佐々木俊尚の「ITジャーナル」

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さらに・・ライブドアの起こした騒動をめぐって

2005-05-16 | Weblog
 先日のエントリーについて続けたい。他人の古いコラムについてあれこれ書くのはいかがなものかとは思うが、しかし立花隆氏のような人からどうしてこういう言論が出てくるのかが、気になってしかたないのである。

 これはただ単に立花隆氏が謀略史観的であるとか、あるいは古いジャーナリストであるといった問題だけでなく、日本社会に内在している価値観の転換にかかわる問題であるようにも思えてきた。

 たとえば1935年生まれの政治ジャーナリストである岩見隆夫氏は、「サンデー毎日」の連載「岩見隆夫のサンデー時評」(2004年12月5日号)、「堀江社長は新アプレゲールだ」と題してこう書いていた。昨年末の回だ。

 「堀江さんは無責任、無軌道ではなく、いまのところ成功者だが、戦後も約六十年を経過して、ニュー・アプレゲールの出現か、と思ったりする。『稼ぐが勝ち』という本には、そんな雰囲気が色濃く立ちこめているのだ」

 そしてライブドアの堀江社長が本の中で「超低金利時代には貯蓄するべきではなく、若者こそカネを使うべきだ、貯蓄は美徳というのは戦時中の名残に過ぎない」という趣旨のことを述べていることについて、岩見氏はこの連載記事で書いている。

 「この理屈はおかしい。美徳ではないとしても、貯めれば次の計画が生まれる。はしから使えば、それまでではないか」

 だが実のところ、堀江社長は無意味な無駄遣いを勧めているわけではないのだ。銀行にカネを貯金するという行為は単に銀行にカネを「貸している」だけであり、超低金利でありなおかつ金融が自由化された今となっては、貯蓄というのはカネの使い方のひとつの手段にすぎないし、それを「美徳」と呼ぶのはあまりにも古すぎるではないか、という主張である。これは企業の金融資産であろうと、個人の金融資産であろうと、考え方は変わらない。個人のカネであっても、銀行という大樹に預けて安心……という時代ではなくなっている。みずからのリスクによって、カネを動かすことが求められている。

 超低金利で銀行なんかに預けるよりも、さまざまな経験をしたり、見聞を深めるなど、自分自身の「差別化」に使ったほうがいい。そうやって自分自身の価値を高めることができれば、銀行の低金利よりもずっと大きなリターンになる。

 少し話を回り道させよう。

 「産業資本主義」と「ポスト産業資本主義」という時代区分けがある。東大教授の岩井克人氏のベストセラー「会社はこれからどうなるのか」で有名になった考え方である。産業資本主義というのは、基本的には工場でモノを生産する資本主義だ。安い賃金で人々を雇って、工場でモノを作り、それを販売する。安い値段で人を働かせて大量生産すれば、じゅうぶんな利益を上げることができる。賃金の安さが利益のみなもととなっている。日本の高度経済成長は、この産業資本主義の考え方を前面に打ち出すことで花開いた。

 だが産業資本主義は、農村からの労働人口が枯渇し、賃金が高騰すると破たんしてしまう。大量生産・大量販売では、会社が成り立たなくなってしまうのだ。そこで一九七〇~一九八〇年代に登場してきたのがポスト産業資本主義。他社よりも素晴らしい技術やデザイン、使い勝手の製品を出すことで差別化し、儲けていこうという考え方だったのである。「他者との差別化がカネを生む」という構造だ。

  産業資本主義的な工場経営の場合、カネを持っている人間はかならず勝つことができる仕組みになっている。差別化しなくとも、大量生産しただけででモノが売れるからだ。 ところが産業資本主義が終わり、ところがポスト産業資本主義の時代になると、大量生産だけではモノが売れなくなり、「カネを持っていること」というのは強力な武器ではなくなってしまう。そのカネを大量に投入して工場を作っても、消費者を惹きつけるようなすばらしい製品を作ることができなければ、モノは売れないからだ。

 そこで余ったカネの使い道をもとめて、他の会社に投資したり、融資したりするようになる。みんなが「儲かる話」を求めて、あちこち走り回り、カネをひっきりなしに動かすようになり、金融市場が発達していく。

 ライブドアのような会社は、ポスト産業資本主義の象徴である。金融が自由化され、カネもモノもすべてが相対化され、その中で何らかの差別化が求められる時代が出現し、初めてあのような企業が出現してくる土壌ができあがった。

 こうした時代にあっては、貯蓄はたしかに美徳にはなりえない。それが人間にとって良いことかどうかは別にしても、カネをただ温存しておくだけでは、何も生み出さない時代になってしまったのである。

 岩見氏の「はしから使えば、それまではないか」というのはたしかに外形的にはその通りだが、他人に求める美徳としては、あまりにも古い。