サバイバー日記

炎症性乳がんと告知されて6年間。多発転移しつつ、生きたサバイバーな日々の記録と家族の日記です。

不思議な気持ち

2008年05月19日 | サバイバーとカニ夫
メール配信のサバイバー日記を見直しながら投稿していると、その時の状況がリアルに蘇ってくる。

サバイバーの話している顔、話し方、仕草。昨日のように感じる。

この日記の投稿が終わったら淋しくなるだろうなと思う。
でも、その時にはだいぶ前進していて大丈夫かも知れないとも思う。

今日、地域理学療法学の講義で終末期リハビリテーションの説明をした。
最後まで「尊厳」のある生活を・・・と教科書には書いてある。

たぶん、学生には理解できないだろうと思う。
出来るだけ想像して欲しい。自分のことが自分で出来ず、思いが伝えられず、周りの人にすべてを決められる状態を。
尊厳を上手く説明できないが、私が終末期を迎えたら「思いをわかって、気を遣って欲しい」と思う。

私もサバイバーと同じように、特別なことを望むつもりは無いと思う。

笑いながら一生懸命に生きてその時を迎えたい。
何故かそんな気持ちに成ってくるのである。

サバイバー日記[22](メール配信)

2008年05月19日 | サバイバー日記(メール配信済み)
2003/01/05配信

新年あけましておめでとうございます。

昨年は大変な一年でしたが、今年は焦らず、ノンビリとした気持ちで頑張っていきたいと思っています。
本年も宜しくお願い申しあげます。

【サバイバー日記】22________「信じる心」

12/27(金)サバイバー日記はこのところ忙しい毎日で書けなかった。もしかしたら調子が悪いのではと心配されてしまい、久し振りに書く。

12/28(土)手術前からやっときゃ良かった年賀状だが、未だ出来ていない。急いで娘に原画を描かせて年賀状を作る。プリンターしたものから宛名を書いていくと、昨年とは交遊関係がすごく変わっている事に気付く。

12/29(日)お節の買い出しとシーツなどの大物の洗濯、掃除、年賀状・・・なんで年末はこないに忙しいのだろうか?

12/30(月)餅つきで娘と母は安宅に出かけた。
お年賀に持っていくパンを注文した。パパと私は未だ年賀状・・・久しぶりに深夜遅くまで起きていた。

12/31(火)大晦日。朝から母はお節作り。私はアトリエの掃除やらお餅の飾り付け、お正月の生け花、それと年賀状・・・やっと書けた。
う~ん疲れた。今年は240枚なり(フゥ~)
2002年は本当に肉体的にも精神的にもハードな一年であった。
初めて癌と聞いた時には生きてられるかさえわからなかった。でも、元気にこうして生きているだけで本当に有り難い。
紅白をゆっくり観ながら、クリスマスに夫婦で買った5年日記の年頭部分を書く。5年生存率が1%とネットで見た時にはあまりの少なさに笑うしかなかったが、この日記を2人で書いていこうと思う。5年後も必ず生きていると信じて・・・

1/1(水)正月。やっと2003年が明けた。朝4時に起きて、初詣に安宅の住吉神社に行く。その帰りに父とカニ夫家の墓参りをしてから、自宅に帰って、お節料理を食べる。いつものお正月を迎えられただけでも嬉しい。
お屠蘇気分もそこそこにパパは病院の互礼会があり、母も大阪の弟のところに出かけていった。その後、パパの知人宅の彦根まで一緒にご挨拶に行く。(仲人でもあったこの知人の方は修験道をしている)「病は、気から」で自分が信じていないと治らないと力説していた。でも、心のどこかで自分自身が治らないのではないかと不安に思ってもいたので、それは自分自身を信じていないという事になるのだと気が付く。そんな事は充分わかっている筈なのに、癌という病気の恐ろしさを知るあまり、治ると信じる気持ちが揺らぐのだ。パパがいろんな病の人を診ているので、修験道で使う、いろんな人の因縁を斬る方法を教えて貰った。「えいっ!!」と手のひらを返す動作なのだが、要するに、これも気合いなのだ。古来、加持祈祷と言われるものはすべて修験から由来するもので気合いで病を追い払うのは、今も昔も変わらないのかもしれない。
そんな怪しげ?!な事を聞きながらご馳走になって自宅に帰ると、もう10時を軽~くまわっていた。先が思いやられるくらい、正月からハードな一日だった。

