マゾヒズムに花札を!

Female Domination & BDSM …とは殆ど関係ない花札に関する四方山話です。

真間の井 見れば

2006年05月16日 23時10分19秒 | 菖蒲 - 5月
手書き菖蒲5月菖蒲の種札は菖蒲に八橋、花札48枚中唯一地名が入った札であるということは前に話題にしました。
地名が入っている、これを考えてみれば旅人視点、都人が異郷を旅したときに感じた旅情の絵柄と言い換えることができます。

48枚中唯一の旅情風景…
となれば、伊勢物語の平安よりも更に上代へと思いは広がります。
今日は、万葉時代の歌枕、水の名勝をおとがって見ましょう。

 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国に いにしへに ありけることと 今までに 絶えず言ひける 勝鹿(かつしか)の 真間の手児名(てごな)が 麻衣(あさぎぬ)に 青衿(あをくび)着け ひたさ麻(を)を 裳(も)には織り着て 髪だにも 掻(か)きは梳(けづ)らず 沓(くつ)をだに はかず行けども 錦綾(にしきあや)の 中に包める 斎(いは)ひ子も 妹にしかめや 望月(もちづき)の 足れる面(おも)わに 花のごと 笑み立てれば 夏虫の火に入るがごと 港(みなと)入りに 舟漕ぐごとく 行きかぐれ 人の言ふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音の 騒く港の 奥城(おくつき)に 妹が臥(こ)やせる 遠き代(よ)に ありけることを 昨日(きのふ)しも 見けむがごとも 思ほゆるかも (巻九、一八〇七)

反歌

 勝鹿(かつしか)の真間の井(ゐ)見れば立ち平(なら)し 水汲ましけむ 手児名(てごな)し思ほゆ (巻九、一八〇八)

あまりにも有名な高橋虫麻呂の歌ですね。
僕もいつか記事にしようと考え、実際に散策したり下調べしたりしてたんですけど。
いざ記事にしようとしたら、もう記事としてwebに存在してましたよ。
せっかくですから、いただいちゃいましょうか。



 ■真間の手古奈のはなし 
 このあたりではわりとメジャーな伝説。
 万葉歌人も歌に詠んだほどなので相当昔のこと(記紀神話時代か?)、真間と呼ばれる(今でも呼ばれる)場所に美しい少女が住んでいた。
 名前を手古奈と言い、貧しい暮らしをしながらもその美しさが損なわれることはなかったという。
 彼女が毎日水汲みに来た井戸は「手古奈の井戸」として今でも残っている。
 さて年頃になった手古奈は、当然年頃の男たちからの求愛を受けることになるのだが、まあもちろん取るか取られるかのデスマッチで、手古奈はその男たちのいさかいを大変心苦しく思い、「私がいるから、あのようなことになるのだわ」と思いつめて真間の入り江で入水自殺をしてしまったそうな。

 かぐや姫と違って入手困難(ていうか不可能)な物品を要求しないあたりが育ちの慎ましさとも言えるが、「私の美しさって罪」みたいなナルシストっぽさというか、「私のために争わないで」的な発想で自殺するあたりが、まあ奇妙っちゃ奇妙な話である。
 ちなみに兄上の意向で日本全国ほぼ平定を命ぜられていたヤマトタケルノミコト(日本武尊)も惚れていたという噂。

 同県内にミコトとミコトの妃であるオトタチバナヒメ(弟橘比売)が東へ向かうため相模湾あたりから船で同行していた時に、海の神が行く手を阻んだので、ヒメが「わたくしがミコトのかわりに海へ入りましょう」と菅の畳皮の畳衣の畳それぞれ8枚ずつ敷いて(もうこれで沈みそうな気がするが)海へ入って、海の神の怒りを鎮めたのでミコトは無事県内に着くことが出来、ヒメの着物の袖が流れ着いた場所を「袖ヶ浦」、布を敷いて身を投じたので「布流津(ふるつ)」→「富津(ふっつ)」になったとも言われており、ミコトは妃を失った悲しみから、その場所からしばらく立ち去ろうとしなかったため、「君去らず」→「木更津」という地名の由来になっている。
 これは県内東京湾沿岸の話ですが、そこから東へ行くと真間なのです。妃を失ったばっかりでもう新しい娘に気を取られるとは、なんとも…。
 しかし今ではすっかり「入り江」も埋め立てられて、海は遥か彼方となっております。
 
