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高須芳次郎著『水戸學精神』 第三 水戸義公の思想と人物  (三) 大義名分主義による「大日本史」(四 )義光の一生 

2022-08-24 | 茨城県南 歴史と風俗

  高須芳次郎著『水戸學精神』 
               



第三 水戸義公の思想と人物  




 (三) 大義名分主義による「大日本史」 
 

  義公が、その一生中に為した仕事は、いろいろあって、政治上においても目ざましい改革を斷行している。この一事についても亦傳ふべへきことが少なくない。けれども彼の生命を不朽ならしめたのは、その文化事業に、精沖を打ちこみ、「大日本史』を編纂した事によるところが最も多いと思ふ。 

 義公が修史の忐を起したのは、十八歲の時であるが、愈々それを實現したのは、三十歲の時だった。それについて、彼は、厚俸を以て、有力な學界を四方から招聘し、最高四百石、少いのも、百五十石を下らなかった。
 その中、二百石を支給せられたものが六十人位あったといはれる。この點で、義公は先づ經濟上でも、多大の犠牲を拂った。次ぎに修史の方針を定め、史料の蒐集なども力を入れることについても、義公が、その全心を傾倒したのである。

 當時、『大日本史』に先立って出た『本朝通鑑』は、官學の中心勢力だった林家で編述され、羅山•龍峰らが十分に力を入れたのである。而もその修史の方針を見ると、甚だ不徹底なところがあった。

 例へば
(一)日本皇室の祖先を支那に於ける聖人、呉の太伯だと斷定した事
(二)吉野朝・京都がたの正閏について、正確な見解を示さなかった事などが、それである。

 その時分、日本の學者中にも、支那崇拜の傾向が強かったので、支那の聖人といはれた呉の太伯を日帝室の祖先とする事が、日本のためにもよいといふ風に考へたのだ。即ち國家的見地に立つのを忘れて、徒らに支那崇拜の弊害を露骨に表示したのである。いひかへると、それは全く日本の國體観念を喪失した行き方だった。

 義公は、かうした 大きい欠点について多大の不滿を感じ、何を措いても、林家の誤った見方を打破り、同時に日本國體の尊厳を明かにしようと志した。故に彼の修史に於ける純正日本的な傾向があった。

 次ぎに吉野朝正位說は、久しく學者間に問題となってゐたわけで、明治に入つてからも、この點に關し、諸學者が論爭したことさへもある。『本朝通艦』では、後醍醐天皋の御代に限って、吉野期を正しいものとした。

 ところが、義公は、『本朝通鑑』のやうな微温的な態度はっきりしない行き方を非とし、神器の所在によって正閏を決定する立場により、吉野朝を正とした。この點、林羅山もいくらか考へておらぬのではなかったが、流石に決定的な勇気を持たない為め、勢ひ微温的となった。義公になると、『西山公随筆』に示してゐるやうな理智の冴えを持つてゐたから、少しも躊躇しない。

 以上の如く、吉野朝・京都がたの正閏を決定した。
 この事は、『大日本史』の三大特筆の一つで、他の二つは、神功皇后を后妃傳に列した事、大友皇子の御傳を天皇紀中に加へた事だった。
 神功皇后は女性の身で、新羅を征伐され、國威を海外に示されたといふので、『扶桑略祀』の如きは、天皇の紀中に加へまゐらせた。『日本書紀』も、仲哀紀・應神紀の間に、神功紀を入れた。

 以上の點について、 義公はこれを妥當でないと考へた。
 その理由は、皇后は御姙娠の時、御出征、新羅から帰朝されて皇子を出產されたこと、六十九年間、攝政の職にをられたことなどによるので、つまり、皇子が生れられると同時に、當然、それを皇位に即けまゐらすべきだとした。
 即ち名分・義理の上で、神功皇后を后妃傅忙入れるのが當然だと信じて、特筆したのである。

 次ぎに大友皇子を天皇紀中に入れた理由は、皇子が天智天皇の崩御に先立って東宮となり、次いで帝位に即かれたからでわる。かうした事實があるに關らず、在來の史書は、天智天皇の次ぎに、天武天皇の事を記述し、大友皇子を閑却してゐた。
  
 義公は、これを不合理として、大友皇子も天皇紀に加へ、特筆したのである。即ち今日、弘文天皇と呼ぶのが、大友皇子のことで、その他、義公は、淳仁・仲恭二帝のために、一紀を立てた。
 かの長慶天皇のことについても、髙野山文書などを新たに發見して、その御在位を明かにしたなど、修史上貢献するところが多い。

 それから、大義名分を史實によって明かにし、道徳精神を基本として、叙述の間にもおのづから、正に與みし、大義名分に背くものに向つては、春秋的筆法を以て臨んだところに、義公の意のあるところが明かに浮んでゐる。
 所謂「人臣を是非」することは、澹泊が主として書いた論賛の上にも具體化されてをり、その方針を指示したのは、義公だった。

 その他、義公が全國的に史料蒐集に力め、その取捨、考證などの點にも、十分力を入れた苦心は、容易でなかった。今日の史家は、以上の行き方について、科學的態度を執ったことを賞揚してゐる。
 あの交通の不自由な、そして史料蒐集の極めてむづかしい時代に當り、科學的態度のもとに、さうした難事業に當つた一事を以てしても、義公の非凡な人物たることがわかる。

