日中戦争、大東亜戦争のきっかけは、日本人約260人が虐殺された「通州事件」。私達日本人はもっとしっかりと正しい歴史を知らなければなりませんね。
http://blog.livedoor.jp/akio_hayashida/archives/1676864.html
◆本来日本人を守るべき中国人保安隊3千人が、日本人約420人を突然襲撃し、拷問あるいは強姦の末、約260人を惨殺した
中国によって、ユネスコの世界記憶遺産に登録された「南京大虐殺」に関しては、色々な意見が飛び交っている。
それはさておいて、あまりにも知られていないので、日中戦争、その後の大東亜戦争の契機となった、いくつかある日本人虐殺事件のひとつ
「通州(つうしゅう)事件」
を披露させて頂きたい。
この事件は、北京郊外の通州で、本来日本人を守るべき中国人保安隊3千人が、当時、現地に合法的に居住していた女性や老人、子供たちをふくむ日本人約420人を突然襲撃し、拷問あるいは強姦の末、約260人を惨殺した事件である。
さらに、その殺害方法の猟奇的残忍さが際立っていた。
この時、日本人虐殺の指揮をとった張慶餘(ちょう・けいよ)と張硯田(ちょう・けんでん)は、追撃してきた日本軍に襲われるや、部下を置き去りにし、民間人の服に着替えて逃亡、その後も戦争中を生き延びている。
「通州事件」は、日本の新聞各紙に詳しく報道されたため、日本人の怒りは頂点に達していた。
寛家(かんけ)流姓名学師範鑑定士・詠山史純(えいざん・ふみよし)氏のブログ
『華やぐ日々よ・・・詠山史純の愚考拙文録』
から、詠山氏の了解を得て、以下に掲載させて頂く。
以下、勝手ながら、読みやすさを優先させていただき、中見出しをつけ、「」をつけたり、ルビを増やしたり改行したり、難しい漢字をひらがなに書き改めるなどをさせて頂いた。
また、私は個人的には、「支那(しな)を使いたいのだが、一部、「支那」を「中国」に改めさせて頂いた。2013年に書かれた記事であることをお断りする。
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【日本人260人が惨殺された通州事件、支那人の猟奇的殺害事件・・・目撃者の極東国際軍事裁判に於ける宣誓口供書】2013-07-31
http://kannoeizan.blog111.fc2.com/blog-entry-409.html
●「盧溝橋事件」「通州事件」は、「支那(しな)事変(日中戦争)」の直接の導火線となる、決定的な重大事件であった
今から76年前の昭和12年(1937年)7月29日、北平(現在の北京市)の東約12kmに在った通県(現在の北京市通州区北部)には
「冀東(きとう)防共自治政府」
が置かれていたが、その中国人の保安隊約3000人によって、日本軍部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名が襲撃され、約260名が虐殺されたのが、世に言う
「通州(つうしゅう)事件」
である。
この「通州事件」が起こる3週間前の7月7日、北平(現在の北京市)西南方向の盧溝橋(ろこうきょう)で、北京議定書に基づき駐留していた日本軍と、蒋介石(しょうかいせき)率いる中国国民党の軍隊である国民革命軍第29軍との間で、
「盧溝橋(ろこうきょう)事件」
と呼ばれる軍事衝突が起きていた。
通州の「冀東(きとう)防共自治政府」自体は、親日的な政権であったというが、その政権の軍隊である保安隊は、国民革命軍第29軍の軍長・宋哲元(そう・てつげん)と内通していた模様で、
「盧溝橋で日本軍が国民革命軍第29軍に惨敗した」
とのデマに扇動され、日本人を襲撃したと言われている。
そして、この年の12月、日本軍は南京攻略戦を戦い、国民党一党独裁である中華民国の首都・南京を陥落させた。
いわゆる「南京大虐殺」という虚構は、昭和12年(1937年)冬から13年(1938年)春に掛けての、この南京陥落時の捏造(ねつぞう)話である。
南京を陥落させた6~7万人の日本軍兵士が人口20万人の南京で、30万人もの南京市民を虐殺したとされている大法螺(おおぼら)話である。
日本軍が南京を陥落させた後に、南京城内の人口が5万人増えているが、30万人を殺戮したとするならば、そんな地獄の都市に30万人+5万人で、35万人もの中国人がわざわざ南京に流入して来たということになる。
司令官から一兵卒に至るまでが6週間にわたって、獣のように嗜虐(しぎゃく)的に8万人の婦女子を強姦しては惨殺し捲(ま)くったということにもなっている。
歴史的経緯からすると結局、「盧溝橋事件」「通州事件」は、
