ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

高須芳次郎著『水戸學精神』   第十二 水戶學に於ける科學思想  (一)~(五) 水戸の軍事科學  

2022-10-13 | 茨城県南 歴史と風俗


      高須芳次郎著『水戸學精神』
   
   
  
第十二 水學に於ける科學思想 
(一)科學方面のこと 

 水戶政敎學が尊皇精神を高調したことは周知の事實であるが、科學といふことになる と、比較的最近までこれに斶れたものを餘り見ない。今私がこのやうな題目を強んだことは、無論毛色の變った話をしようといふのではなく、その主點は水戶の幕末に於ける 尊皇攘夷運動と共に西洋科學を無視してゐなかった事を明かにする上にある。

 水戸烈公 は攘夷を强調したため水戸政敎學を知らぬ人々からは大分頑迷な、そして西洋科學或は西洋文明に就いて極く冷淡な人であるやうに解澤されてゐる。ところが、さうでない。

 大體水戸は最初から西洋の科學的傾向を學問に取り入れてゐた。義公の時代から科學的傾向があった。これはひとり烈公の時に至って科學的發達を見たのではなく、遡って言へば義公の時にサイエンスの傾向が史學の上にもあって、それが潮次發達し、遂に幕末に於ける水戸學の科學發達といふことになった。

 科學には精神科學と自然科學の二つ があるが、水と學の前期においては主として精神科學の發達を見ることが出來、後期に おいては主に自然科學の發達を見た。

 まづ水方學で科學的傾向を示した最初のものは『大日本史』である。元來義公は外國種 の植物園を作り、また蘭學研究のため築間玄術といふ家來を長崎に留學させたといふこともある。それから洋服をも作り、切支丹の書物も研究した。

 更に進んで精神的方面では、
「尊神儒 而駁神 崇佛老 而排佛老」といふ風に直理探究に段も熱心だった。普通の人間ならば、神道或は儒敎を研究すればそれに心醉することがある。併し義公はそれを研究したけれども、長所と共にその短所を見逃すことをしない。何處までも眞理探究に熱心である。即ち義公は科學的眞を求めた。その眞を求めるといふところの精神を明かに把握してをったことが『大日本史』を見ても考へられる。

 

(二) 科學的な歴史  
 『大日本史』が科學的研究の下に為されてゐることは、明白である。何となれば、當時 において現代史學の行き方と同じ行き方を方法學上に用ひてゐる。即ち今の西洋史學の 研究方法が日本に渡らぬ前に既に義公は科學的な態度を史學の上に採った。此處に先づ 精神科學の領域を義公が開拓したのである。  

 それは、どういふ意味で言へるかといふと、先づ賴山陽が次のやうなことを言ってをる。
これは山陽が『大日本史』を評した言葉であるが「據レ實書不レ事二裝飾」即ち本當の史實の一番信賴すべきものに據って、これを書いてゐる。少しも文章上の装飾をしてをらぬことを言つてゐる。

 要するに、科學の求むるところは眞である。『大日本史』が史實に據つて書き、少しも装飾しないで、一行の記事と雖もその出典を一々明かにしてゐる。これは現在の歴史においてもやってゐることである。
  
 最近の歴史は註といふものを拵えて、その記事は何處から出たといふことを明かにしてゐる。これが水戸學においては義公時代から旣に行はれた。栗山潜鋒の『倭史後編』も義公の精神に從って、一々記事の出所を示してゐる。


 それから安積澹泊も「實に據って直言すれば其義見る」といった。眞實に據って何處までも眞を枉げないといふのが『大日本史』の行き方で、嘘は書かない方針だ。眞實のことを書くといふことにおいて、明かに科學的精神が『大日本史』に現はれてゐる。

 これがため基礎工事において最も忠實な聲を執り、補助學、方法學といふ一ことにおいては、現在の科學的に取扱ってをる歴史と同じである。これがために先づ全國に亙って大規模の史料莫集を行った。

 これに先立って出た『本朝通鑑』は幕府の勢力を以て史料を蒐集したが、大分遺漏があった。ところが義公に至って北海道,山陰、山陽、北陸、大和、奈良、近畿といふ風に、出來るだけ各方面の史料を盛んに蒐集すべく、家來を派遣した。先づ基礎工事をすることに就いて、周到な用意をしたのである。

