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高須芳次郎著『水戸學精神』 第二 水戶史學の特質 (一)大義名分の精神 (二)「大日本史」編述の苦心 (三) 三大特筆の意義 

2022-08-21 | 茨城県南 歴史と風俗

高須芳次郎著『水戸學精神』 
   
 
    
第二 水戶史學の特質  
(一)大義名分の精神   
  一般に知らるるやうに、尊皇主義において、時代に先駆した水戶義公の意圖により、『大日本史』は生れた。それは、当時において、最も新しい史書である。それはまだ何人もが發聲しない理想を以て進まうとした新著述である。

 また或る視點からすれば、皇道精神を理解するものが諸侯中にさへ少かった時代の啓蒙書でもある。が、過去に出た『神皇正統記』を振り返るとしたら、『大日本史』は『正統記』の精神を回顧し、継承し、更にそれを擴大强化して、新表現を試みた史書といへるのである。
囘顧と就進! 

 それは始終、相伴ふものである。義公は、常に新しい歩みを続けて前進したが、それと同時に過去を振り返ることを忘れなかった。そして學者として優に一家を成した彼は
『大日本史』の編修に當り、必す『神皇正統記』に眼を触れたであらう。

 殊にそれは、北畠親房が常陸地方で、尊皇の大旗を翻したときに書いた名著でもある。たとひ、義公の傳記中にこの點に触れた記事がないにもせよ、義公が『正統記』を繙いたことは想像に難くない。 

 かの林羅山の如きも、その神道研究を發表した文章のうちに、『正統記』の「大日本は钟國也」の語句をその儘、用ひてゐるのを見ると、『正統記』が當時、いかに重んぜられてゐたかが推察されよう。  

 從って、義公の精神に對して、『正統記』が强い影響感化を及ぼしたであらうと考へるのは、必ずしも失當ではない。よし、義公が假りにそれを繙かぬとしても、『大日本史』の執筆諸家(観瀾、潜鋒、澹泊らを始め、その他の人々)が、『正統記』に接觸したことは、やがて『大日本史』の上に深い尊皇心を投影したと思ふ。  

(二)「大日本史」編述の苦心  
 以上のごとく考へると、『大日本史』出現の原因、事情がほぼ分る。それと共に、義公が大義名分主義を高調するために、それを編述しようとした決意のほども判明する。かの幕府の保護を受けた『本朝通鑑』さへ、中々、編修に困難を感じ、遺漏も少くなかったのであるから、いかに將軍家の親藩でも、義公が獨力『大日本史』を作ることは、非常にむつかしいことであった。

 のみならず、大義名分の高調は、結節上、將軍政治を否定し、幕府の存立と相容れぬところがある。故に天下の副將軍たる義公を以てしても、そこに將來、幕府の意向と一致し難い勢を生ずるであらうことは、当然、想到さるる一つの暗影だった。

 かかる豫想を爲し易きに關らず、義公が『大日本史』編修を決意したのは、彼が一種の理想家であったによる。彼の考へによれば、公武一和―皇室と幕府との握手によって、一層、世の静平と幸福とを招來すべきを信じた。それが彼の理想だつた。彼としては、その過程に矛盾も葛藤も生ずる箸がないとしたのである。

 それに彼は、以上の理想から、一般人に向つて、啓蒙的に大義名分の意味を具體的な史實を借りて、表現し、明示したいといふ欲求に駆られた。當時、やや敎養ある諸侯ですらが、大義名分の意味を知らぬことは、義公の眼からは、餘りに無智、餘りに蒙昧に見えたのである。それ故、彼は率先、かうした人々に時代の理想を知らしめようと熱望したと思われる。 

 かくして、大義名分の精神を中枢とし、基本として、『大日本史』を特色づけてゐるのは、所謂三大特筆である。それは(第一)吉野朝を正とし、京都がたを閏としたこと、 (第二)神功皇后を后妃傅に列したこと、(第三)大友皇子の御傳を天皇紀中に加へたことなどである。

 それらは、今日、一般讀史家の常識となってゐるから、何ら特別の感じを喚起されぬかも知れない。けれども當時では、碩學、林羅山、同鵞峰らでさへ、明快な解決を下し得なかった時に當り、一々、史實及び理論の上から、右の如く、斷定を爲したのは、學界の驚異であったにちがひない。  

 が、玆迄辿り着くには、相應の準備を重ね、少からぬ曲折を經たのである。卽ち相応の準備とは、根本史料の蒐集とその檢討とであり、少からぬ曲折といふのは、史臣の間に、度々、論議を重ねたことである。今日と非常に異つて、當時における根本史料の蒐集は最大の困難を伴った。