「支那(しな)事変(日中戦争)」
の直接の導火線となる、決定的な重大事件であったことになる。
●「盧溝橋(ろこうきょう)事件」、「通州(つうしゅう)事件」、「第二次上海(しゃんはい)事変」、「首都南京攻略」という経緯は、中国を侵略するという目的ではなく、発端はあくまでも、日本人居留民保護のために止むを得ず、我が国政府が軍隊を増派(追加派遣)したということなのである。
「支那事変(日中戦争)」を単に日本が中国領土に侵攻したものと認識している日本人も多いようであるが、歴史的事実は決してそうではなかった。
1946年(昭和21年)までの中国には、
「租界(そかい)」
というものがあった。
「租界」というのは、清国とイギリスで戦われた「阿片(あへん)戦争」後の不平等条約によって、中国大陸各地の条約港に設けられた、行政自治権や治外法権を持つ外国人居留地のことで、20世紀の近代中国における、列強の半植民地支配の拠点であった。
中国に「租界」を有していた列強は、イギリスを始めとして、日本、アメリカ、フランス、ドイツ、オーストリア、ベルギー、ロシア、イタリアなどで、それぞれの国が自国の居留民保護のために軍隊を駐留させていた。
この外国人居留地は、列強が外交上の交渉で清国から得た権益で、後に中華民国に継承されたわけであるが、この治外法権を持つ居留地を、中国の官憲には保護する義務があったにもかかわらず、彼らは軍隊組織、警察組織としての体をなしておらず、彼ら自身が昭和2年(1927年)、日本人が虐殺された
「もう一つの南京事件」
や昭和12年(1937年)の
「通州事件」
など、凄惨極まりない日本人惨殺事件を引き起こしていた。
※「もう一つの南京事件」:昭和2年3~4月、南京・漢口を中心に揚子江流域各地で、中国軍兵および民間人による日本人襲撃事件が起きた。これらを「もう一つの南京事件」と言う。田中秀雄・編集『もう一つの南京事件、日本人遭難者の記録』(芙蓉書房出版)に詳しい。
我が国にもかつて、横浜や神戸に外国人居留地が存在した。
安政年間(1858年)に、江戸幕府の日米修好通商条約を始めとして、イギリス、フランス、ロシア、オランダと修好条約を締結した。
この
「安政の五カ国条約」
により、東京と大阪、箱館、神奈川、長崎、兵庫、新潟の5港を開港して、外国人の居住と貿易を認めた。
開港場としては、横浜と神戸のみであったが、居留地は長崎や築地などにも在り、外国人が一定区域の範囲で土地を借り、建物を購入し、あるいは住宅、倉庫、商館を建てることが認められ、治外法権とされていた。
日本の場合は条約改正の外交努力により、1899年には見事にすべて回収した。
日本と中国の全面戦争への道程として、「盧溝橋(ろこうきょう)事件」、「通州(つうしゅう)事件」、「第二次上海(しゃんはい)事変」、「首都南京攻略」という経緯は、中国を侵略するという目的ではなく、発端はあくまでも、日本人居留民保護のために止むを得ず、我が国政府が軍隊を増派(追加派遣)したということなのである。
たとえて言えば、幕末、居留地を守るべき幕府の軍隊が治外法権を持つ横浜の居留地に侵入し、小規模のイギリス軍を撃破、略奪の上、外国人に陵辱(りょうじょく)を加え、虐殺したとする。
更に、居留地は幕府の大部隊に包囲された状態が続くとする。当然、イギリス本国政府は自国民保護のために艦隊を派遣し、陸兵も増派する。
増強されたイギリス軍と幕府軍との交戦があり、幕府軍は江戸に潰走した。そこで、イギリス軍は禍根(かこん)をたつために、江戸府内にまで追撃し、幕府軍を江戸から駆逐したとしよう。
要するに、日支の武力衝突が泥沼の戦争状態にまで発展した構図というのは、正にこういうことであったわけなのである。このたとえ話の江戸が、実際の「日中戦争」においては南京であった。
●1000人の中国人と500人の朝鮮人によって、尼港在住の日本人約800人が陵辱(りょうじょく)の上、虐殺された「尼港(にこう)事件」も殆ど世に知られてはいない。
昭和12年(1937年)12月に日本軍が陥落させた南京で大虐殺が行われたという
「南京事件」
は日中両国で語られることはあっても、昭和2年(1927年)3月に、蒋介石(しょうかいせき)の北伐軍が南京に攻め込んだときに日本人が虐殺された
「もう一つの南京事件」
も
「済南(さいなん)事件」
も語られることは皆無に等しい。
また、大正9年(1920年)には、「日華共同軍事協定」を結んでいたにもかかわらず、尼港(にこう。現在のロシア極東部ニコラエフスク・ナ・アムーレ)に停泊中の四隻の中国艦隊は、日本軍の兵舎領事館を砲撃、更に、1000人の中国人と500人の朝鮮人によって、尼港在住の日本人約800人が陵辱(りょうじょく)の上、虐殺された