 ■別の「手古奈」伝説。
 手古奈が絶世の美女であったのは同じ設定。
 ただこちらの手古奈は母を早くに亡くし、継母に苛められて暮らしていたそうな。しかし健気な手古奈はそれにも耐え、唯一真水の出る井戸に手古奈は毎日水汲みに行っていた。
 ただやはり美女である手古奈を口説きに男が家の周りをうろつき、継母は手古奈が手引きした泥棒と思って手古奈を折檻して追い回し、手古奈は逃げに逃げて真間の入り江に飛び込んだ…というもの。
 …「継子いじめ」という言葉は『真間』から来ているのではないかという言葉の由来。
 
 ちなみにその後、どちらの場合も行基という徳の高いお坊さん(この人は全国各地どこでも出現する人だ)がやってきて、手古奈の霊を慰めるべくお寺を「求法寺」と名づけて建立し、その後また弘法大師(こちらも全国各地神出鬼没ですが)がそのお寺を訪ねてきてしばらく滞在したので「弘法寺」となり、今なお「弘法寺」としてお寺が残っています。
その後日蓮上人も来ておりまして、お寺は日蓮宗となっております。

 真間山弘法寺ホームページ
 …なんつーか、寺っぽくない明るい感じのサイトです。
 なんとなく若い坊さんが作らされた感のある……。色々あっていちおう日蓮宗。
 境内には涙石という、常に濡れている石がある。
 これは日光東照宮の造営に使うべき石をこのお寺の石段に使ってしまって、幕府に責任を問われてその石段の石の上で割腹した鈴木修理長頼の血と涙で濡れているのだとか。
 …ていうか使うなよこんな石段に東照宮の石を!(と、私なんぞは思うのですが)しかもその石の上で割腹するか?(と思うのですが。)
 この石の写真がホームページで見れます。…確かに少し湿ってそう。

■万葉集と手古奈
「万葉集」は日本最古の歌集で、皇族から下々の者が詠んだ歌まで、あらゆる分野の、そして全国からの歌が集められているものとして、名前を知らない人はいないだろう。編纂が終わったのは759年のことであるが、「真間の手古奈」もこの歌集の中に収められている。これがなかったら現在まで「真間の手古奈」の伝説は残らなかっただろうとも言われています。万葉集バンザイ。
有名なのは山部赤人(やまべのあかひと)の歌で、彼は都の下級官吏であったが、生まれは現在の千葉県山武郡あたりらしい。
彼の有名な歌は「田児の浦ゆうち出でて見れば真白にそ 不尽(富士)の高嶺に雪は降りける」だが、これも現在の駿河湾に面した静岡県の「田子の浦」ではなく、房総半島の鋸南町田子台から見た景色を歌ったもの、とも言われています。真相はわかりません。
さて手古奈の山部赤人の歌。
この頃の、というか本来歌は「問」に対する「返歌」として歌われるものなので、まず「問掛け」のほうから記述してみる。なお、「万葉集」はすべて漢文で書かれているため、読みやすいように上記のように古文形式に変換しておく。意味も間違ってたらごめんなさい~(-_-;)←一応大学では日本語が専攻だった人のセリフとは思えん…。

古(いにしえ)にありけむ人の倭文幡(しずはた)の帯解き交へて臥屋(ふせや)建て 妻問ひしけむ勝鹿(かつしか)の真間の手児名が奥つ城を こことは聞けど真木の葉や茂りたるらむ松が根や 遠く久しき言のみも名のみも我は忘らえなくに
 意味:「昔、男が織物を揃えて結婚の準備をし、小さい新居を建てて求婚をしたという、葛飾の真間の手児奈の墓はここだと聞くが、真木の葉が茂っているせいだろうか、松の根が長く伸びているように時が経ったからであろうか、その墓は見えないが、手児奈の話だけでも、名前だけでも、私はいつまでも忘れられないだろう」
<注釈>倭文幡というのは日本古来の織物のことで、中国から入ってきた唐織に対する言葉として使われるとのこと。また「帯解き交へて」は「共寝をする」、要するに夫婦になるという意味。