1/2(木)カニ夫父母とのお正月の予定だったが、突然のキャンセルですっかり寝正月・・・娘は退屈していたので近所のお友達とリカちゃん遊び、パパは年賀状の入力、私は昨日がハードなわりには元気だった。

1/3(金)今年初めての抗ガン剤の投与日。朝9:00に休日出勤のI医師と待ち合わせしているので急いで病院に向かう。パパはリハビリ室の掃除、娘はリハビリ室の遊具で遊んでいた。無事終わり、カレーを食べに行く。三人とも疲れて夕方には就寝してしまい、夜中に起きて、夕飯代わりのお茶漬けを食べた。

1/4(土)パパ出勤、私は病院に血液検査なのでまたもや娘に病院にお付き合いしてもらう。白血球は3000で注射はなし。11:00am大学の後輩達が自宅に来て、懐かしい話しをしながらランチ。娘は相手にしてもらえず少々不満気味・・・午後、近所のお友達&ママを呼んで、リカちゃん遊びをしてもらった。今まで退屈して暴れていてもそれは仕方のない事だったのね・・・といつも私達の都合でつき合わせていたな~とやっと気が付く。「いつもママにつき合わせてゴメンね」と言うと、「良いよ~」とは言うが、退屈しのぎに私のカツラを取る悪ふざけだけは止めてもらいたいものだ。

1/5(日)今日からブランドバーゲンだが、やはり今出かけると必ずインフルエンザにかかるであろう。やはり、来週入らないと駄目だな・・・と諦める。
でも活性化リンパ球を点滴していたせいか?そんなに抗ガン剤のダメージもなく済んでいる。骨髄抑制も少ないタキソテールだからかもしれないがだんだんと体力が回復してきているのがわかる。家事も億劫に思うこともなくすごせているのが嬉しい。
-- では、また~!!   \(^。^)/


サバイバー日記[21](メール配信)

2008年05月19日 | サバイバー日記(メール配信済み)
【サバイバー日記】21________「生きる力」:2002/12/27配信


今日の金沢は冷え込んで雪がシンシン降っている。
クリスマスやらなんやらこのところのイベント続きで、しばらく、サバイバー日記を書けなかった・・・

12/9(月)金曜日の抗ガン剤投与後の副作用で骨髄抑制が出てきて、白血球が落ちてしまう。この日は珍しく午後に診察だったのでお昼を食べてから病院に向かう。月曜の朝決まって憂鬱そうなパパは重い足取りで出勤していたのだが、携帯から「今から帰る」と暗い声。
「私は今から(病院に)向かっているとこなんだけど・・・」と言いながら、
病院に着く。
診察室に入ると「えっ?一人?」とI医師が不思議そうに私を見た。

「実は、手術の時に取ったリンパ節の廓清の結果がわかりました・・・・」
と、いきなり説明を受ける。耳を覆いたくなるような結果に気持ちがスーと醒めてきて、以外と冷静に受け止める事が出来た。

パパは、手術が出来たのだから助かるのだと思っていたのに、リンパ節廓清の結果を私より先に知ったせいで、今までの緊張の糸がプッツリと切れてしまって、知恵熱を出したのか?
「もしかして、この結果を主人に話しました?」と聞くと、
「たぶん、それで、早退したんでしょうね」とドクターが冗談まじりで言う。
「まったく、肝心なときにいないんだから・・・」と私が言うと、ドクターは苦笑していた。

12/10(火)術後の抗ガン剤のタキソテールはあまり体調的にはダメージが少なそうなので、そろそろ私も家事をしようと思っていた。昨日から天然ガスに切り替える工事でガスも使えないので、母はイライラが頂点に達していた。パパも昨日の廓清の結果のダメージもあって母と朝から大喧嘩を始めてしまった。
「お互いのためにも、アパート帰ったら?」と母に帰って貰うことになった。
もちろん、母にも娘にも昨日の事は知らせていないが、この日から以前の三人の暮らしに戻った。私が元気なうちは普通の生活をしていく事が幸せだと思う。親子水入らずで、久し振りに三人でお風呂に入って、川の字になって寝た。