「尼港(にこう)事件」
もほとんど世に知られてはいない。
日本の外務省、教育界やマスメディアがいかに、反日左翼の北京派売国奴に占拠されているかの証である。
昭和12年(1937年)7月29日の
「通州(つうしゅう)事件」
に至っては、東京裁判で、裁判長ウェッブはいわゆる「南京事件」なるものの中国側の公式資料は証拠として採用したにもかかわらず、日本国の弁護側が「通州事件」に関する外務省の公式声明を証拠として提出したが、ウェッブに却下されているのだ。
東京裁判に於いて、中国の残虐な犯罪が明らかになることは、正義を装う連合国側には不利益であったから、というわけなのだ。
しかし、その際に、通州事件の虐殺現場を目撃した証人の「宣誓口供書」は受理され、記録は残っている。
●「階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突(しとつ。突き刺すこと)の跡を見た。」
★天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長で、事件の翌日30日、通州に急行して邦人救援に当たった萱島高(かやしま・たかし。1889~1956)証人の供述。
「旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。
商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった」
★特に悲惨を極めた旅館・近水楼での惨劇について、通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述。
「近水楼(きんすいろう)入口で女将(おかみ)らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙が掛けてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物で抉(えぐ)られたらしく、血痕が散乱していた。
帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。
女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。
折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。
帳場、配膳室では男1人、女2人が横倒れ、あるいは打つ伏しあるいは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉を刳(く)り貫かれ、上半身は蜂の巣のようだった。女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。
階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突(しとつ。突き刺すこと)の跡を見た。
1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素(す)っ裸の死体があった。
その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。
南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」
●「7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中(こうちゅう)に土砂(どしゃ)をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。」
★支那駐屯歩兵第2連隊小隊長として7月30日、連隊主力と共に救援に赴いた桜井文雄証人の供述。
「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間(すうけん)間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極(きわ)みに達した。
「日本人はいないか?」
と連呼(れんこ)しながら各戸(かくこ)毎(ごと)に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここの埃箱(あいばこ。ゴミ箱)の中や壕の中から続々出てきた。
ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。
