
☆昨日の佐賀からの帰路は、九州自動車道を熊本の嘉島ジャンクションで下りて、高千穂経由で帰ってきました。
途中で、久しぶりに山都町(矢部町は平成の大合併でこんな妙な名前の町になっていました)の通潤橋に立寄ってみました。
1854年に1年8ヶ月の大工事で作られた日本最大級の石造りアーチです。
前回訪れたときにはこんな布田保之助翁像は建っていませんでした。
像の建立が昭和55年となっていますので、前回訪れたのは35年以上も前のことになります。




現代では、こうした構造物はすべて味気ないコンクリートで作られてしまいますので、私たちは便利な近代技術を得たと同時にこのような美しい建造物と風景の創出を手放してしまったことになります。



真ん中の枡状の石が、この通潤橋の通水管で、それぞれの通水管は漆喰の目地が施されて濾水を防いでいます。
近年、補修工事が行なわれ、この漆喰目地は新しく取り替えられています。

☆昨夜は夜になって、突然に、30数年ぶりに南九州大学のジャズ研メンバーで親しく交流していたS君が奥さんの実家に帰郷してきたという呼び出しがあり、”ドルフィー”で旧交を温めました。
当時の南九州大学は伝説的な猛者ばかりで、彼らも社会人から造園家を目指して南九州大学に入学してきたようないくつかの屈折を経ながら遠くの南九州の大学に入学し、なおかつ在学期間も長く、ようやく大学を卒業したときにはもう30歳前後だった者が多く、様々な思い出話に話が尽きませんでした。
図らずも、二晩連夜で、40数年ぶり、30数年ぶりの昔の仲間と再会することになりました。

途中で、久しぶりに山都町(矢部町は平成の大合併でこんな妙な名前の町になっていました)の通潤橋に立寄ってみました。
1854年に1年8ヶ月の大工事で作られた日本最大級の石造りアーチです。
前回訪れたときにはこんな布田保之助翁像は建っていませんでした。
像の建立が昭和55年となっていますので、前回訪れたのは35年以上も前のことになります。




現代では、こうした構造物はすべて味気ないコンクリートで作られてしまいますので、私たちは便利な近代技術を得たと同時にこのような美しい建造物と風景の創出を手放してしまったことになります。



真ん中の枡状の石が、この通潤橋の通水管で、それぞれの通水管は漆喰の目地が施されて濾水を防いでいます。
近年、補修工事が行なわれ、この漆喰目地は新しく取り替えられています。

☆昨夜は夜になって、突然に、30数年ぶりに南九州大学のジャズ研メンバーで親しく交流していたS君が奥さんの実家に帰郷してきたという呼び出しがあり、”ドルフィー”で旧交を温めました。
当時の南九州大学は伝説的な猛者ばかりで、彼らも社会人から造園家を目指して南九州大学に入学してきたようないくつかの屈折を経ながら遠くの南九州の大学に入学し、なおかつ在学期間も長く、ようやく大学を卒業したときにはもう30歳前後だった者が多く、様々な思い出話に話が尽きませんでした。
図らずも、二晩連夜で、40数年ぶり、30数年ぶりの昔の仲間と再会することになりました。

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