(これに対する返歌二首)
葛飾の真間の入り江にうちなびく玉藻刈りけむ手児奈し思ほゆ
 意味:「葛飾の真間の入り江を見れば、そこにうちなびく玉藻を刈る手児奈を思い出されるることよ」
我も見つ人にも告げむ勝鹿(かつしか)の真間の手児名が奥つ城ところ
 意味:「私も見た、人にも教えよう、葛飾の真間の手児奈の墓の場所を」

もうひとり、常陸守となった藤原宇合(ふじわらのうまかい)の配下として都から関東へやってきた、高橋虫麻呂という人も、使者として房総各地を見回りながら、このあたりに来た時に手古奈の話を聞き、歌を作ったものが残ってます。
この人は「高橋虫麻呂歌集」という自分の歌集も作っちゃうような人でした。

鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国に古(いにしえ)に ありけることと今までに絶えず言ひける 勝鹿(かつしか)の真間の手児名が麻衣(あさぎぬ)に青衿(あをくび)着け 直(ひた)さ麻(を)を裳には織り着て 髪だにも掻きは梳(いえづ)らず 履(くつ)をだにはかず行けども 錦綾(きぬぎぬ)の中に包める斎(いは)ひ子も 妹(いも)にしかめや望月の足れる面(おも)わに 花のごと笑みて立てれば夏虫の火に入るがごと水門(みなと)入りに 船榜(こ)ぐごとく行きかぐれ人の言ふ時いくばくも生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音(おと)の騒く湊の奥城(おくつき)に妹が臥(こ)やせる遠き代にありけることを 昨日しも見けむがごとも 思ほゆるかも
 意味:「朝日の昇る東の国に、昔からあったことだよと今まで絶えず言い伝えられてきた葛飾の真間の手児奈は、粗末な麻の衣服をつけ、履物さえ履かずにいるのだが、錦や綾に包まれて大切に育てられた都のどんな女たちよりも、満月のような麗しい顔立ちに花のような笑みを浮かべる手児奈の美しさにはかなわない。虫が火にはいるごとく、船が港に入るごとく、男がこぞって求婚するのを、人の盛りは長く続くものではない、と思っていた手児奈は波音高い入り江に入って死んでしまい、その墓はこの港のそばにあると昔の時代のことにあったというが、まるで昨日見てきたことのように思えることよ」

(これに対する返歌)
勝鹿(かつしか)の真間の井を見れば立ち平(なら)し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ
 意味:「葛飾の真間の井戸を見れば、ここで水を汲んだという手児奈を思い出すものだ」

…高橋虫麻呂は叙情的な古代からの言い伝えを詠むのが得意な歌人だったそうで、かなり手児奈に対する熱い思い入れの伝わってくる歌となっております。

■更に別の手古奈伝説
…千年以上前の万葉時代に、既に「いにしえのことだよ」と言われたくらい昔々のお話なので、説がいっぱいあってもおかしくないんですが。

・手児奈は国造(くにのみやつこ)の娘として育ち、その美貌を買われてある国造の息子の嫁に行ったが、親同士の不和から船に乗せられて海に流され(なんつー仕打ちだ)、漂着したところが偶然にも生まれ故郷の真間の入り江であった。
・手児奈は神に仕える巫女であった。安産子育ての利益を持っていた。
…など。
まあ「手児奈は美人だった」つーのはどこにいっても変わらないんですが(笑)

■「てこな」の表記について。
「手児奈」「手古奈」と両方表記がありますが、万葉集が「児」の文字を使っているせいか、市で発行している本もすべて「手児奈」の表記になっております。読みは「てごな」と読む人もいるようですが、古代のやまとことばに濁音は使われなかったはずなので、恐らくこの呼び名は後世に入ってからの読み慣わしと思われます。ちなみに「てじな」は間違いです(笑)
ウチでは読み間違い防止と、個人的な好みで「手古奈」の表記を採用しております。
漢字は中国からの輸入品ですので、まあどちらにせよ『当て字』であることに変わりはありません。