 大依當時全國に互って史料を蒐集することはなかなか困難で、その困難なことを義公は知りながら斷乎として實行されたわけで、多數の古文書の寫しが出來た。古い手紙、日記或は花押、さういふものを蒐め、また諸家の系譜、或は年表をも蒐めた。これが容易でなかった。
 かういふ仕事をするのは、當時としては寧ろ文章を書くより難かしいことであった。
 然るにその根本的な史料を盛んに蒐めて、殆ど遺漏なきにちかく、研究したことは科學者が色々な材料を蒐めてそれを分析研究して行くのと同じ方法を採ったわ
けである。

 更に『六國史』その他軍記物など有力なる史書を校訂した。中にも『太平記』の如きは、九種の異本と對校し、又百餘部の文學書と一々對照した。『太平記』はわれわれも始終手にしてゐるが、あれを水戸において異本を蒐めて、誤ってをるところを訂し、更に百餘の文學書に就いて一々これと對照したに至っては、その努力の程が思はれる。

 それ程精密にその内容を檢討したものはない。義公時代以來立派な科學的方法を採つて、史料を蒐集し、有力な史書の校訂と、それから年表その他を作製した。即ち吉野朝の史料の如きは水戸に依って始めて發見されたものが多い。

 更に『大日本史』の記事を一々點檢すると、どの方面においても眞實を明かにするといふ態度に出てゐる。勿論今日から見れば『大日本史』にも誤りがある。これは巳むを得ない、いくら立派な歴史書であっても、一々精しく調べる時には間違ひもあれば、また多少の瑕もある。

 『大日本史』に北畠顯信は九州で歿くなったといふことが書いてあるが、これは吉野で歿くなったのである。また北條時頼は全國を周遊したことが『大日本史』に書いてあるが、これは嘘で、出家して後も、その暇が無い。況んや、交通不便の時代に全國を廻るといふことは、とてな來ない。さういふ間違ひはちよいちよいあるが、眞實を記すことに大いに努めてをるといふ點においては疑ふ餘地がない。
 
 これについて二三の例話を引かう。源義經は滿洲へ行った。そこで義經は成吉斯汗なりといふ説や、或は北海道に渡ったといふロマンチックな說があるけれども、『大日本史』はさういふことを否定して、やはり遺物が衣川にある以上、義經は31歲で衣川の館で死んだとした。これは明かに史實に據ったのである。また源爲朝は琉球へ渡って、その子が琉球王になったといひ、これもロマンチックで面白い傳説である。
  
(三) 史實尊重   
 然し『大日本史』ではやはり眞實を書かなけれぱならぬといふので、爲朝は官軍の船が攻め寄せた時、大島で、32歳で割腹したことを明かに書いてゐる。ただ面白いといふことで、態々史實を曲げるといふことは『大日本史』の為さぬところである。

 また藤原藤一房は後醍醐天皇を諫め奉ったが、それからその後出家したといふ傳說がある。これは天正本『太平記』や、『吉野拾遺』などに書かれてゐるけれども、これも嘘だ。大體藤房が踪を晦まして出家したといふが、これだけの有為な人ならば、何處にをるかといふ
ことは大體分る。
 
 京都附近で出家したといふことになってゐるが、京都附近で出家したとすれぱ、藤房を知ってをる人は必ず發見するに違ひない。今までの傳說はこの點において餘り事實に遠いといふので、『大日本史』は出家説を否定した。
 
 また源三位頼政は 仁安元年(1166年)に正四位に叙せられたといふことが各書に載ってゐるけれども、『大日本史』は色々文獻を研究した結果、正五位であると訂正した。また賴政が自分の不遇を嘆いて「上るべきたよりなければ木の下に椎を拾ひて世を渡るかな」と詠み、これがために正三位に叙されたといふことであるが、これも『玉海』といふ書に據って、噓だと打正してゐる。
 
『大日本史』はかういふ些細な點に於いても、嘘はいけないとして、これを訂正したのである。

 それから豪傑僧文覺は、源賴朝のため平家討伐の院宜を戴いたといふことが傳說に載ってゐる。これも嘘だ。英雄賴朝が天下を誤魔化すためにさういふことを言ったので、これは院宜のお言葉が『平家物語』その他の諸本において一定してをらず、また實錄にも見えてをらないので、文覺が平家討伐の院宣を求めたといふのは事實でないと認め、『大日本史』は否定してゐる。 
  
 また文覺が佐渡から赦されて京都へ歸ったといふ事であるが、これも事實でなく、文覺は佐渡で絶食して死んだ。京都へ歸ったことが諸書に見えてをらぬといふので否定の態度に出た。 