 蓋し當時の風習は、未だ文化事業に對する理解に乏しく、堂上の舊記、諸家の譜牒乃至社寺の文書等は嚴に秘蔵して、容易に見せなかった。それ故、一篇の古記錄を手に入れることさへ、ひどくむづかしかったのである。

 が、江戶初期においては、學問の自由时究が行はれ始め、探求的傾向を生じた結果、 林家の『本朝通鑑』の如きも、月並式修史の方法から、根本史料のに力を入れた。依って支那の史料を活用する一方、幕府の力に縋って、江戸の諸侯に、記錄提出を依頼したが、全國的といふ迄にはゆかなかったのである。 

 ところが、義公の遣り口は徹底的で、一切の難渋、一切の困難を突破し、全國的に根本史料の蒐集を断行した。それについて義公は先頭に立って采配を振り、指揮を與へて、各方面へ史臣を派遣した。
 この難事業は、延寶八年頃に開始され、元祿五年頃にほぼ結了してゐる。それについて、派遺された史臣も可なり苦心を重ねたが、義公の配慮も亦予想以上に加重した。

 公は
(第一)経費を適度に節約することに努力し、
(第二)珍書、奇籍を入手しようとする道樂気を離れて、實地に役立つべき史料を要領よく抄録させ、
(第三)吉野朝に關する史料蒐集には最も力を入る方針を執った。一方,史臣らの努力について一例を挙げると、佐々十竹、吉弘菊潭らが大和地方へ赴いた時、天平以降応仁時代に至るまでの参考文献數千通を寫し、且つ年貢、寺用の勘定帳までもすっかり調べたのである。  

 その他、この方面に關して語るべきことは中々多いけれども、詳細は『大日本史編纂記録』(都帝大國史研究室所蔵)に讓る。そこで問題は元に戻るが、『大日本史』の三大特筆に言及すろについては、勢ひ當時史界の傾向を述べて置かねばならぬ。

 それらの日、皇室におかせられては、京都がたの御出身であらせられた關係もあり、また大義名分の精钟がまだ一般人には、理解されぬ時代でもあったから、史筆を秋るものは、当然、京都かたを正位として、吉野朝を閩位に置き、足利高氏(後、後醍醐天皇天皇より御説の一字を賜はって尊氏と称した。)らを忠臣として、大楠公らを逆賊視した。こんな工合で、忠誠無比の大楠公も冷限を以て見られ、その子孫は公職に就くことを許されぬといふ矛盾さへも生じたのである。

 從って以上の如き史界の傾向を矯正し、是正すると共に、皇室の御稜威を明かにすべく、大義名分の意味を極力、高調せねばならぬ必然の情勢にあった。義公は率先、茲に想ひ到ったのである。が、それは、利害を打算したり、自家の安全を希ったりするものには出來ぬ。當時の大小名は、概ね自家中心主義で、先づ利害を考へ、安全を確保するのを目安とした。

 從って、内心、いくらか尊皇心を抱くものが少數ながらあったとしても、史書によって、大義名分を具體的に說かうとすものは皆無と云ってよく、それが當時の常識とせられたのである。

 ところが、義公は、かかる自家中心主義を非とし、自ら進んで、啓蒙的に史界の誤りを打破り、大義名分の精神を大小名や武士らに普及することを必然の使命と信じた。故にそれからくる損失や矛盾や葛藤などは、公の介意せぬところで、飽迄も所信に向つて、敢然邁進した。それが三大特筆を生んだ所以である。

(三) 三大特筆の意義   
(第一)吉野朝を正しいとする說。義公の三大特筆中、最大の問題は吉野朝正位論だった。この事は、最も慎重を要するので、『大日本史』に關係した學者間にも、おのづから二様の論があった。
 それは主として、正閏を決する標準に就いてである。義公の考へは、神器の所在、如何によって、正閏を分つと云ふにあった。それは、栗山潜鋒と同說である。が、遡って見ると、彼に『神皇正統記』において、早くこの事を主張してゐる。
 從つて、それは 義公らの発明でもなければ、創見でもないけれども、『正統記』よりも、
一層、強く主張したところに時人の泮意を深く惹いた。

 義公の見解によると、實勢上、吉野朝は、五十七年間、厳然、神器を擁してをられた以上、これを正位とせねばならぬと云ふにある。その由て來るところは、
(第一)天国が三種の神器を皇孫に傳へられた趣旨を尊重し、
(第二)建武中興に志された後醍醐天皇の御叡智を重視するといふ點にあったらう。