旭軒では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中(こうちゅう)に土砂(どしゃ)をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。
東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家6人数珠(じゅず)繋(つな)ぎにして引き回された形跡歴然(けいせきれきぜん)たる死体があった。
池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」
★事件現場に立ち会った佐々木到一(ささき・とういち)氏の手記。
「……邦人に対して残虐の手を加え、その老壮(老人と壮年)男女16人が惨死体となってあらわれたのである。
予は病院において偶然その死体を実見したのであるが、酸鼻(さんび。むごたらしく痛ましいこと)の極みだった。
手足を縛り、手斧(ておの)様のもので頭部、面部に斬撃(ざんげき)を加え、あるいは滅多(めった)切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。
ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。
焼け残りの白足袋で日本婦人たることが判ったような始末である」
●「女の全裸死体が放置され、全員の陰部が刃物で抉(えぐ)られ、あるいは男は眼を抉られ、カフェでも女店員が絞殺され、全裸のまま死体を放置してあった。」
★救援に駆け付けた第2連隊が見た惨状
浜田巡査宅では、長女が手榴弾(てりゅうだん)で吹き飛び、長男は銃剣で刺され、夫人は凌辱(りょうじょく)された後、女子師範学校まで引き立てられたが、途中で逃げ出した。
付近の日本食堂では、男の子が壁に打ち付けられて、頭蓋骨(ずがいこつ)陥没(かんぼつ)の即死、5人の女店員は射殺されていた。
食堂・旭軒の女店員8人も強姦の後、裸体にされ、陰部には銃剣が差し込まれていた。
他の場所には、女の全裸死体が放置され、全員の陰部が刃物で抉(えぐ)られ、あるいは男は眼を抉られ、カフェでも女店員が絞殺され、全裸のまま死体を放置してあった。
ある店では、女店員全員が強姦され、陰部に箸(はし)が突っ込まれていたり、口の中に砂を入れられたりして殺されていた。
中には死体から内臓がはみ出し、蝿(はえ)が集った現場もあった。
通州の高級割烹(かっぽう)旅館だった「近水楼」では、女中4人が射殺後に凌辱(りょうじょく)され、天井裏に隠れていた宿泊客11人は北門付近まで数珠(じゅず)繋ぎにされて、連行されたあと虐殺された。
このとき同盟通信の安東利男記者が城外に転がり落ちて一命を取りとめ、北京まで這云(這う這う)の体(てい)で逃げた。
こうして保安隊は事前にリストアップしていた日本人の民家を次々と襲撃し、財産を横領強奪、片っ端から日本人を殺戮(さつりく)し、凌辱を重ねた。
逃げ遅れた日本人は、手足を縛られ鼻や喉を針金で突き通され、引き摺(ず)られ、二ヶ所に集められた上で射殺された。
日本軍守備隊に運良く逃げ込むことが出来た120人だけが助かった。
◆淫虐極まりない猟奇的な惨殺方法は、中国人の人の殺し方なのである。中国人お得意の惨殺パターンなのである。
この様な
「頭部切り落とし」
「眼球抉(えぐ)り取り」
「胸腹部断ち割り」
「内臓引き出し」
「陰部突き刺し」
「陰部に異物挿入」
「屍姦(しかん)」
などは、中国兵特有の酷(むご)たらしく淫虐(いんぎゃく)で、猟奇的な虐殺方法なのだ。
この様な猟奇的な殺害方法、処刑方法に聞き覚えはないだろうか。
昭和12年(1937年)12月の南京陥落当時も、その後も日本軍が民間人を何10万人も虐殺したなどという証言も報道もなされなかったにもかかわらず、昭和21年(1946年)から始まった東京裁判に於いて、突如として、ナチス・ドイツによるホロコースト、ユダヤ人大虐殺に類似した事例はないものかと、針小棒大に作り上げられた、いわゆる
「南京事件」
における被害者の殺され方そのものではないか。
「南京事件」における虐殺現場の証拠写真とやらも、南京とは無関係であったり、加害者が日本軍でないことが判明している写真なども増えている昨今である。
はっきり言うが、あの淫虐極まりない猟奇的な惨殺方法は、中国人の人の殺し方なのである。中国人お得意の惨殺パターンなのである。
https://www.youtube.com/watch?v=Qtkn0HZjpTo