 かういふやうに何處までも科學的精神を尊ぶことから、文覺は佐渡で死んだといふことを認めた。面白い面白くないといふことは絶對にこれを超越してゐる。唯眞實を求めるぱかりである。また足利高氏と新田義貞が激戰した時、源顯家が義貞を助けるために京都へ行った時の兵數を『大日本史』は調べたが、『日本外史』に書いてあることとは非常に違ふ。即ち『日本外史』は議を書くことは少し&はない、面白けれぱいいといふ 態度である。ところが『大日本史』は面白からうが面白くなからうが、やっはり眞實を書かなければならぬといふ態度を執った。

 

今、延元元年(1336年)に陸奥守源顯宗卿が義貞を助けるために京都へ入った時の兵數を『日本外史』は書いてをらぬ。ところが『大日本史』では出羽の兵五萬、義貞の兵一萬と介せて六萬と書いてゐる。かういふ風に兵數が明かでないと激戰の狀壊が明かに分らぬ。『日本外史』は全然その兵數を無視したのに対して、『大日本史』は明かに兵敷を記してゐる。

 またその當時、義貞が華頂山において高氏の兵に就いてどう観たかといふことに就
き、『日本外史』は、敵の兵は幾千萬あるか分らぬと義貞が言ったとあるが、『大日本史』は、賊軍はわが兵に倍してゐると、義貞が言ったと書いた。『日本外史』が出鱈目を書いてをるのに對して、『大日本史』は實情に即したことを書いてゐる。

 それから義貞が髙氏の陣営に間諜を放った兵數に就いて、『日本外史』は二千餘騎と書いてゐるが、「大日 本史」は色々な文献を調.へあげて、一千餘騎と書いた。さういふやうに『日本外史』は 非科學的な態度を執ってゐるのに對して、『大日本史』は何處までも科學的精神から眞實を調べてゐる。

 要するに『大日本史』は現在の歴史學でやってゐる科學的な方法と少しも變らぬことを、300年前に實行した。さうすると『大日本史』は精神科學の上に貢獻するところがあったと言はなければならぬ。現代の史學者が採ってゐるところの硏究方法を、その當時において既に活用してをった。
  
 現代の史學者は西洋から敎へられたが『大日本史』は水戸自身でこれを發明してゐる。故に水戶から出た歴史書はどんな本でも悉く精しくその文獻を擧げてある。明治の有名な歷史學者山路愛山などは、大いに『大日本史』に感心して、全く科學的だと書いてゐる。
  
 要するに水戸の學者はどういふ學者でもさういふ方法を採つたので、敢へて『大日本史』に限らぬ。總ての歴史的な本は悉く文獻を明かにした。それが明治時代まで續いてをったといふことは、先づ水戸史學は精神科學としての歷史に大いに寄與するところあったと言はなければならぬ。
  
 元來足利髙氏は水戸學の立場から言へぱ排斥しなければならぬ存在だが、少しも冷かに扱つてをらぬ。足利髙氏の記事も楠木正成の記事を書くが如く精細だ。これはどういふわけかといふと、やはり眞を尊ぶからである。眞を尊んだ結果、足利高氏の肚黒いところが恰も眼前に見るが如くに『大日本史』に明かにされてゐる。
  
 つまり、『大日本史』の記事は一行も高氏を攻撃してをらぬが、その肚黑い、測り知るべからざる男であるといふことが、記事を讀めば明らか解るやうに書いてある。
  
 さうすると實に據って直書するといふ意味を現はしてをる。さういふやうに少しも偏ってをらない。悪人であらうが 善人であらうが、それを描寫することは同じである。これは忠臣だから大いに書く、これは逆臣だから餘り書かないといふことはない。全然公平無私の態度で客觀的に書いてゐる。ここに『大日本史』の科學的精神が存する。  

 
(四) 科學思想の進展  
 以上が前期即ち水戸史學の大體である。後期水戸學即ち水戸政敎學においても、新しい經濟學、新しい教育學、新しい道徳學と、色々な精神科學へ發展したが、今私がこれからお話しようとするのは自然科學に關することである。

 水戸の自然科學の發達といふことに就いては、在來餘りその記述をまとめたものを見ない。 私は水戸學の自然科學の發達はどうして進んで來たかといふことを考へたが、先づこの方に關係の深い學者の一人で、義公時代に仕へたところの森儼塾といふ人、これは、自然科學上に踏み出した最初の一人である。

 この人は攝津高槻出身で、儼塾の書いた本 に『二十四論』といふのがある。この『二十四論』は日本文化と支那文化が何處において優れ、何處において劣ってをるかといふことを比較論究した文篇である。

 この中に食養學のことが出て、以下の如き言を爲してゐる。先づ支那の料理、或は支那の食物は脂濃くて衞生上惡い。脂濃いものを毎日食ふことは決して健康上よくない、本当の食養學上から宜へば、日本人的な淡泊な菜食を攝取するのが最もいい、健康のためには野菜料理を食するのが一番人間にとって宜しい。

