ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

第19代 口上名人位は吉岡久子さん  

2013-01-16 | ガマの油口上 技法

第19代 名人
  第18代の岡野寛人さん(当時95歳)の指名によって、2003年11月22日(土)女性名人・吉岡久子さん(襲名時79歳)が第19代の名人を襲名した。
  
 吉岡さんは、筑波山神杜近くのホテル・江戸屋の大おかみである。
筑波山観光に奔走した今は亡き夫の身近で、ガマの油売り口上に接する機会が多く宴会の席などで見ているうちに、いつの間にか覚えてしいまい、口上歴は60年に及ぶ文字通り名人である。
 吉岡名人は筑波山観光のため大活躍されたが、2011年9月15日、金野龍一さんが第20代名人位を相続した。


      
        (2010年6月 ガマ口上保存会総会で) 

            

        (2011年6月 ガマ口上保存会総会)

 

       
  
                       吉岡名人、心得について講話        
      

 
 筑波山に伝わる「ガマの油の由来」について、筑波山ガマの油売り口上の第19代名人 吉岡久子さんが書かれた『常陸の国 ガマの油の由来』を紹介する。
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常陸の国 ガマの油の由来

 筑波山は古代より、神の住む尊い山として多くの人に信仰されてきた。徳川家康は江戸より北の方にそびえている筑波山が鬼門に当たるとして筑波山を徳川家の祈祷所として定め寺領五百石を知足院中禅寺に寄進した。  

 大阪冬の陣、夏の陣のとき筑波山中禅寺の住職光誉上人は徳川方として従軍し陣中で戦勝祈願のお祈りをしたり、戦死者の供養をし、更にケガ人の手当てにも精を出し、キズ口に塗った秘伝の膏薬が実によく効いた。出血は止まったし、痛みもスーッと引いた。キズ口のふさがるのも早かった。「あの坊さんの薬はよく効くぞ」と評判が兵士たちの間に広まった。  

 「なんとなくガマのような顔をしちゃ坊さんだよ」「ガマ上人だな」
 光誉上人は膏薬を貝殻に詰めて気前よく兵士たちに分けてやった。 

「ガマ上人の油薬はよく効くぞ」という評判はますます高くなり、それがいつのまにか省略されて「ガマの油はよく効く」と言われた。 

 光誉上人の死後、七、八十年たったころ、山麓の永井兵助(ひょうすけ)という百姓のせがれがいた。「なんとかして大金持ちになりたい」と強い欲望から「ひとつ筑波山の神様に願いをかけてみよう」と山頂のガマ石のところで7日間座禅を組み、ありったけの知恵を絞って宣伝文句を考えた。それから数日たった時、兵助は江戸の町に立っていた。
                   政府登録国際観光旅館 筑波山 江戸屋 吉岡久子
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「あすへの言葉」のインタビューを受けて第19代名人が語られた『“私と”ガマの油売り”口上』を転載する。
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「あすへの言葉」 
  吉岡久子(老舗旅館女将)“私と”ガマの油売り”口上
                       2014年2月7日(金曜日)
 昔懐かしいガマの油売り口上、路上からはすっかり姿を消してみられなくなっていますが、発祥の地とされる筑波山の地元では、ガマ口上保存会が作られ、伝承芸能として市民たちの間で受け継がれています。ガマ口上19代名人吉岡さんは、91歳、筑波山中腹にある老舗旅館の大女将です。お客さんの要望があればガマの油売りの口上を、披露し、宿泊客を喜ばせています。

 江戸時代、筑波山の長井村の兵助が陣中ガマの油を販売したその口上が人気を呼んで、この芸が誕生したといわれます。陣中ガマの油については400年前に大阪冬の陣で戦場で負傷した武士の切りっ傷、擦り傷、血止めとして、筑波山のガマの油が使われて、評判となったことから陣中という言葉が付け加えられたと言う、言い伝えもあります。ガマの口上で60年以上宿泊客をもてなす、吉岡さんにお聞きします。  

 口上歴は60年以上になる。奉天から引き揚げてきてからずーとやっている。主人は中国で身体を壊すが、命はあって帰ってきた。旅館なので朝は早く、夜は遅いので商売はきついので、市長から主人は役場に呼ばれて働くようになった。

 終戦まもなく地元に名物を作ろうと、落語家の春風亭柳好を呼んで、ガマの油売りの口上を聞かせたいと、毎月来てくれ、皆が聞いた。それを私が主人からやるように言われて、「はい」と答えるしかなかった。 

 テープに取って聞いて勉強する。自分の好きなようにやれと師匠からはいわれた。旅館では、お客さんがおいでになったら聞かせるようにした。今でも希望があればやる。2000年に第19代名人になる。口上保存会では若い人が増えて、100名以上になる。

 始めた当時はまだ誰もやっていなかった。18代は小学校の校長先生で私と一緒にやっていた。初代(兵助)江戸の街中でやっていた。 

  落語ではガマの口上をやっていた。春風亭柳好の十八番になっていた。 しろくのガマ 前足の指が4本 後ろ足の指が6本 と成っている。

 旅館は寛永5年の創業。主人は筑波の観光協会の会長をやっていて一つの目玉にしたかった。紙を取り出して、1枚が2枚、2枚が4枚と刀の切れ味を示すが、紅を刀にちょっとつけておきそれを腕に付ける。口上の文句が長くて身体にも良い。  

 保存会のメンバーが筑波山神社へ行ってやっている。力を入れるところ、文句を早める、しっかりゆっくりやるところとか、大きな声を出すところとかはっきりと声を出す。岡野先生 18代名人 102、3歳までやっていた。
                                           〔終〕


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