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幕末・維新期における水戸藩の脱落と水戸天狗党挫折の背景

2015-04-29 | 茨城県南 歴史と風俗


薩長土肥が
  幕末・維新で活躍を可能にした藩政改革
 
  
 
一般に雄藩といえば、大藩あるいは有力な藩という意味で使われるが、雄藩の拾頭とか西南雄藩などという場合は、幕末、維新の政局のなかで主導権をにぎった藩であり、討幕派として幕藩体制の主権者である江戸幕府とはっきり政治的に対決できた藩をさしている。

 このような雄藩が天保期から拾頭してくる背景は何か、またそれが天保改革の過程から生まれてくるとすれば、当時多くの藩で改革が断行されたにもかかわらず、なぜ特定の藩だけが雄藩となりえたのであろうか。

 その可否は、一つには改革によって藩がどこまで絶対的権力を握る可能性をつかんだか、他の一つはその強化された藩の権力を、押し寄せる外的に対する危機の認識にもとづいて、軍制改革をどこまで徹底できたかにかかっている。 
 
 大塩平八郎の乱を初めとする各地の百姓一揆は、封建体制の危機の深刻さを示すものであり、それは、単に倹約とか士風刷新というような消極的な対策ではどうにもならず、貧乏のどん底にある中・下層の農民の没落を防ぐ抜本的対策が求めらることになった。 

 この時代、商品経済の発展で、幕末に活躍した薩長土肥の4つの藩といえども、それぞれ莫大な借金を抱えていた。これらの藩に共通して見られることは、思い切った財政改革と経済政策で藩の借金を解消し、特産品の保護育成に努めるなど藩の財政を再建している。

 これと並行して、この頃、アヘン戦争で清が英国に敗北したことに危機を覚え軍事改革にも取組んでいる。このことは、幕末に薩摩と長州は英仏軍と戦火を交えて、これらの藩は、戦いには負けたが、英仏軍に相当の打撃を加えたこともに現れている。
  
        水戸藩は学問には強かったが、
          世の流れに対応できなかった
    
      
        

中途半端に終った水戸藩の改革 
 大塩平八郎の乱の翌年(1838年)、藩主の水戸斉昭は将軍家慶に建白書を呈し、改革を進言している。「近年参州(三河一揆のこと)・甲州(郡内騒動のこと)の百姓一揆徒党を結び、又は大阪の奸賊容易ならざる企仕り、なお当年も佐渡の一揆御座候は、畢竟下々にて上を怨み候と上を恐れざるより起こり候」と民衆暴動の世直しの兆しを極度に恐れている。

 加えて外からの外圧は、大塩の乱と同じ年、浦賀に来航したアメリカのモリソン号によって一層、緊迫してきた。外交政策や海防政策を巡って幕府と同じく藩内でも意見の対立をもたらした。内憂外患で危機感は一層深刻なものになった。

〔貧乏の藩に無能な老臣が跋扈〕 
 
水戸藩でも9代藩主徳川斉昭(烈公)のもとで天保改革が実施され、それがその後の藩の政治的動向に大きく影響することになった。尊皇攘夷の震源地として明治維新でも特異な地位を占めた。 

 水戸藩は、表高35万石の水戸藩はいうまでもなく御三家の一つで、副将軍の家格を呼称した名門であるが、貧乏藩という点でも全国屈指であった。紙、煙草、紅花、コンニャクなどの特産品もつくられたが、その総額は明治初年においても米・麦・大豆などの普通農産物 88%に対して、わずかに 21%のわく内にとどまっていた。

 水戸藩の天保改革の出発点は、藻主の継嗣問題であった。1829(文政12)年秋、藩主斉修(なりのぶ)が他界したが、あとつぎがなかったので、老臣たちは斉修の病気が重くなると、幕府の実力者水野忠成と結託して、将軍家斉の第20子・清水恒之丞をむかえ、つぎの藩主にしようとした。

 子福者の将軍家斉のおこなった子女分策の一例であるが、家老たちが、斉修の弟敬三郎(斉昭)という適任者がいるのに支持しなかったのは、かれの英才実行力を恐れたためである。 


〔農民の反抗を恐れ農民には厳しかった〕 
 
この保守的老臣の計画に真っ向から反対したのは、立原翠軒(すいけん)・藤田幽谷の両学派に属し、水戸学の影響を受けた藩士たちで、水戸学の聖典といわれた「新論」の著者会沢正志斎や幽谷の子藤田東湖らがその代表であった。