12/12(木)活性化リンパ球療法という免疫治療をするために、採血をし、横浜に送った。ちゃんと、うまく出来るようにと祈る。

12/14(土)親子クリスマスリースの会をした。親4人、子供10人総勢14人で椅子も足らない程だったが子供達は大喜びでリースを作っていた。

12/16(月)リューブリンの皮下注射と診察。お昼はママさん達と泉野のロアジスでランチ、その後にはクリスマスリースをママさん達と作る。日曜日に安宅の浜で拾ってきた流木や松ぼっくりやパパがケヤキを削った鉋屑で作ったリースはナチュラルテイストになった。

12/17(火)以前勤めていたニッコーの時の上司の命日なので、年末のご挨拶がてら
ご自宅に伺う。二年の闘病の末に癌で逝ってしまった上司の家にいくと、三年という月日がどんなに長いものなのか・・・今同じ薬を飲んでいる私をどうゆう風に思ってらっしゃるのか?

12/18(水)日本画の先輩が訪ねてきてくれた。「今年の特選は?」と聞くと、「えっ?
誰だっけ?」というくらい秋の日展は、おもしろくなさそうだった。

12/19(木)大人だけのクリスマスリースの会をした。昨年いらした方からのリクエストだった。結婚前にアキレス腱を切った時の友人も子供を連れて、訪ねてきてくれた。娘とパパは、ず~と約束していたパンケーキ?を作ると言って晩遅くなってから生クリームを練りだした。おい、おい!いつ食べるのか?

12/20(金)術後二回目の抗ガン剤投与日だ。朝吐き気止めを飲んでから、病院に行ったのだが、まずは採血してから、身体の状態をチェックし、診察が終わって「じゃ、今日も頑張りますか?」とドクターからの指示がないと、抗ガン剤の用意をしない。
抗ガン剤の点滴しながら、処置室でお昼を食べる。
結局、投与が終わったのは午後三時をまわっていた。娘の英語の塾の送り迎えのため、急いで帰る。

12/21(土)朝、昨日の抗ガン剤の経過観察のため娘と一緒に病院へ行く。
午後、ヤマハのレッスンはクラスコンサートで娘は習っていない変調まで披露して
拍手を貰う。いつのまに自分で変調が出来るようになったのか?
夕方はクリスマスのプレゼントを買いにトイザらスへ・・・サンタも楽じゃない。

12/22(日)冬至
お昼にサバイバー家のクリスマスパーティをする事になっていた。でもこの日は良いお天気だったせいかカニ夫父母は夕方が良いということになり、それまでだらだらと準備する事になった。掃除、部屋のかたずけ、鍋の準備、ケーキの受け取り、チキンの受け取り、柚湯の用意、クリスマスのカードつくりなど三人で協力して準備した。パパは今まで、箸さえ自分で出さない人だったのにまったく変わるもんだ。
チキンと石狩鍋、カボチャと小豆の煮物、クリスマスケーキを食べ、柚湯につかって、健康を祈る。

12/23(月)天皇誕生日
朝からクリスマスのプレゼントのリカちゃん遊びをしたい娘は「・・・ちゃんに電話して~!!」と煩い。メールで都合を聞き、お友達に遊びに来てもらった。
この日、パパの来客があったが、宗教の勧誘だった。余程、私が不幸に見えるらしく、「お念仏を唱えれば・・・」と言ってはくれるのだが、まったくそんな柔な人間に見えたのか?一生懸命に勧誘するその彼は、こちらが反対に心配になるくらい、その手が震えていた。誰でも何かしらの不安はあるものだが、自分で解決しなければならないのは同じではないだろうか?とんだ、来客だった。

12/24(火)クリスマスイブ
昨日のとんだ来客にエネルギーを使ってしまったパパは病院を休んで、MACのアップグレードをしていた。診察で年末で混雑している病院に行ったが、なんだか後ろめたい・・・お昼は○絵塾で九谷焼きを一緒に勉強していた26才の子とランチした。
今宵はサンタさんの登場なので子供はなかなか寝付けず、「かける君が欲しい」とサンタさんにお手紙を書いていた。

