ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

頭山 満述『藤田東湖』(5) 正氣の歌、東湖の死

2020-04-24 | 茨城県南 歴史と風俗

  
   頭山満述『英雄ヲ語ル』「藤田東湖」(5)
 

  


   正氣の歌

 
天地正大の氣            粹然として神州に鐘(あつま)る、
秀でては富士の嶽となり、      巍々(ぎぎ)として千秋に聳ゆ、
注いでは大瀛(だいえい)の水となり、    洋々として八州を環る、
發しては萬朶の櫻となり、      衆芳與に儔(たぐ)ひし難し。
凝っては百錬の鐡となり、      鋭利鍪(かぶと)を断つべし、 
藎臣(じんしん)皆な熊羆(ゆうひ)           武夫盡く好仇、
神州誰れか君臨す、         萬古天皇を仰ぐ、
皇風六合(りくがふ)に洽(あまね)く          明徳大陽に侔(ひと)し、
世汚隆(をりゅう)なくんばあらず、     正氣時に光を放つ、
(すなわ)ち参す大連議、          侃々(かんかん)として瞿曇(くどんを排す、
(すなわ)ち助く明主の断、       焔々として伽藍を焚く、
中部嘗て之を用ひ、         宗社盤石安し、
清麿嘗て之を用ひ、         妖僧肝寒し、
(たちま)ち揮(ふる)ふ龍の口の劍、     虜使頭足分る 
忽ち起る西海の颶、         怒涛妖氛を殲(ころしつく)す、
志賀月明夜、               陽(いつわり)に鳳輦(ほうれんの巡をなす、
芳野戦酣(たけなわ)なるの日、        又代る帝子の屯、
或は投ぜられ給ふ鎌倉の窟、      憂憤正に愪々(うんうん)
或は件ふ櫻井驛、           遺訓何ぞ懃慇なる、
或は徇(したが)ふ天目山、           幽囚君を忘れず、
或は守る伏見の城、                一身萬軍に當る、
承平二百載、                   斯の氣常に仲ぶるを獲たり、
然れども其鬱屈するに當っては、四十七人を生ず、
(すなわ)ち知る人亡ぶと雖も、     英靈未だ嘗て泯びす、
長く天地の間に在り、              凛然として彜倫(いりんを叙す、
誰れか能く之を扶持す、             卓立す東海の濱(ひん)
忠誠皇室を尊び、                孝敬天神に事ふ、
修文と奮武と、                 誓て胡塵を清めんと欲す、
一朝天歩艱み、                 邦君先づ身淪(しづ)
頑鈍機を知らす、                罪戻孤臣に及ふ、
孤臣葛藟(かつるゐ)に苦む、                  君寃誰に向ってか陳べん、
孤子憤墓遠し、                 何を以てか先親に報ぜん、
荏苒(じんぜん)二周星、                    獨(ひと)り斯る気の随ふあり、
(あゝ)予萬死すと雖も、                豈(あに)(なんぢ)と離るるに忍びん
屈伸天地に付す、               死又何をか疑はん、
生きては當(まさ)に君寃を雪(すす)ぐ可く  復見ん四維の張るを、
死しては忠義の鬼となり               極天皇基護らん。 

  

    

東湖の死
 安政二(1855)年十月、所謂安政の大地震は、一代の人傑東湖を奪ひ去った、五十一歳であった。東湖の知己、藤森天山は、東湖の死に就いて左の如く記して居る。

 十月朔日、安井息軒、蕎を振ふとて、平常交る、友、藤田、鹽谷甲蔵、吉野金陵等を會して、各興に入り、激談時を移し、碁を圍みけるに、藤田此夜は数局負け、常にかはり何となく愁然として深更退散しけるに、翌二日夜大地震にて壓死し、此集曾、永訣となれり。云々。

 更に記して、
 藤田見廻遣し候、外にて承り候處、一旦お袋の手を引懸出候處、お袋火の上へ土瓶を載せ候を忘れたりとて、懸込候間、危しとて後より懸込み抱き出さんとして、棟木に打たれたれども、お袋を抱きかばひける處、お袋は脱け出て助かり、東湖は其のまま、ひしげ候由とあり。

 東湖は身を以て老母を庇ひ、つひに此難に遇ったものである。
  


   


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