 それに義公は、『大日本史』のほかにも『禮儀類典』『釋萬葉集』など、大きい出版物を編纂、刊行した。即ち、彼は文化事業の上に、偉大な足跡を印したのである。水戸學の源流は、かうしたところから流れ出た。

(四)義公の一生   
 水戸義公(徳川光圀)は、字を子籠、號を梅里、日新齋などいひ、寛永五年(1628年)、水戸城下、三木之次の宅に生れた。同十三年(1636年)元服、從四位下に叙し、同十七年(1640年)三月、右中將に任じ、次いで、從三位に陞った。

 正保二年(1646年)、始めて『史記』伯央傅を讀み、修史の志を起したといふことは領る有名な挿話であるが、それについて、二重の事情があった。
 その一つは、父賴房の嚴命により第三子たる義公が、兄賴重を越えて世子となったことを悔ゆる心があり、今一つは、伯夷・叔齊兄弟の高義に感奮したのである。蓋し義公は 妾腹の出であったが、兄頼重が病身であるため、止むなく、世子の地位に就いた。

 この事を義公はひどく、心に濟まぬと思ってゐた。折柄、『伯夷傳』を読むと、殷時代の孤竹君の二子、伯夷・叔齊のことが書いてあって、孤竹君は、弟の叔齊を愛して、世嗣としようと考へたが、いよいよ父が卒すると、叔齊は父の後を事を潔しとしないで、兄の伯夷に譲ろうとし、伯夷はまた父の意を尊重して、何處までも弟に讓らうとした。

 その結果、周囲の人々は、仲子を立てて、漸く継嗣問題を解決したのである。その後、伯夷・叔齊の二人は、周の武王が殷の紂王の非道に公憤して、これを討たうとした時、大義名分の上から固く諫め、その言が容れられぬとなると、「武王治下で周の栗を食まぬ」といひ、首陽山に隠れて到頭餓死してしまった。

 かうした高潔の行為が、義公に多大の感銘を傳へたのである。この時、義公は、「つまり、書物があればこそ、尊い伯夷らの志もわかる。書物としては、殊に『史記』のやうな實談・史話がよい。依て今後、國史を修めて、風教に資する事としたい」と切に感じたのである。
 義公が『伯夷傳』に感奮して、修史に志したのは、大耍以上のやうな事情にもとづく。


 寛文元年(1661年)父頼房が薨すると、家中で殉死しようとするものがあった。ところが、義公は、天理人道の上から、その非なる所以を論し、殉死を停めた。

 次いで同年八月、父の跡を継ぎ、兄頼重に對する義理を思うて、頼重の子、頼方を世子とする事に定めた。後、頼方が卒去すると、その弟綱條を新たに世子に立てた。

 義公の事業に就いては、既にその中心とすべ點について述べたが、尚ほ記すべきこと二三に留らぬ。その主要な事柄を舉げると、元祿五年、湊川に楠公の碑を立てたことだった。

 この事について、『桃源遺事』には、
「元祿五年(1692年)王申八月、攝州湊川へ佐々助三郎宗惇を遣され、
楠正成の墓を御修復成され、碑を立て、石を畳み、壇をなし給ふ。
其の高さ五尺、徑り一丈、碑面には西山公御自筆にて、
嗚呼忠臣楠氏墓と遊され、碑陰には、舜水嘗て撰みおかれた賛を御彫らせ、
且又碑亭を御作らせ候」とある。

 一體、義公は早くから楠木正成の人物を崇拜し、その碑を建てようと考へてゐたのも久しい間の事だった。それは碑の所在地廣嚴寺住職との間に、家臣鵜飼金平を通じて、存意を傳へた文書が、今日、傳つてゐるのに微しても、よくわかる。

 湊川建碑の舉は、「大日本史」の編纂のやうに、長年月に亙る苦心を要しなかつたが、,尊皇の意義を如實に示す上で、確かに有效だった。当時、楠木正成の眞價をはつきり認識した貝原益軒・安東省庵・淺見網斎らの學者もあつたが,何れかといふと、多數の學者は、まだ楠公の事業について、何ら注意するところがなかった。
 義公の建碑は、この意味において、世人の尊皇思想を鼓吹する上に、最も大きい力となったのである。




 その他、義公が編纂した『大日本史』を天覧に供するについて、苦心したことも見逃せない。
 尊皇斥覇の思想・大義名分の精神を以て書かれた『大日本史』は、當時、幕府の氣に入るはすがなかった。從って幕府の手を通じて、天覧に供しようとすると、そこに少からぬ困難に直面せざるを得なかった。

 當時、「大日本史」の内容については、近衛家熙の家臣、進藤夕翁が、安積澹泊と書信を往復し、それによって、聞き得たところを後西院天皇の天聽に達した。從って朝廷ではほぼ『大日本史』が尊皇精神を基本としてゐることを知られたのである。そして後には、『大日本史』を叡覧に供することも出來ることになつたが、この點について、義公は少からず心を痛め、幕府の圧迫から、脫出したのである。

 その他、義公が、風敎維持のため藩内に於ける淫祠三千八十八を破毀したこと、柳澤吉保と提携して、義公に裏切らうとした寵臣藤井紋太夫を誅し、一藩の動揺を未然に防いだ事など、記すべきことが少くない。が、それらは、すべて詳細を略する。

 義公は晩年、久慈郡太田郷西山に隱棲し、元祿十三年(1700年)十二月に薨じた。年七十。その著書には、皇學の上に寄與したものが多い。

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