12/25(水)クリスマス
朝、娘はサンタさんのプレゼントを見つけ小躍りしながら、喜んでいた。
私の友人からも娘にとプレゼントが届く。「ママは?」と聞くので、「ママはサンタさんにお手紙書くの忘れちゃった」と答えた。「じゃ、パパに貰えば?」と言っていた。「なんで、○○ばっかりなの?」と私を可哀想に思ったのか、プレゼントで貰ったビーズでママのネックレスを作ってくれるのだった。ちなみに、ママのサンタさんへのお願いは「お金が欲しい!!」だった。この日は母の脚の診察日だったので、迎えに行ったり、買い物につき合ったり、親孝行も大変な日だった。

12/26(木)
初めての活性化リンパ球療法をするために横浜からの荷物を病院で待つ。11/18に手術で取った癌細胞でペプチドというものつくり、12/12に採血した血液で培養されて、私の身体に合った、活性化リンパ球というものになり、ガン細胞だけを叩いてくれるものだ。点滴の前に採血を動脈から30ml取った。2週間後にまた、それが活性化リンパ球の点滴になって私の身体に入るのだ。I医師もその治療に要する金額を知っているので、慎重に、しかも無駄なく点滴してくれた。看護師の皆さんも他の病院からの活性化リンパ球療法という得体の知れない医療を手伝うといった形なのだが、皆さん協力的で、それだけでも感謝したい。細心に荷造りをして、横浜に血液を送った。
治療にかかわる皆さんや友人や家族の思いやりが、今の私の生きる力になっているのだと思う。

今年もあとわずかになった。保育園の先生から教えていただいた
相田みつをの「幸せは自分で決める」という言葉が今の気分にぴったりな毎日だ。

(つづく)

サバイバー日記[20](メール配信)

2008年05月19日 | サバイバー日記(メール配信済み)
【サバイバー日記】20________「スバラ式コドモタチ」:2002/12/09配信

11/28(木)に退院してから一週間あまり・・・
11/29日(金)は保育園の計らいで娘の表現会の予行練習を観させてもらう。
子供達は緊張でガチガチだった。娘は蚊の鳴くような声だった。
午後から福井のS病院で手術後初めてK医師に会う。
手術の時には私は麻酔で意識がなかったので、段ボールに手術器具を入れて執刀間際に手術室に飛び込んだ、K医師には挨拶もなしだった。
傷口はケロイドにもなっておらず、すごく綺麗になっており、アキレス腱を切った時の傷と比べると雲泥の差だ。でもリンパ節もごっそり取ってしまったので、脇がつっぱって、腕が上がらない。「リハビリを頑張って下さいね」と言われ、今後の抗ガン剤について相談し、帰った。

11/30日(土)~12/1日(日)は、お見舞いしてくれた皆さんに、すべて洗い流してもらおうと「快気祝い」を買いに行った。近所に出来たア○ングに行ったが、店内はクリスマス一色だ。

12/2(月)は高額医療費の請求に行った。外来診察分と手術費+13日分の入院費で11月分の診療費は¥268,356のうち請求分は¥196,710にすぎず、帰ってくる高額医療費は9万ぐらいしか帰ってこない・・・・でも、住○生命に請求すると一日2万の入院費なので少なくとも13×2で26万だ。手術費は別請求で30万なので、あわせて65万だ。ずいぶんと儲けている計算のようだが、請求してからすぐには振り込まれないのだ・・・トホホ

12/3(火)先週土曜日にK医師がI医師と金沢のパーティで会った時に私の話になってやっぱり、抗ガン剤は早めに入れようという話しになっていた。血管の出ない私にとって、抗ガン剤を確実に身体に入れるのは針を何度も差し直さなければならないので今まで大変だった。それで、「身体の中に点滴用のポートを埋め込めば簡単に済むし・・・」と勧められていたのだが、痛い思いをするのは手術後しばらくしたくないので断っていた。
でもK医師は出来るだけ早く抗ガン剤を入れた方が良いと急いでいるので、仕方なく手術を受ける事にしていた。
14時執刀の予定に合わせて手術室に入る。「今日は局所麻酔なので手術時間も短いよ」と事前に言われていた。首のところの静脈に管を通して鎖骨下部分にボタンのようなポートを作るそうだ。「寝ますか?」と言われ、首のところを切られるのが恐ろしいので「お願いします!」と麻酔を点滴したはずなのに眠くもならないし、なぜかしっかり意識がある。「うまく、入らないね~、もう一回(ルートを新たに取ろう)しようか?」などと言っている。でも、ドクターの気が散るのではないかと黙って手術を受けていた。レントゲンでポートがちゃんと入ったかを確認する時に看護師が気が付いて、「あれ?サバイバーさん、ずっとおきてた?」と声をかけられる。
I医師は「えっ?うそー!!」と麻酔が効いていないのに驚き、「私語を聞かれちゃったね~」とバツが悪そうだった。それでも、なかなか良い血管が見つからないのとポートが身体に入らないのとで手術が終わったのは16時ちょっと前だった。麻酔が切れると疲れと痛みがドッと襲ってきた。「簡単な手術だって言っていたのに・・・・」と後悔する。

