【戦争を仕掛けられない為に高虎と清正に学ぶ】
城を決定付ける要素は三つ。高虎の高さ!清正の反り!
そのひとつが石垣である。熊本城の石垣の特徴はなんと言ってもその反りにある。下部は緩やかな勾配から上部に上がるにつれ傾斜はきつくなる。その石垣は「武者返し」と称された。一方、藤堂高虎が築いた城で、最も有名な石垣が伊賀上野城の高石垣である。その高さは、水面からおよそ30m近くある。本来、地盤の弱い水堀からの立ち上げは至難の業。それを可能にし高石垣を築く技術で高虎の石垣は日本一の高さを誇った。
複雑か?単純か?究極の二択!
二つ目は城の設計図となる縄張り。
清正の熊本城は何重にも折れ曲がった複雑な設計。これは篭城戦の際に抜群の効果を果たす。清正は朝鮮出兵の際に、食料もなく凍える寒さの中で篭城戦を経験。その教訓から、複雑な縄張りを敷き、城内に幾つもの井戸を掘った。一方の高虎は、ビジネスライク。シンプルな縄張りにすることで、守りのポイントを明確にし、城内の居住空間を確保する設計であった。清正の縄張りはあくまで戦いを想定し、高虎の縄張りは実務を想定している。.
三つ目は城のシンボルとなる天守。
熊本城の天守は黒。今治城の天守は白。これは、当時の防火技術などの違いであり、柿渋や漆を塗ってできた黒壁と、石灰を焼く白土焼きを用いた白壁である。しかし、これは技術の進歩を表すだけではない。黒は豊臣の城であり、白は徳川の城であることを意味している。大阪城は当初、黒壁であったが、徳川の天下となり再建された際に白壁に塗りなおされた。天守はまさに天下の移り変わりを象徴しているのである。記事画像シェア元 http://www.bs-tbs.co.jp/rival/bknm/47.html
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高虎は落城さえしなければ負けはないと、当時日本一の石垣を誇る城を建設。時代は変われども、我が国の防衛も基本は同じでしょう。
あの時代をいまに置き換えると、
①仮想敵国に即応できる通常兵器と人員確保。核兵器を無力化する防衛装備。(人員確保は高倍率の志願から問題なし)
②自尊自衛の精神に基づき、同盟・親日国と共に国際平和維持活動、友好と絆の強化。(安倍総理が耕された友好国に対し積極的な育成に取り組む)
③天皇陛下を我が国の平和の象徴とし、世界に誇る技術者育成と防衛装備を扱う者の練磨。(予算の確保)
※我が国の内政破壊を試みる、外国人議員の排除。
要するに、戦を仕掛けても無駄だと、相手に思わせる事。
苔が生しても、永遠に続く国家へ!皆さんと誘いたいですね。/(^_^)敬礼!
・・・・・・参考資料・・・・・・・
藤堂高虎がかかわったとされる城
•出石城(1583年、天正11年)
•大和郡山城(1585年、天正13年)
•京都聚楽第(1586年、天正14年)※秀吉の命により縄張り
•粉河城(1587年、天正15年)※秀吉から紀伊粉河1万石を与えられ、猿岡山に城を築く
•赤木城(1589年、天正17年)
•伏見城(1594年、文禄3年)※秀吉の命により助工
•宇和島城(1596年、慶長元年)※宇和郡7万石の領主として起工
•伊予大洲城(1597年、慶長2年)※大洲1万石の加増を受け、城を築く
•順天倭城(1597年、慶長2年)※慶長の役で朝鮮に宇喜多秀家らと城を築く
•膳所城(1601年、慶長6年)※家康の命により築城助工および縄張り
•甘崎城(1601年、慶長6年)※大改修
•灘城(1601年、慶長6年)※大改修
•今治城(1602年、慶長7年)※伊予半国20万国の領主として起工
•伏見城(1602年、慶長7年)※修理助役
•江戸城(1606年、慶長11年)※幕府の命により江戸城大修理の縄張り
•津城(1608年、慶長13年)※伊勢・伊賀22万石、津城の大改築を行う
•伊賀上野城(1608年、慶長13年)※大改修
•丹波篠山城(1609年、慶長14年)※家康の命により縄張り
•丹波亀山城(1610年、慶長15年)※家康の命により普請の手伝い
•二条城(1619年、元和5年)※幕府の命により縄張り
•和歌山城(1619年、元和5年)※幕府の命により石垣工事
•大坂城(1620年、元和6年)※修復
•淀城(1623年、元和9年)※秀忠の命により普請の手伝い