高校卒業50年の同窓会でした。
母校の歴史は長く「昭和3年に沖縄県立第二中学校分校」を前身とした
翌1929年(昭和4年)に「宮古中学校」(旧姓中学校)として独立。
1948年(昭和23年)の学制改革の際に「宮古高等学校」
となった。2013年(平成25年)に創立85周年を迎えた。
戦後アメリカの統治下時代は政府立高等学校に改称され
復帰1972年(昭和47年)5月15日後現行名に改称された。
ちょうど私が北海道へ嫁いだのもこの復帰の年でした。
5月15日は忘れもしない記憶にあります。
伝統と誇りある母校を卒業して50年という歳月は 光陰矢の如しです。
歳月を経て 懐かしい旧友たちとの再会を喜び合う様子が
フロアーのあちこちで見られました。
同窓会当日・・クラスは9組あります。
(一クラス40名余り団塊の世代です)
会場に続々懐かしい旧友たちが集まってきます。
私も受け付けの場所でお手伝いしました
会もたけなわ・・
古典の先生です。
実は私の嫌いな科目の一つ。
それに先生は神経質そうで
あまり人気はなかったのですが・・
現在は80才あまり
とても柔和なお顔でした^^
(生徒の顔になってますね^^)
女子ばかり家政科 2クラス(90名のうちの2割にも満たなかったです)
同窓会次の日は希望者のみ島内観光
あいにくの小雨でしたがふる里なまりの
ユーモアなガイドでバスの中は盛り上がりました。
写真に入ってもらえばよかった!
伊良部島にある通り池
伝説の池です
上から見た通り池
継母が先妻の子を殺す計画をたてた。夕方になって継母は自分の子と継子を潮干狩りにといって通り池に行った。 遅くなったので通り池で過ごすことになった。継母は我が子がすべり落ちないように岩のゴツゴツした場所に寝かせ、継子はすべり落ちやすいようになめらかな岩の上の池のふち近くに寝かせた。継母は、潮干狩りに出かけてくると口実をつけてその場を離れていった。 夜中に戻ってきた母は子供の寝場所が変わっているとも知らず、大急ぎで池の縁近くに寝ている子を池に突き落とすと岩のゴツゴツしたところに寝ていた子をおぶって、一目さんにその場を離れの方角にひた走りに走りました。 東の空には曙の光が夜明けを知らせていました。 > 「お母さん弟はどうしたの」背中で目をさました継子がたずねます。 その瞬間継母は自分がおんぶして来た子が継子であり、あの池に情け容赦もなく突き落として来た子が、可愛い自分の子であることに気づきました。 気も狂わんばかりに泣き悲しみ、継子をその場に放り捨て、自分は今しがた走り続けてきた道を逆に通り池の方めざしてはしり、自分も子供の後を追手池に飛び込み死んだと言う。人間の悪の報いの恐ろしさを今に伝えています。最初に継子を寝かせてあった場所をママ子台と呼んでいます。
二日目の観光で同窓会の予定は終了。
来年は開校90周年だそう!
この同窓会の目的の一つに
奨学資金制度があります。
後輩の大学支援のために同窓会の寄付が生かされ
毎年受け継がれていきます。
母校の歴史と南秀同窓会に誇りです^^
そのあと時間のあるクラスメートとカフェでおしゃべりを楽しみましたが
卒業後の皆さんは地元だったり本州の各地だったり
そのほとんどの方がリタイアまでお仕事をしていたことです。
50年ぶりの再会は歳月を感じさせないふれあいでした。
同じホテルでご一緒し 那覇空港までご一緒でした
Kazue さん再会をお約束して^^
彼女とも卒業50年来でした^^
那覇では
Saekoさんと
(小学校の教師そして校長先生をリタイヤまで・素敵な方です)
ご自宅で手料理をご馳走になったり
帰る前夜も遅くまで語らいました
ゴーヤー料理やそうめんチャンプルー
へちまのお肉に煮物など
郷土料理が一番うれしいおもてなしでした。
素敵な出会いがあり沢山英気をいただいたので
日常にもどります^^