12/4(水)毎日ガーゼ交換に病院通いだ。自動車は退院後そろそろ~と運転していたが、ポートの手術の傷が痛み、運転もリハビリもままならない。という事で病院へは行きはパパと一緒に、帰りはバスで帰ってきた。もちろん、途中で香林坊で下車して、デパートでお買い物する事も忘れない。

12/5(木)先週からメールしている横浜のクリニックからの治療計画の予定表がなかなかうまくかみあわない。何度もメールが帰ってきたが、意図する事がわからない。
クリニックからの電話があって、ようやく意味がわかったのだが、メールだけでやりとりしているとイライラする事もある。こちらの焦る気持ちまでわかってくれというのは無理なのだろう。患者は一日一日が大切なのだ。このイライラと傷の痛みで何もする気が失せてしまったが、娘の表現会用の洋服を買いに行く。もちろん、パパは疲れて、ふて寝していた。

12/6(金)手術後、初めての抗ガン剤点滴。今回はタキソテールという比較的副作用が少ない抗ガン剤だ。朝、吐き気止めを飲んでから手術で作ったポートに差し込み、約2時間点滴をして、終わったら自分で自動車で帰った。体調はあまりかわらない。夕方、近所で評判の英語塾に行った。娘はなぜかハーフの子供達のバイリンガル振りを見て英語をしたいと言い出した。社会保険センターのジュニア英語に約二年通わせても、なかなか前に進まないのに業を煮やして、近所で日本人の英語塾に行く事にしたのだ。もう少し大きくなれば自分で歩いていける距離だ。早く、なんでも自分一人で出来るようになってもらいたい。でも、子供を抱っこさせてもらえるのもわずかかなと思うと、もうちょっとくらい甘えん坊にさせておいた方が良いかなと都合の良い事を考える子離れが出来ない私になる。

12/7(土)いよいよ保育園最後の表現会だ。小学校に入るとこんな楽しい催し物はないそうだから、良い席を取るために朝早くから起きて順番待ちをしようとしていた。
毎年朝の6時頃に行くと決まって5番目くらいなので、今年はもう少し早く行ってねとパパに頼むが、嫌だというのであきらめていると、おばあちゃんから電話がかかってきた。「3番目になったから、あとで変わって・・・」との事、普段から脚が痛いと言っているのに何をしでかすのか・・・寒い中に立ったままでは脚に良い事ではないのでパパがしぶしぶ起きて交代した。お母さん方の中でスタートダッシュに負けそうだと言うので、開門の7:20には私も保育園に行った。その甲斐あって一番前の良い席に着けた。
子供達は、全員先生の顔を確認しながら嬉しそうにお遊戯や劇をしている。娘も予行練習では駄目出しがでたが、本番にはしっかり台詞も言えて、ノリノリだった。
先生や一部の親御さん達は、感激して涙を流して喜んでいたが、以外と子供達は醒めていて、自分のほんのわずかな失敗を後悔しているのだった。なんと、スバラシキコドモタチだ。
一生懸命でキラキラしている瞳の教え子達に見つめられる先生は幸せである。どうして高校生ぐらいになるとあんなにひねくれるのだろうか?そういえば、うちの子は先生ではなくて私ばかりを見ていたなあ~。しかも、カメラ目線・・・それはそれで、この子はどうなるのだろうか?心配になるのだった。


-- では、また~!!   \(^。^)/