 脂濃い支那料理を無暗に食べるのは考へものである。野食を多く攝るといふことが、日本民族のために一番結構だと論じてゐる。

 更に彼は日本刀を讃美して、世界に色々刀があっても、日本刀の如くあれだけ鐵が鍛へられて、最も精密に打ち上げられたものは外にはない。即ち日本刀の科學的に優れた點を舉げてゐる。ドイツ總統ヒットラアも非常に日本刀を讃美し、これを武器としてその長所を活用してゐる。

 これに先立ち、森儼塾は日本刀の科學的に優れた點をその『二十四論』において研究して論じてをるのであって、『二十四論』において科學的な思想を見出すことが出來る。

 森保納の次に現はれたのは、長久保赤水である。この人は水戶の地理學者として最も優れた存在で、かの伊能忠敬は日本最初の地圖を完成した人として最も有名であるが、赤水が無ければ、伊能は生れなかった。

 即ち伊能の書いた日本地圖に先立って、赤水は『日本舆地路程』といふものを拵えた。それはその當時の地圖としては完全なものであった。即ち赤水が出て始めて日本地圖に經緯度を施した完全にちかいものが出來た。又赤水は新井白石の『古史通』において、常陸が日本の發祥地だといふことを一々地理學上
から論究した。
 
 常陸は高天原だといふ說を私も用いたが、それがこの『古史通大意』といふ赤水の本に依って解説されてゐる。赤水は、85歳で没くなったが、その少し前に『大日本史』の『地理志』を完成した。その『地理志』は美濃紙で744枚ある。それを完成してゐる。

 それに就いてかういふことを言った。
「地理志(國郡志)の筆を執って死ぬること本望也、88迄此處にゐて地理志を勤め・・・・・・地理志成就は90迄も生き申さず候ては相叶はず候」とある。

 赤水は85歳で歿くなったが、90歲まで生きて『地理志』を完成したいといふことを考へてをつた。その他この赤水の後に現はれた原南陽といふ人がある。これも優れた醫學者だつた。

 斯くの如く、ぼつぼつ水戸に於ける自然科學の發達があった。
 その自然科學を一般に發達せしめたのが烈公である。烈公は主に軍事科學の知識に相當精通してをったといふことが考へられる。『景山文集』の中には、望遠鏡のことに就いて書いた文章がある。「望遠鏡一架、西夷所舶載 製作精緻明可 以洞 察百里一」といふことを書いてゐる。

 また電信のことにも及び、文章に「隔遠之地可。坐而相報聞也」と書いた。そして「其意匠 不爲 不奇」といってゐる。また軍艦の鏡の銘に「嚴粛規律 戒愼號呼 形小聲大、萬艦合符』とある。
 これを見ると、餘程烈公は軍事科學に興味t持ってゐたこ とがわかる。

 それから冬公は安神車、卽も戦車を發明し、また早く飯を炊くことが出來る器械、或は早く湯を沸かす器械、或は早天の時、水をすくひあげる機械を發明した。その由って來るところは蘭學の獎勵に由るところが多い。

 その當時蘭學は、新しい外國知識を吸收するに就いて缺くべからざるものであった。後には烈公は英語をも獎動してゐる。そして 島津齋相その他進步主義の大名と蘭學の知識を交換した。烈公は蘭生數人を招聘し、その人達を通じて水戸藩は西洋の科學思想を吸收する媒介とした。
 その人達といふのは靑地林宗、幡崎鼎、下間良弼、栗原唯一などで、これらの蘭學者を招き、西洋科學知識の吸收に努めたが、その時最もその訓練を受けたのは總重時、松延玄之、森庸軒らである。
 この鶴重時は理工學に非常に造詣があり、後に水戶の軍艦建造主任になった。
かく水戸では閘學者を招いて蘭學生を養成したが、その結果、その方面の人材が輩出した。
 ここに蘭學といふことに就いて烈公が如何に熱心であったかといふことが分る。

 藤田東湖は、この外に尚ほ有力なる蘭學者を招聘しようとしたが、藩に金の餘裕が無
い、その結果、出來ないといふ手紙を書いてゐる。即ち水戸ではこれ以上偉い蘭學者を招聘しようと思ったが、それだけの祿高を與へて水戶に招くことは困難だったといふわけである。


