月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

99.三木というブランド1―屋台、宋賢―(月刊「祭」2019.6月9号)

2019-06-11 20:42:26 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

 このブログも月刊「祭」となってとうとう100号の大台に近づいてきました。
 そこで、管理人の祭所「三木」がブランドとして扱われているのではないかというお話を99、100号でしていきたいと思います。
 

●屋台
 
祭巡りをしていると、自分はどこの祭に参加しているのかを聞かれることがよくあります。そのときに、三木の大宮八幡宮で祭をしていることを伝えると、「あの会談上るところ」と言ってもらえることがよくあります。昨今では、三木に刺繍業者や祭用品店などができて、祭のものを手に入れるために三木に訪れる人がさらに増えテイルと感じます。そして、この屋台は「三木で」修理した。この屋台は「三木から」買った。などの話を聞かせていただくことが増え、管理人も、三木人としては鼻が高い気分になります。


●宋賢
 金水で知られる志染の石室。父の市之辺王子のように皇位継承で殺されるのを恐れた億計、弘計の兄弟は身分を隠して牛飼いとして志染の岩室へ隠れ住みます。
やがて、酒の席に、来目部の小楯と言う者が郡県を巡検しているときに訪れます。そのときに、二人は身分をあかしました。二人はお互いに皇位を譲り合うも、名乗ることを提案した弟の弘計から皇位につき、顕宋帝となりました。その後、兄の億計が即位し仁賢帝となりました。
 19世紀成立の「播磨名所巡覧図絵」によると「共に百姓の憂苦を知りて、仁恵徳政の帝」だったと伝えます。

押部谷顕宋仁賢神社 
 身分をあかした王子をお迎えした故地と伝わります。

明石の王子
 
17世紀成立の「播磨鑑」によると、「王子権現之縁起は摂州中山寺に所持の由と中山寺」との関係を示しています。「又俗伝」として「二王子がしばらく隠れ住んだところ」としています。

 ところが19世紀になると、先述の「播磨名所巡覧図絵」の通り、二王子伝承のことが長く書かれて中山寺の伝承は姿を消します。つまり、徐々に二王子伝承を民衆がしじしていったことになるといえるでしょう。

宋賢神社
 
江戸時代になると二王子伝承の人気に伴い、明石や西神(当時は明石郡)では二王子にまつわる神社が作られていきました。
 明石市では中津、松蔭「新」田、明石清水、魚住、大久保など。神戸市では玉津などです。特に、「新」田ができたころに、祭神として選ばれるのが興味深いところです。



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