さて「てこな」ですが、実はこれは固有名詞ではないという説もあります。
「てこ」は女性を表す古語で(「いも(妹)」というのもありますが)、「な」は「可愛い」「美しい」という意味の古語であることから、「美しい女性」という意味で、ひとりの女性としての固有名詞、すなわち名前ではない…とも言われてます。
ホントのところはどうかわかりませんが、この真間のあたりに人が「すっげえ美人がいてさ…」と口伝えになるほどの美しい女性が住んでいたのは間違いなかったのでしょう。

■何で今まで忘れられずに残っているのか?
さて、遠い遠い昔。まだ私の家が海の中だったような時代の「手古奈」の話が、何故現代まで忘れられずに残っているのか?
まして市の主催で、『手児奈フェスティバル』を開催するほどのメジャーな伝説になったのか?
確かに『万葉集』の力は絶大でしょう。しかし、一介の女性の伝説がいろいろな説を取られつつも、今に生き残っているのはなんででしょう?
ここからは私の仮説ではありますが、まず真間山弘法寺の日与上人という方が、住民の悲惨な生活状況を見て、これは信仰によって救うしかないと考え、伝説の乙女である手古奈を信仰の対象とし、「手古奈霊堂」を建てたのが大きかったと思います。これがあることによって、「手古奈」の名前は人々の間で受け継がれていくわけですし、それにまつわる伝説も、いろいろな形となって口伝えになってきたのだと思われます。
その後、上田秋成の『雨月物語』の第三話「浅茅が宿」の中で、この頃(1452年~1455年)の真間の有様を語った一節があります。ここに手古奈の文字は出てきませんが、大変荒れていて、人の家も何もなくなっている…と書かれています。
こうした歴史の中で何度か思い出され、口の端にのぼって、現在まで手古奈の伝説は残ってきたのではないかと考えてます。
…個人的には「美人薄命」を地で行っているというか、「美女だったのに悲劇的な最期」というのが一番のポイントではなかったか…とも思ってますが。



僕が書こうとしていた原稿は、手古奈とは一般名詞、を先に出して、後から諸伝説を加えるという逆順表示でした。
一般名詞説を支持します。

当時の地理状況を説明すれば。
平安時代あたりまでにおいては、日本の東端は東海道の終点である相模・武蔵。
その奥に員数外の常陸があり、更にその奥に下総、上総、安房と続く、という位置づけでした。
海路もまた同じです。
因みに常陸の北には陸奥が広がる、古地図を見ればそれが裏付けられますよ。ねえ、房総半島が非常に大きく東南方向に曲がった形で描かれ、逆に(今日でいうとこの)東北地方はコンパクトにそして心なしか東曲がりに描かれる、あんなイメージが畿内人にはあったわけです。

ですから、彼ら当時の日本人にすれば、現在の千葉県市川市付近は外国だったわけですよ。
この際だからいってやりますけど、未開の地と表したほうがいいのかな?
「私のラバさん~南洋じゃ美人」
あの歌のクチと言ったら一番あたるでしょう。

そうそう。実際に人種も違ってたんですよね。
この時期でしたら現在の首都圏にも、アイヌが住まってましたものね。
それから、アイヌでもない原日本人でもない蝦夷という民族も。
どこかで記事にしたような記憶もなきにしもあらずです。

もうひとつ、話しちゃいましょう。
勝鹿というは、ご存知のとおり現在は葛飾と書きますよねえ。
そもそもは、一都二県に跨る広大な地域です。
その本家本元は、市川と船橋の市境辺りになります。駅名でありました。
ところが、どうしても葛飾といえば、23区の葛飾、柴又は帝釈天ののイメージになってしまうわけで、駅名変更を余儀なくされたんです。

京成西船駅の駅名表示板には、「旧称 葛飾」の副記が残っています。

と、この言い回し、



「平成の女蜀山人」コラム盗用か!?  9/20加筆


を丸写ししました。

………
………

わああぁぁぁぁ!!! ミユ様その他見ず知らずのお一方! ごめんなさい! ごめんなさい!!
また、パクってしまいましたぁ!

いけない僕をイヂメて、イヂメて!
もっと、イヂメて~!!

    (;`Д´)/ヽアー/ヽアー!!