https://www.youtube.com/watch?v=GHO-FJ1LO_g
http://blog.livedoor.jp/akio_hayashida/archives/1676864.html
◆本来日本人を守るべき中国人保安隊3千人が、日本人約420人を突然襲撃し、拷問あるいは強姦の末、約260人を惨殺した
中国によって、ユネスコの世界記憶遺産に登録された「南京大虐殺」に関しては、色々な意見が飛び交っている。
それはさておいて、あまりにも知られていないので、日中戦争、その後の大東亜戦争の契機となった、いくつかある日本人虐殺事件のひとつ
「通州(つうしゅう)事件」
を披露させて頂きたい。
この事件は、北京郊外の通州で、本来日本人を守るべき中国人保安隊3千人が、当時、現地に合法的に居住していた女性や老人、子供たちをふくむ日本人約420人を突然襲撃し、拷問あるいは強姦の末、約260人を惨殺した事件である。
さらに、その殺害方法の猟奇的残忍さが際立っていた。
この時、日本人虐殺の指揮をとった張慶餘(ちょう・けいよ)と張硯田(ちょう・けんでん)は、追撃してきた日本軍に襲われるや、部下を置き去りにし、民間人の服に着替えて逃亡、その後も戦争中を生き延びている。
「通州事件」は、日本の新聞各紙に詳しく報道されたため、日本人の怒りは頂点に達していた。
寛家(かんけ)流姓名学師範鑑定士・詠山史純(えいざん・ふみよし)氏のブログ
『華やぐ日々よ・・・詠山史純の愚考拙文録』
から、詠山氏の了解を得て、以下に掲載させて頂く。
以下、勝手ながら、読みやすさを優先させていただき、中見出しをつけ、「」をつけたり、ルビを増やしたり改行したり、難しい漢字をひらがなに書き改めるなどをさせて頂いた。
また、私は個人的には、「支那(しな)を使いたいのだが、一部、「支那」を「中国」に改めさせて頂いた。2013年に書かれた記事であることをお断りする。
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【日本人260人が惨殺された通州事件、支那人の猟奇的殺害事件・・・目撃者の極東国際軍事裁判に於ける宣誓口供書】2013-07-31
http://kannoeizan.blog111.fc2.com/blog-entry-409.html
●「盧溝橋事件」「通州事件」は、「支那(しな)事変(日中戦争)」の直接の導火線となる、決定的な重大事件であった
今から76年前の昭和12年(1937年)7月29日、北平(現在の北京市)の東約12kmに在った通県(現在の北京市通州区北部)には
「冀東(きとう)防共自治政府」
が置かれていたが、その中国人の保安隊約3000人によって、日本軍部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名が襲撃され、約260名が虐殺されたのが、世に言う
「通州(つうしゅう)事件」
である。
この「通州事件」が起こる3週間前の7月7日、北平(現在の北京市)西南方向の盧溝橋(ろこうきょう)で、北京議定書に基づき駐留していた日本軍と、蒋介石(しょうかいせき)率いる中国国民党の軍隊である国民革命軍第29軍との間で、
「盧溝橋(ろこうきょう)事件」
と呼ばれる軍事衝突が起きていた。
通州の「冀東(きとう)防共自治政府」自体は、親日的な政権であったというが、その政権の軍隊である保安隊は、国民革命軍第29軍の軍長・宋哲元(そう・てつげん)と内通していた模様で、
「盧溝橋で日本軍が国民革命軍第29軍に惨敗した」
とのデマに扇動され、日本人を襲撃したと言われている。
そして、この年の12月、日本軍は南京攻略戦を戦い、国民党一党独裁である中華民国の首都・南京を陥落させた。
いわゆる「南京大虐殺」という虚構は、昭和12年(1937年)冬から13年(1938年)春に掛けての、この南京陥落時の捏造(ねつぞう)話である。
南京を陥落させた6~7万人の日本軍兵士が人口20万人の南京で、30万人もの南京市民を虐殺したとされている大法螺(おおぼら)話である。
日本軍が南京を陥落させた後に、南京城内の人口が5万人増えているが、30万人を殺戮したとするならば、そんな地獄の都市に30万人+5万人で、35万人もの中国人がわざわざ南京に流入して来たということになる。
司令官から一兵卒に至るまでが6週間にわたって、獣のように嗜虐(しぎゃく)的に8万人の婦女子を強姦しては惨殺し捲(ま)くったということにもなっている。
歴史的経緯からすると結局、「盧溝橋事件」「通州事件」は、
「支那(しな)事変(日中戦争)」
の直接の導火線となる、決定的な重大事件であったことになる。
