庭園美術館へ行ってきました。
フランチェスコ・ジョーリの「水運びの娘」がよかったです。
1850年代のイタリアの、素朴な風景や下町の様子もよかったです。
もう少し暖かくなったら、美術館めぐりを再開しようと思います。
庭園美術館へ行ってきました。
フランチェスコ・ジョーリの「水運びの娘」がよかったです。
1850年代のイタリアの、素朴な風景や下町の様子もよかったです。
もう少し暖かくなったら、美術館めぐりを再開しようと思います。
たまたま書店で見つけた「過激な隠遁~高島野十郎評伝」
胸躍る気持ちで、大切に時間をかけて読みました。
三鷹のギャラリーで「野十郎展」を見てから、かれこれ4年が過ぎましたが、いまだにあのとき以上に心を揺すぶられた経験をしてはいません。
生前の野十郎と交流のあった人々の中で、当時の彼の言行を記憶にとどめ、明晰な表現力で野十郎を世に知らしめてくれた川崎浹氏という存在を初めて知りました。
川崎氏は、ご自身を完全な「自分なりのテキスト主義者」とよんでおられます。つまり、画家が絵に込めた寓意やシンボルから絵をみるのではなく、「創作者がどんな思い入れを込めても作品にメッセージが顕れなければ意味がない」という意味です。
わたしも絵をみるとき、自分の目で見て心を揺さぶられて、初めて自分にとっての意味を見出していました。しかし一方で、絵というものは、その時代の中にあってこそ、その表現に大きな意味や価値を見出されることもあるでしょう。名画とされるものの中に、自分のインスピレーションが全く働かないことがあるのは、そのような場合なのかも知れないと思ってきました。
川崎氏は野十郎の絵に惹きつけられ、人そのものにも惹きつけられていたことを打ち明けています。野十郎と宗教、野十郎が書いた「小説 なりゆくなれのはて」も興味深くよみました。
高齢になった彼を、近親者が心配して老人ホームに入れるため迎えに来たとき、柱にしがみついてなかなか離れなかったと言うくだりには、心が痛みました。
自分が好きな「法隆寺 雨」の話もありました。「ろうそく」や「月」についても触れられていて、心ひかれた絵のまた違った意味を知ることができました。