今回は共謀罪をお休み。
前々から頭にあったことを吐き出したいと思います。
それは、札幌の円山と京都の円山。
聞いたことがある人も多いと思いますが、平安や平城の都は、天皇が北の中心に位置するようにつくられました。また、ここでも述べたように風水・陰陽五行の法則に則って東西南北に四聖獣を配置する造りとなっていました。
さて、円山の話をする前に、京の円山が位置する、都の「東」にスポットを当てたいと思います。平城の都・三条通りの東には藤原氏の氏社である春日社とさらに東側にその神体山三笠山が位置します。また、その神宮寺ともいえるこれも藤原氏の氏寺・興福寺というお寺も春日社のすぐ側に位置しています。三笠山は古代の出土から西側(都)から拝める状態となっていました。
では、平安の都はどうなのでしょうか?
三条の東には祇園新宮といわれる粟田神社、その南にはかつての祇園社である八坂神社。その東には(名前忘れました(; )山の上に神体山ともいえる将軍塚が位置しています。この将軍塚に埋められている坂上田村麻呂もまた、西を向いているそうです。また、祇園社は藤原氏の崇敬を受けており、かつては藤原氏の氏寺である興福寺の管轄下にあったとされています。つまり、祇園社は平安版の春日社と
いうことができるでしょう(山田貴生「祇園祭の研究」2001年度龍谷大学国際文化学研究科修士論文)。
春日社の祭神が鹿島明神であるのと比べて、祇園社の牛頭天王(すさのおのみこと)の朝廷へのまつろわぬ度が高いということでしょうか?この変更は、平安時代において、御霊信仰がさかんになり、藤原氏もまた御霊の報復を恐れていたことに起因するのでしょう。
さて、このようにしてつくられた平安の東・祇園も、明治維新を向かえ大きな転機を迎えます。それは、約1100年ぶりの東京遷都。その遷都にともない、東山三条に平安神宮が作られます。さらに、祇園社の東に「円山」公園もつくられました。 京の都の東側は、まつろわぬ神をまつる宗教施設と、円山公園の配置となりました。
一方、明治時代より本格的な開発が始まった札幌。
この都の配置には興味深いものがあります。
まず、北に札幌駅。西に出雲系の神「八千矛神」をまつりさらに西に円山公園。その西に神体山ともいえる山々(荒井山か三角山、もしくは藻岩山が神体山か)が連なります。この配置を南北ひっくり返すと、京都の都作りと一致するのです。
このような札幌の都作りは、明治時代の文明開化における、西洋文化の流入に端を発するのではないかと考えます。
というのは、平安京が天皇を天体という自然にあわせて都をつくっていたのに対して、札幌はまずは天皇ありきで都をつくっているという点です。江戸時代の神道家・本居宣長の書物にも、神を絶対者としてあがめるキリスト教の影響があらわれているといいます。それと同様に、札幌のデザインの仕方にも、「神」を絶対者としてあがめるキリスト教・西洋文化の影響が現れているのではないでしょうか?
京都
北
天皇
東 祇園社(出雲系神) 将軍塚(神体山)
円山公園
-----京都駅----------------
札幌
南
天皇
西 八千矛神(出雲系神) (神体山)
円山公園
-----札幌駅----------------
前々から頭にあったことを吐き出したいと思います。
それは、札幌の円山と京都の円山。
聞いたことがある人も多いと思いますが、平安や平城の都は、天皇が北の中心に位置するようにつくられました。また、ここでも述べたように風水・陰陽五行の法則に則って東西南北に四聖獣を配置する造りとなっていました。
さて、円山の話をする前に、京の円山が位置する、都の「東」にスポットを当てたいと思います。平城の都・三条通りの東には藤原氏の氏社である春日社とさらに東側にその神体山三笠山が位置します。また、その神宮寺ともいえるこれも藤原氏の氏寺・興福寺というお寺も春日社のすぐ側に位置しています。三笠山は古代の出土から西側(都)から拝める状態となっていました。
では、平安の都はどうなのでしょうか?
三条の東には祇園新宮といわれる粟田神社、その南にはかつての祇園社である八坂神社。その東には(名前忘れました(; )山の上に神体山ともいえる将軍塚が位置しています。この将軍塚に埋められている坂上田村麻呂もまた、西を向いているそうです。また、祇園社は藤原氏の崇敬を受けており、かつては藤原氏の氏寺である興福寺の管轄下にあったとされています。つまり、祇園社は平安版の春日社と
いうことができるでしょう(山田貴生「祇園祭の研究」2001年度龍谷大学国際文化学研究科修士論文)。
春日社の祭神が鹿島明神であるのと比べて、祇園社の牛頭天王(すさのおのみこと)の朝廷へのまつろわぬ度が高いということでしょうか?この変更は、平安時代において、御霊信仰がさかんになり、藤原氏もまた御霊の報復を恐れていたことに起因するのでしょう。
さて、このようにしてつくられた平安の東・祇園も、明治維新を向かえ大きな転機を迎えます。それは、約1100年ぶりの東京遷都。その遷都にともない、東山三条に平安神宮が作られます。さらに、祇園社の東に「円山」公園もつくられました。 京の都の東側は、まつろわぬ神をまつる宗教施設と、円山公園の配置となりました。
一方、明治時代より本格的な開発が始まった札幌。
この都の配置には興味深いものがあります。
まず、北に札幌駅。西に出雲系の神「八千矛神」をまつりさらに西に円山公園。その西に神体山ともいえる山々(荒井山か三角山、もしくは藻岩山が神体山か)が連なります。この配置を南北ひっくり返すと、京都の都作りと一致するのです。
このような札幌の都作りは、明治時代の文明開化における、西洋文化の流入に端を発するのではないかと考えます。
というのは、平安京が天皇を天体という自然にあわせて都をつくっていたのに対して、札幌はまずは天皇ありきで都をつくっているという点です。江戸時代の神道家・本居宣長の書物にも、神を絶対者としてあがめるキリスト教の影響があらわれているといいます。それと同様に、札幌のデザインの仕方にも、「神」を絶対者としてあがめるキリスト教・西洋文化の影響が現れているのではないでしょうか?
京都
北
天皇
東 祇園社(出雲系神) 将軍塚(神体山)
円山公園
-----京都駅----------------
札幌
南
天皇
西 八千矛神(出雲系神) (神体山)
円山公園
-----札幌駅----------------
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます