国の施政下に置かれました。さらに、2条C項で千島列島も放棄させられました。
 安倍晋三首相は「(沖縄)返還に向けての第一歩をしるした」と言いますが、当時の吉田茂首相は、ダレス米国務長官が「対日講和7原則」で沖縄の「信託統治」を提案したのに対して、「米国の軍事上の必要については、いかようにでも応じる用意がある」(「わが方見解」、51年1月30日)と表明。米国に売り渡す姿勢をはっきり示していました。
 沖縄ではサ条約発効の翌年から「銃剣とブルドーザー」による土地の強奪が行われ、本格的な米軍基地増強が始まっています。

占領継続の安保条約

 さらに重大なのは、「日本に平和的・民主的政府が樹立された段階での占領軍撤退」を明記したポツダム宣言に反して、サ条約第6条で、「条約発効後90日以内の撤退」の一方で「協定に基づく外国軍の駐屯・駐留を妨げない」と規定したことです。

植民地化する行政協定

 また、安保条約に伴い、駐留米軍の地位を定めた日米行政協定が交わされました。ここでは
①米軍が基地の使用・管理にあたって、全面的に「権利・権力・機能」を有する(基地の管理権)
②米兵や軍属・家族が日本国内で罪を犯した場合、第1次裁判権は米側が全面的に持つ(裁判権)―
など、特権が保障されていました。
 青年代議士だった中曽根康弘氏(元首相)は当時、行政協定について外務省で説明を受け「要するに、この協定は日本を植民地化するものですナ」との感想をもらしています(『日本外交文書』)。行政協定の内容はすべて、今日の日米地位協定に引き継がれています。

戒厳令下で秘密交渉

 旧安保条約は完全な秘密交渉の下で結ばれました。独立国家間の条約になるにも関わらず、調印前に内容を知っていたのは吉田首相ただ一人。サ条約の調印式(51年9月8日)には7人の全権代表が出席したのに、安保条約の署名は吉田氏だけです。調印した場所は、正式の会議場ではなく、サンフランシスコ市内にある米軍下士官クラブの一室でした。
 また、占領軍は厳しい報道統制を敷き、一切の批判を許さない戒厳令的な状態にしていました。単独講和に反対する日本共産党や民主勢力などは徹底的に弾圧されていました。
 サ条約と安保条約は当時の支配層を含め、ほとんどの日本人が内容を知らされず、また、納得がいかないまま押し付けられたのです。その出発点である4月28日を『主権回復』として祝うことは歴史の偽造です。

岸氏も認めた占領継続

 安倍晋三首相の祖父である故・岸信介元首相も、4月28日に発効した旧安保条約について占領の継続だと証言しています。

 旧安保なるものは、あまりにもアメリカに一方的に有利なものでした。・・・形式として連合軍の占領は終わったけれども、これに代わって米軍が日本の全土を占領しているような状態である。(『岸信介証言録』)

講和と安保条約締結をめぐる主な動き

1943年11月 米英中がカイロ宣言
  45年 7月 米英中がポツダム宣言
   同年 8月 日本がポツダム宣言受諾
  47年 5月 日本国憲法施行
  48年 1月 ロイヤル米陸軍長官が「日本を反共の防壁へ」と演説
  50年 6月 朝鮮戦争が勃発
  51年 9月 サンフランシスコ講和条約、日米安保条約調印
  52年 2月 日米行政協定調印
   同年 4月 サ条約、安保条約発効
53~55年頃  沖縄で米軍の「銃剣とブルドーザー」による土地強奪
  60年 安保条約改定

【4・28歴史の真実は・・・】関連資料

『日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約、1952年4月28日発効)から』

第2条(c)
 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

第3条
 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦(そふ)岩の南の南方諸島(小笠原群島、西ノ島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。

第6条(a)
 連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。但し、この規定は、一または二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基づく、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。

『日米安全保障条約(旧)(日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約から』

第1条
 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じよう{前3文字強調}を鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。

『ポツダム宣言から』

第8項(領土不拡大の確認)
 カイロ宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ

第12項(占領軍の撤退)
 前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ從ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ

『カイロ宣言の領土不拡大の原則(抜粋)』
 ・・・同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ

(しんぶん赤旗2013年4月9日号)

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