 そして義公の意見に對して、潜鋒は、『保建大記』で全然、賛成したが、三宅觀瀾は、谷泰山が「三宅氏は神器があっても、義理がそはなければ、正位でない。縦へば、安徳天皇は、平家が無理に擁立したもの故、神器を帯しなされても仕へられぬ。神器がなくとも、後鳥羽天皇のやうに、道理の正しいのが、正位と云ふもの、これを君としたがよい。神器ばかりに付いて、正位、閏位を分つは、如何あらんと云はれた」(「保建大記打聞」)と云ったやうに、『中興鑑言』のうちに 少しく異る見解を述べた。

 けれども義公は、斷乎として所信を曲げない。
『水藩修史事略』には、『正統の義、史臣或は公を規するものあり。公聴かずして曰く、唯此一事某のために假借せよ。天下後世、 我を罪するものありと雖も、大義の存する所、我豈曲筆せんや」と云ったとある。

 それに對する異論は暫く措き、義公に同情した点から云へぱ、以上の如き論斷を為したについて、義公が建武中興の精神に深く共鳴した眞情が大分作用してゐると思ふ。また建武中興を頓挫させた足利高氏への反感も強烈に義公の心裡に動いてゐたことを推想しなければならぬ。いづれにもせよ、義公が善意を以て所斷したことは明確である。

 右につき、黒板勝美博士は、『皇家中興の大業』において、事實に卽した法理的解釋を下した。それによると、水戸學派が「神器の所在卽ち正位」としたのに對して「主權の所在卽ち正位」としてゐる。

 乃ち黑板博士は、「想ふに、天皇の絶對的主權も、歴史的には、白河上皇の院政以來、御讓位の上皇、或は法皇に移り、治天の君、治世の君と言へ ば、當時政務を統べられてゐた上皇又は法皇をさすこととなってゐたので、皇位の継承は御當主たる天皇よりも、旣に皇位を去られた上皇又は法事によって決定せられる慣例になってゐた」と前提し、
 後字多法皇が断然、在來の院政をやめて、後醍醐天皇に大權を還されてからは、主權の發動が同天皇の上にあるとした。それについて、左の如く述べてゐる。

 たとへ、眞の神器が渡ったとしても、それが北條氏に强要せられたものである以上、
光嚴院が正位の天皇であらせちれぬ事も明である。從って足利氏に擁立せられ給ひし光明院をはじめ、崇光院、後光嚴院、後圓融院、及び後亀山天皇、御讓位以前の後小松院がまた正位の天皇でないことも推知せられるであらう。(下略)  

 以上、理論の内容は異るが、歸着するところは、義公と同じく吉野朝正位論である。
頼山陽の如きも、その議論の内容は、義公と異ってゐるが、歸着點は同じで、「祖宗之意、天人之心之所レ観、爲二正統。正統所レ在、神器歸レ之。非神器所レ在正統歸ト之」と云った。
 かく山陽は、法理的主權の所在によって正位を斷じようとするのではなく、主として大義名分の所在卽ち正位と斷じようとしたのである。その趣旨の大要は、左の如くであった。

 (前略)夫れ後醍帰天皇、祖宗の爲に仇を復し、王室の大恥を零ぐ。而して猾賊再び起り、其の己に便ならざるを以て、更に擁立(光明帝)する所あり。兩帝統を爭ふの狀を成して、己れ、志を其の間に成す。
 曰く、「吾、天下を天子に争ふに非ず。天子 と天子と争ふなり」と。天下の利に趣いて恥無きもの、靡然として服從。

 亦曰く、「吾は京都がたの天子に仕ふ。足利氏に從ふに非ざるなり」と。其の仕ふ所(京都がたの天子)は乃ち足利氏の門生視する所なるを知らざるなり。豊仁親王(光明帝) の立つや、當時の民間「王は一戰の功なくして、將軍之に帝位を賜ふ」と曰ふに至る。

 夫れ此の如し。假使神器京都に在るも、之を正と謂ふを得んや。是れを以て、少しく人心ある者は、皆相率ゐて以て吉野に就く。公卿然り、武人然り、愚夫氓隸亦然り。而るを況や神器の靈に於てをや。其の京都に在らずして吉野に在るは宜なり。祖宗の誘爲する所なり。天道なり。(日本政記)


〔参考〕

 
  
 

   

  

 


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