●「盧溝橋(ろこうきょう)事件」、「通州(つうしゅう)事件」、「第二次上海(しゃんはい)事変」、「首都南京攻略」という経緯は、中国を侵略するという目的ではなく、発端はあくまでも、日本人居留民保護のために止むを得ず、我が国政府が軍隊を増派(追加派遣)したということなのである。
「支那事変(日中戦争)」を単に日本が中国領土に侵攻したものと認識している日本人も多いようであるが、歴史的事実は決してそうではなかった。
1946年(昭和21年)までの中国には、
「租界(そかい)」
というものがあった。
「租界」というのは、清国とイギリスで戦われた「阿片(あへん)戦争」後の不平等条約によって、中国大陸各地の条約港に設けられた、行政自治権や治外法権を持つ外国人居留地のことで、20世紀の近代中国における、列強の半植民地支配の拠点であった。
中国に「租界」を有していた列強は、イギリスを始めとして、日本、アメリカ、フランス、ドイツ、オーストリア、ベルギー、ロシア、イタリアなどで、それぞれの国が自国の居留民保護のために軍隊を駐留させていた。
この外国人居留地は、列強が外交上の交渉で清国から得た権益で、後に中華民国に継承されたわけであるが、この治外法権を持つ居留地を、中国の官憲には保護する義務があったにもかかわらず、彼らは軍隊組織、警察組織としての体をなしておらず、彼ら自身が昭和2年(1927年)、日本人が虐殺された
「もう一つの南京事件」
や昭和12年(1937年)の
「通州事件」
など、凄惨極まりない日本人惨殺事件を引き起こしていた。
※「もう一つの南京事件」:昭和2年3~4月、南京・漢口を中心に揚子江流域各地で、中国軍兵および民間人による日本人襲撃事件が起きた。これらを「もう一つの南京事件」と言う。田中秀雄・編集『もう一つの南京事件、日本人遭難者の記録』(芙蓉書房出版)に詳しい。
我が国にもかつて、横浜や神戸に外国人居留地が存在した。
安政年間(1858年)に、江戸幕府の日米修好通商条約を始めとして、イギリス、フランス、ロシア、オランダと修好条約を締結した。
この
「安政の五カ国条約」
により、東京と大阪、箱館、神奈川、長崎、兵庫、新潟の5港を開港して、外国人の居住と貿易を認めた。
開港場としては、横浜と神戸のみであったが、居留地は長崎や築地などにも在り、外国人が一定区域の範囲で土地を借り、建物を購入し、あるいは住宅、倉庫、商館を建てることが認められ、治外法権とされていた。
日本の場合は条約改正の外交努力により、1899年には見事にすべて回収した。
日本と中国の全面戦争への道程として、「盧溝橋(ろこうきょう)事件」、「通州(つうしゅう)事件」、「第二次上海(しゃんはい)事変」、「首都南京攻略」という経緯は、中国を侵略するという目的ではなく、発端はあくまでも、日本人居留民保護のために止むを得ず、我が国政府が軍隊を増派(追加派遣)したということなのである。
たとえて言えば、幕末、居留地を守るべき幕府の軍隊が治外法権を持つ横浜の居留地に侵入し、小規模のイギリス軍を撃破、略奪の上、外国人に陵辱(りょうじょく)を加え、虐殺したとする。
更に、居留地は幕府の大部隊に包囲された状態が続くとする。当然、イギリス本国政府は自国民保護のために艦隊を派遣し、陸兵も増派する。
増強されたイギリス軍と幕府軍との交戦があり、幕府軍は江戸に潰走した。そこで、イギリス軍は禍根(かこん)をたつために、江戸府内にまで追撃し、幕府軍を江戸から駆逐したとしよう。
要するに、日支の武力衝突が泥沼の戦争状態にまで発展した構図というのは、正にこういうことであったわけなのである。このたとえ話の江戸が、実際の「日中戦争」においては南京であった。
●1000人の中国人と500人の朝鮮人によって、尼港在住の日本人約800人が陵辱(りょうじょく)の上、虐殺された「尼港(にこう)事件」も殆ど世に知られてはいない。
昭和12年(1937年)12月に日本軍が陥落させた南京で大虐殺が行われたという
「南京事件」
は日中両国で語られることはあっても、昭和2年(1927年)3月に、蒋介石(しょうかいせき)の北伐軍が南京に攻め込んだときに日本人が虐殺された
「もう一つの南京事件」
も
「済南(さいなん)事件」
も語られることは皆無に等しい。
また、大正9年(1920年)には、「日華共同軍事協定」を結んでいたにもかかわらず、尼港(にこう。現在のロシア極東部ニコラエフスク・ナ・アムーレ)に停泊中の四隻の中国艦隊は、日本軍の兵舎領事館を砲撃、更に、1000人の中国人と500人の朝鮮人によって、尼港在住の日本人約800人が陵辱(りょうじょく)の上、虐殺された