 結局、斉昭をあとつぎとするという斉修の遺書も発見されたので、同年11月、斉昭の藩主就任が実現した。ときに斉昭は30歳であり、長い部屋住み生活をようやく清算することができたのである。 

 こうして新藩主斉昭のもとで天保改革のスタートしたが、改革派は郡奉行に起用された東湖、正志斎を中心に、文武奨励・富国強兵・農民支配政策と各方面にわたって藩制の危機克服にのりだした。 

 後期水戸学の改革論は、儒教の「愛民」思想にもとづいた徳治主義をかかげて、攘夷論、尊王敬幕論あるいは武士土着諭などの多彩な議論を展開したが、その基底には「外冠」とならんで「内患」である農民の反抗をおさえるために藩体制を強化しようという狙いがあった。 


〔民生の安定より財政改革を優先した〕 
 1839
天保10)年から4年問にわたって実施された検地と均田政策は、百姓一挨の蜂起を恐れながら、富有者の「廿人卅人ハ首をはね」る強硬な決意のもとに強行された。

 それと同時に検見制をやめて定免制を実施し、年貢以外の悪名高い附加税も廃止した。その結果、打出しは従来の表高より6万石余も減少したが、そのかわり総石高の半ばに近い畑の石代納(貨幣その他による代納)を一挙に倍増したため、年貢収入はわずか1000両の減額にとどまった。このため検地は民生の安定よりも、むしろ藩財政の安定に有効なはたらきをしたのである。 


〔領内の商品生産が衰退した〕 
 
専売制の再編成もまた、その目的から出発している。これまで紙・煙草・こんにゃくなど 34 種の国産品は、江戸.大坂の豪商にその専売権を与えていたが、天保元年に藩の専売機関である物産方をおき、江戸邸内に会所を設けて国産品を集荷・販売させる方針に改めた。

 しかし藩専売制への切替えにより統制が強化された結果、領内の商品生産が衰退したため、ついに1845(弘化2)年に藩専売は廃止された。 


〔軍備の改革に取組んだが〕
 
内政改革と平行して軍備の増強も推進された。鉄砲の鋳造・銃砲隊の強化など、軍備の技術的改変がおこなわれ、ここでも高島流の洋式兵学が指導的な役割を果たした。  

 斉昭は幕府に大船建造の解禁を建白しているが、かれ自身も蘭書にもとづいて軍艦建造に着手している。また軍備の技術的改善にとどまらず、1836(天保7)年から水戸学の主張を実行に移して、海防を目的とする藩士の土着も始められている。 


〔藩の内紛〕
 
しかし水戸藩では、改革派同盟が天保改革の進行にともない、内部の利害が対立して分裂し、そのうえ対外危機の急追によって拍車を加えられたため、血で血を洗う家中内部の政権争いに陥った。
 このため政経・軍事のすべてにわたる挙藩的な体制はついに確立されないで終わった。
 これが雄藩の一つである水戸藩をして、幕末政局から落伍させる要因となった。 


水戸藩が幕末政局から脱落し
  天狗党挙兵が失敗した原因 
 第1に水戸藩は、西南雄藩とちがって幕府にもっとも近い御三家であることが、幕府に対するその政治的立場を暖昧にしたということである。 それには尊皇敬幕を本旨とする水戸学の名分論の影響を無視することができない。 

 第2は、西南雄藩では検地・均田法や抑商政策などをつらぬく藩権力の集中・強化の方向が、その後の幕末の藩政改革においても基本路線として維持されたのにたいし、水戸藩ではそのような天保改革の目標が、倭小化された党争のなかで見失われてしまったことである。 
 民間の富の所有者である豪農商の把握は不十分であり、商品生産も不徹底であった。 

 第3に水戸天狗党の挙兵・進軍は、浪士の戦であって、農民や商人などの支持を受けた反乱ではなかったということである。

 彼らは主義に殉じたのであって、農民や商人など一般民衆のために決起したのではなかった。戦うための軍資金や食料は現地居住民からの“徴収”で賄うということになるが、戦場や進軍の経路沿いの居住民からみれば、“集団強盗”と言っても差し支えなかった。       

    
              
      
 
田中愿蔵隊が陣取った神郡の普門寺
  筑波勢の中で一方の将として重きをなしていた田中隊は、放火、掠奪、殺戮などやりたい放題のことをやった。
      

 千葉県の佐倉惣五郎のように農民から義民と慕われるような人々の集団ではなかった。
 戦場の住民を敵にまわし、水戸藩内部が分裂抗争し、一橋慶喜からも支持されていない以上、戦いが挫折するのは当然の帰結であった。



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