◆徳川忠長 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/徳川忠長
徳川 忠長(とくがわ ただなが)は、江戸時代前期の大名。
極位極官が従二位大納言で、領地が主に駿河国だったことから、通称は駿河大納言(するがだいなごん)。徳川家康の孫にあたる。
生涯
幼少期
慶長11年(1606年)、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の三男として江戸城西の丸にて生まれる。
◆大納言忠長(だいなごん ただなが)
http://tokaido.canariya.net/hr-02/hiro02/20dainagon.html
駿府城主大納言忠長は、兄の三代将軍家光により死を命じられ若くして自刃した。
もし大納言忠長が、治世を続け駿河徳川家が存続していたら府中(駿府、静岡市)の有り様は変っていたに違いない。
この駿河大納言忠長の軌跡を追ってみる。
忠長はニ代将軍秀忠の三男として、慶長11年(1606)5月生まれた。
幼名は国千代、生母は織田信長の妹お市の方の三女お江与の方である。
兄は三代将軍になる家光(幼名竹千代)であった。
国千代は幼少の頃から聡明のうわさが高いのに比べ兄の竹千代は、無口で人に好かれない性質といわれ、国千代は父母の溺愛を受けたという。
そこで城内はお世継ぎをめぐって、国千代派と竹千代派に分かれたが、国千代派が優勢だった。 ...
◆徳川忠長(とくがわ ただなが)
没年:寛永10.12.6(1634.1.5)
生年:慶長11.5.7(1606.6.12)
江戸前期の駿河国駿府藩(静岡市)藩主。徳川2代将軍秀忠の3男。
3代将軍家光の弟。
母は秀忠の正室崇源院(於江与)。慶長11(1606)年江戸城に生まれる。
童名国松。秀忠夫妻が才智にめぐまれた忠長を寵愛したため,次期将軍になるとの風評があり,危機感をいだいた家光の乳母春日局 は,駿府の家康に嘆願し,家康の指示で家光が世子と決定した。
元和4(1618)年甲斐国を領地として与えられた。
同6年元服し,従四位下参議に叙任。寛永1(1624)年駿府藩主となり,駿河,遠江両国55万石を領した。
3年8月には従二位権大納言に叙任されたので,世に駿河大納言と称された。
5年ごろから忠長の行動が荒れ,8年に入ると,家臣を手討ちにしたり,仕えていた少女を唐犬に食わせたりという異常な行動が目立ち始め,江戸で頻発していた辻斬りも忠長の仕業であると噂された。
3月末,付家老朝倉宣正の切腹を上訴したことから,秀忠は忠長を付家老鳥居忠房の領地甲斐谷村に蟄居させた。
10年9月,前年1月の秀忠の死後親政を行っていた家光が重病に陥ると,世間には忠長与党の大名が反乱を起こそうとしているという噂が飛び交った。
ために危機感をいだいた家光は,病気回復後,忠長を安藤重長の領地上野高崎に移し,阿部重次を派遣して自害を命じた。
自害の場所は高崎の大進寺。<参考文献>山本博文『寛永時代』
(山本博文)
◆徳川忠長~兄・家光との確執。そのさま狂気に類せり?
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4535
駿河大納言・徳川忠長が切腹
寛永10年12月6日(1634年1月5日)、徳川忠長が切腹しました。3代将軍家光の同母弟で、駿河大納言として知られます。
徳川忠長は慶長11年(1606)に2代将軍徳川秀忠と正室・お江の3男に生まれました。2歳上の兄に家光、5歳下の異母弟に保科正之がいます。幼名国千代。兄の家光が病弱で容貌が劣り、一見愚鈍であったのに対し、忠長は眉目秀麗、才気煥発であったため、両親の愛情は忠長に偏ったといわれます。
実際のところ、家光には乳母のお福(後の春日局)がついており、家光の面倒はすべて彼女が見ていました。嫡男を福に横取りされたかのように感じた両親は、「今度はそうはさせじ」と忠長に目をかけ、結果として愛情が偏る結果になったのかもしれません。また両親の愛情を受けられない家光に対し、お福が一層愛情を注ぐことにもなったのかもしれません。
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