月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

209.丁(よろ)新調しても別格(月刊「祭」2019.10月8号)

2019-10-25 20:11:23 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
編集「前」記
 「丁(よろ)や!」
 管理人は名屋台があると思われる方へ全速力で走りました。しかし、おっさんの全速力、足はもたもた、ろくにあがっていません。
 ドッターン!
 見事に少しめくれあがったアスファルトにつまずき、両膝をすりむきました。
「屋台見たさに走ってこける」
 見ようとした屋台は丁(よろ)。その練り上手に魅了されるのは管理人だけではありません。場合によっては、歓声のみならず笑い声が聞こえてきます。小説家の村上龍は、「若き日のフランス代表のサッカー選手ジダンのプレーは凄すぎて観客が笑う」といったようなことを書いていましたが、それと同じ現象が丁(よろ)にはおきます。
 
 そんな丁(よろ)は別格だということで、月刊「祭」創刊号の記事として書きました。今回はなぜあのような見事な練りができるのかにほんの少しだけ触れてみたいと思います。


 
●中と外
 まずは下の映像の3分30秒あたりを見てください。新しい練り子(担ぎ手)が棒に加わり、中、外、中、外と手前の練り子(担ぎ手)が順番に声をかけています。これは何を意味するのでしょうか。その答えはずっと下に。 
 
 
 
 
 
 

↑上の写真は、声をかけたあとにチョーサ(差し上げ)する場所に屋台をかついで走るところです。よく見ると同じ棒を担いでいても、例えばで囲まれた人のすぐ前ので囲まれた人は、違うコースを走っています。よく見ると、他の人も交互に屋台の中側を走る人、外側を走る人が交互になっています。「中、外」の掛け声は誰がどちらを走るのかの確認だったようです。そうすることで、お互いに足をぶつけることなく走ることができます。
 見事なチョーサは緻密かつ臨機応変な変更が効くシステムでささえられていました。
 
 
 
 
 
 
 
●新調時の哲学
 さて、上の写真や映像は、全て今年(2019年)のものです。素木の屋根ということは、新調して間もないということです。
 気になるのは、新調することで、屋台が大きくなり担ぎにくくなったりするのではないかということです。屋台の新調で華やかに大きく派手になったけど、重すぎて屋台をよく落とすようになったところを管理人は幾度となく目の当たりにしてきました。
 しかし、そこも丁(よろ)は丁(よろ)でした。同じサイズ、同じ重さでの新調だそうです。今は素木なので漆や金具をつけていた旧屋台より軽くなっています。あくまで、丁(よろ)らしいチョーサができることを考えての新調になっていました。
 
 
 
 

208.教育の政(まつりごと)-神戸方式を悪者にしても意味なし-(月刊「祭」2019.10月特別号2)

2019-10-25 17:01:00 | 教育の政(まつりごと)

●神戸方式=悪??
 昨今話題になっている神戸市内の教員の教員による虐待問題はいまだに解決していません。その中で槍玉に上がっているのが、「神戸方式」と呼ばれる教員分配方式です。私が見た限りでは、下のような流れでした。

①各教員は移動希望のアンケートを書く。
②それを元に各校校長先生がどの学校にどの先生を配置するかを仮決めする。
③仮決めの段階で移動がありそうな教員に、現在の勤務先の校長先生が打診して承認を得る。打診された先生には拒否権がある。
④移動先の校長先生か教頭先生が電話や直接くるなどして話す機会を持つ。

 上を見ると、システムとしては「一応」民主的だし、100を超える学校がある自治体では、直接先生方を見ている校長先生が人事に関わるのは、現実的であると思われます。
 改善点として挙げるならば、校長先生から人事権をとりあげるのではなく、先生方に物言う権利を「付与」することでしょう。今の人事システムの素人改善案を下に挙げてみました。

月刊「祭」素人改善案
①「そりが合わない」、「この人の下にいると、パワハラとまではいかないけど、ボーダーラインかなあと」いうのを書かせる。
②パワハラの外部相談機関の設置
③②を踏まえた管理職登用試験の見直し
などが考えられると思います。
④②をふまえた、パワハラへの対応システム・例えば法律家による相談機関の設置
⑤④の機関に訴えがあった加害者と被害者を同じ学校で勤務させないなどの措置の義務化?

 今の状態で、横暴な状態が学校でまかり通っていました。例えば教育委員会に一任などして、いじめの加害者のような人物が市教委に入り込んんだ場合、その横暴が神戸市全体にひろがるだけです。その抑止力となるのが、各校の校長先生です。その抑止力をとるとどうなるのでしょうか?

●為政者の本音
 為政者としては、教育を自分の思いどおりに動かす権限は、メディアを動かすのと同じくらい、喉から手が出るほど欲しいものです。また、自分の意見に反するものライバルになる者を賢く育てるのも馬鹿らしいというのも、やはり本音でしょう。本音として育てたいのは、自分を称賛してくれるそこそこ賢くて従順な人であって、自分を超えたり異を唱えたりする賢い人ではありません。

 この混乱に乗じて、校長先生の権限を取り上げた場合、市教委などで出世するのは、その時の為政者に右へならえな人ばかりになります。つまり、人事権を校長先生から取り上げた場合、為政者に右はならえの人だけで、学校は組織作られてしまいます。
 そうなると、東須磨的な状況が神戸全体で出来上がっていく危険があります。
 こうなると、公教育は衰退するのは目に見えていますし、公教育が衰退することで、条件のいいしごとにつくことができるのは、お金のかかる私立校に行ける子に限られます。格差の拡大固定をしたいというのは、政(まつりごと)をする人にとっては抗い難い欲求です。
 神戸方式批判論は東須磨虐待問題の機に乗じた教育改悪策になる危険性も持っています。

●神戸方式を取らない大規模自治体の小学校の実情について
 各学校の権限より、当該自治体の首長や教育委員会の力が強いとある大規模自治体の小学校の話を聞いたことがあります。校長室は説教部屋状態になっているそうです。教員の裁量権も小さく、授業はアドバイスというよりも干渉される状態が続いていると言います。
 その校長は「強い」教育委員会や首長の権限で選ばれた人たちで、その意向に沿った学校運営をせざるを得ません。先生のなり手も少ないそうです。もちろん、優秀な教員も集まらず、学校の状態は。。。といった話です。
 このような実情を見ると、権限を校長先生から奪うのではなく、他の先生方にも付与することが、今の神戸の教育改革に求められているのです。


●平民の台頭で生まれた祭
 本ブログの主題となる屋台、だんじり 、山車の祭は、平民が力をつけてきたことによって行われるようになりました。実際に祭をしてみると、小学校、中学校時代に培った友人関係が、いかに大きな働きをするかも実感できます。
 祭と政(まつりごと)は表裏一体、屋台やだんじりの祭はその中でも教育の政(まつりごと)と表裏一体になっています。
 問題は多々ある教育現場ですが、安易な神戸方式批判論の拡大と盲信は、祭文化にも大きなマイナスになるように思えてなりません。