「尼港(にこう)事件」
もほとんど世に知られてはいない。
日本の外務省、教育界やマスメディアがいかに、反日左翼の北京派売国奴に占拠されているかの証である。
昭和12年(1937年)7月29日の
「通州(つうしゅう)事件」
に至っては、東京裁判で、裁判長ウェッブはいわゆる「南京事件」なるものの中国側の公式資料は証拠として採用したにもかかわらず、日本国の弁護側が「通州事件」に関する外務省の公式声明を証拠として提出したが、ウェッブに却下されているのだ。
東京裁判に於いて、中国の残虐な犯罪が明らかになることは、正義を装う連合国側には不利益であったから、というわけなのだ。
しかし、その際に、通州事件の虐殺現場を目撃した証人の「宣誓口供書」は受理され、記録は残っている。
●「階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突(しとつ。突き刺すこと)の跡を見た。」
★天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長で、事件の翌日30日、通州に急行して邦人救援に当たった萱島高(かやしま・たかし。1889~1956)証人の供述。
「旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。
商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった」
★特に悲惨を極めた旅館・近水楼での惨劇について、通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述。
「近水楼(きんすいろう)入口で女将(おかみ)らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙が掛けてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物で抉(えぐ)られたらしく、血痕が散乱していた。
帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。
女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。
折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。
帳場、配膳室では男1人、女2人が横倒れ、あるいは打つ伏しあるいは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉を刳(く)り貫かれ、上半身は蜂の巣のようだった。女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。
階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突(しとつ。突き刺すこと)の跡を見た。
1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素(す)っ裸の死体があった。
その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。
南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」
●「7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中(こうちゅう)に土砂(どしゃ)をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。」
★支那駐屯歩兵第2連隊小隊長として7月30日、連隊主力と共に救援に赴いた桜井文雄証人の供述。
「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間(すうけん)間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極(きわ)みに達した。
「日本人はいないか?」
と連呼(れんこ)しながら各戸(かくこ)毎(ごと)に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここの埃箱(あいばこ。ゴミ箱)の中や壕の中から続々出てきた。
ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。