(五) 水戸の軍事科學  
 常時 播崎鼎は烈公の命により『海上砲術全書』といふ本を課した。また幕府の翻訳官、箕作阮甫は『水蒸気船說略』を烈公のために翻譯した。さういふ本が、烈公の奨励に依って立派に出てゐる。烈公は耶蘇坊主を非常に嫌ったが、西洋の兵學、醫學、砲術に關することを好んだ。好んだと言うよりも、それが無ければ日本は國防上立って行けない。大砲に關する本、兵學、醫學に關する本こそ最も必要であるといふので、これを和譯することに努めた。

 それから博物學界の佐藤中陵は草木、花卉、菌類について研究し、或は藥草などをも研究した。さういふ學者が烈公時代に出てゐたのである。
 烈公は蘭學獎動と共に、英語の必要を感じ、武田耕雲齋に宛てた手紙に「十人ばかりは早く達者のものを拵へ申し候。さて墨夷(メリケン)は此方の事を學び、お早うおはようと何度も申候由」といひ「せめて英語の達者なものが十人ばかり出來れば結構だ。彼等はちゃんと日本の言葉でお早うと言ってゐる。此方は彼等より劣ってゐるから、もっと日本人が真剣にや って早く覺えなければならぬ」と、英語研究が焦眉の急だといふことを認めた。 

 ここに烈公は蘭學のみならす、英語を通じて西洋の科學思想、及び科學的方面をどしどし摂取しようとしたといふことが考へられる。

 次に藤田東湖はどういふ風に西洋科學に對して考へたか、また會澤正志斎はどう考へたか。先づ正志斎は西洋軍事科學に相當精通してゐたやうで、『新論』を見ると、それが分る。正志斎は『下學邇言』の中でかういふことを言った。「道聴蠻夷誇張之言、而塗説於風俗喜新好奇者」と。  

 今日の人間は西洋人のいふ極めて誇張した話を見聞きして、それを新しい物好きな人に吹聴してゐるといひ、それに對して「其流弊亦至使人 却欣慕夷俗」と論じ、こんなことなら毛唐を崇拜するやうなものだといふことを『着論』の中で述べた。これは如何にも西洋科學を排斥してゐるやうだが、併し「讀西夷書 審萬國形成 暁火貢船制等之利 以供國家之用 則可也」と『下學邇言』」に言ってゐるのを見ると、西洋科學を研究して、それを日本の國家に應用することは結構だ。
 船のこ
と、大砲のこと、その他のことを研究して、それを現在の日本に活用することは非常によい。かういふこどを言ってゐる。  

 正志斎は文政8年(1825年)、また軍事科學と言ってもよく解らない時代において『新論』の中で西洋の軍事科學的知識をぱら撒いてゐるから、餘程西洋の軍事科學を研究したのではないかと思はれる節が到る處に見られる。

 その一端を茲に擧げると、海軍充實のために船の航路が曲ってゐるかは眞直ぐであるかといふことを調べなければならぬ。また港湾がどういふ風か、潮流がどういふ風に流れてゐるかといふことを知らなければならぬ。次に氣象學を研究すると共に、羅針盤の使用に熟れなければならぬといふやうなことを書いてゐる。

 それから大砲の精巧な物はどんな遠距離でも弾が建し、極小さなものにでも 弾が中る。同時に一時に數百人を殺すことが出來るといふので、大砲の效能をはっきり述べてゐる。

 また銃は鐵で造るものもあれば、木で造るものもあり、彈丸は鐵、石、銅鐵の滓、或は砂鐵の類を和した餅などを利用して作る。かういふやうに彼は書いてゐる。その他攻撃砲では敵艦を挙ち碎ぎ、守る砲では港湾を扼するといふやうなことをも記述した。ここに彼が軍事科學的知識を有してゐたと考へられる。

 かういふわけで、東湖も大體科學を理解した。東湖は烈公の科学活用に協力した。從って西洋科學に就いて相當の考へを持った。東湖は豊田天功先生に與へた手紙に、「蘭學の事屡々御示論、御尤も千萬に御座候、當今の急務、西洋より急なるは無レ之」といってゐる。これを急いでやらなければならぬといふことを書いた。

 また阿部閣老用人 石河和介へ東湖が興へた手紙の中に、
「元來、火器の儀、西洋より傳來の品に候へば、今更西洋の新工夫等を嫌ひ候は固陋に候」と述べてゐる。西洋のやってゐることが氣に入らぬといふことはいけない。何處までも西洋科學を研究する必要がある。これを毛嫌ひするのは以っての外だといふのである。
 さうしてみると、東湖も正志斎も同じく科學獎励者で、烈公、東湖、正志斎、この三家はそれぞれ西洋科學が必要であるといふことを夙に認識したのである。  


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