旭軒では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中(こうちゅう)に土砂(どしゃ)をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。
東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家6人数珠(じゅず)繋(つな)ぎにして引き回された形跡歴然(けいせきれきぜん)たる死体があった。
池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」
★事件現場に立ち会った佐々木到一(ささき・とういち)氏の手記。
「……邦人に対して残虐の手を加え、その老壮(老人と壮年)男女16人が惨死体となってあらわれたのである。
予は病院において偶然その死体を実見したのであるが、酸鼻(さんび。むごたらしく痛ましいこと)の極みだった。
手足を縛り、手斧(ておの)様のもので頭部、面部に斬撃(ざんげき)を加え、あるいは滅多(めった)切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。
ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。
焼け残りの白足袋で日本婦人たることが判ったような始末である」
●「女の全裸死体が放置され、全員の陰部が刃物で抉(えぐ)られ、あるいは男は眼を抉られ、カフェでも女店員が絞殺され、全裸のまま死体を放置してあった。」
★救援に駆け付けた第2連隊が見た惨状
浜田巡査宅では、長女が手榴弾(てりゅうだん)で吹き飛び、長男は銃剣で刺され、夫人は凌辱(りょうじょく)された後、女子師範学校まで引き立てられたが、途中で逃げ出した。
付近の日本食堂では、男の子が壁に打ち付けられて、頭蓋骨(ずがいこつ)陥没(かんぼつ)の即死、5人の女店員は射殺されていた。
食堂・旭軒の女店員8人も強姦の後、裸体にされ、陰部には銃剣が差し込まれていた。
他の場所には、女の全裸死体が放置され、全員の陰部が刃物で抉(えぐ)られ、あるいは男は眼を抉られ、カフェでも女店員が絞殺され、全裸のまま死体を放置してあった。
ある店では、女店員全員が強姦され、陰部に箸(はし)が突っ込まれていたり、口の中に砂を入れられたりして殺されていた。
中には死体から内臓がはみ出し、蝿(はえ)が集った現場もあった。
通州の高級割烹(かっぽう)旅館だった「近水楼」では、女中4人が射殺後に凌辱(りょうじょく)され、天井裏に隠れていた宿泊客11人は北門付近まで数珠(じゅず)繋ぎにされて、連行されたあと虐殺された。
このとき同盟通信の安東利男記者が城外に転がり落ちて一命を取りとめ、北京まで這云(這う這う)の体(てい)で逃げた。
こうして保安隊は事前にリストアップしていた日本人の民家を次々と襲撃し、財産を横領強奪、片っ端から日本人を殺戮(さつりく)し、凌辱を重ねた。
逃げ遅れた日本人は、手足を縛られ鼻や喉を針金で突き通され、引き摺(ず)られ、二ヶ所に集められた上で射殺された。
日本軍守備隊に運良く逃げ込むことが出来た120人だけが助かった。
◆淫虐極まりない猟奇的な惨殺方法は、中国人の人の殺し方なのである。中国人お得意の惨殺パターンなのである。
この様な
「頭部切り落とし」
「眼球抉(えぐ)り取り」
「胸腹部断ち割り」
「内臓引き出し」
「陰部突き刺し」
「陰部に異物挿入」
「屍姦(しかん)」
などは、中国兵特有の酷(むご)たらしく淫虐(いんぎゃく)で、猟奇的な虐殺方法なのだ。
この様な猟奇的な殺害方法、処刑方法に聞き覚えはないだろうか。
昭和12年(1937年)12月の南京陥落当時も、その後も日本軍が民間人を何10万人も虐殺したなどという証言も報道もなされなかったにもかかわらず、昭和21年(1946年)から始まった東京裁判に於いて、突如として、ナチス・ドイツによるホロコースト、ユダヤ人大虐殺に類似した事例はないものかと、針小棒大に作り上げられた、いわゆる
「南京事件」
における被害者の殺され方そのものではないか。
「南京事件」における虐殺現場の証拠写真とやらも、南京とは無関係であったり、加害者が日本軍でないことが判明している写真なども増えている昨今である。
はっきり言うが、あの淫虐極まりない猟奇的な惨殺方法は、中国人の人の殺し方なのである。中国人お得意の惨殺パターンなのである。
https://www.youtube.com/watch?v=Qtkn0HZjpTo
https://www.youtube.com/watch?v=GHO-FJ1LO_g