今回ご紹介するのは史跡といっても近代遺跡とでもいいましょうか、米ソ冷戦時代に米軍が建造したミサイル基地の跡です。
国道58号線を北上、読谷から恩納村に入りしばらく行くと、リザン・シーパークホテル谷茶ベイが見えてきます。その先の信号のある交差点を右折し、自衛隊専用道路に入ります。こんな看板が立っていますが、たまに通るくらいならば許可は不要です。
坂道をしばらく登ると、左側に創価学会沖縄研修道場の入り口ゲートが見えてきます。この施設の中に、かつて冷戦時代に米軍が建設したミサイル基地が残されています。
この施設は学会関係者以外は立ち入りができませんが、私は公明党の那覇市議の紹介を受けてきました。紹介が無くても入り口で見学の目的を言えば入れてくれると思います。
施設の中、駐車場の右側にミサイル発射器地が残されています。
米ソ冷戦時代、米軍は1960年代に中国大陸に向けて地対中距離弾道ミサイルを、恩納、読谷、金武、勝連に配備しました。ミサイルはメースBと呼ばれるもので、射程距離2,200km、時速1,000km/hで誘導飛行されるもので、核弾頭を装備することができました。恩納村の基地は、わずか6ヶ月の工期で1962年6月に完成したものです。
2,200kmの射程というと、朝鮮半島はもちろん北京、重慶まで攻撃可能でした。
1970年代になるとミサイルは地上からでなく艦船や航空機からの射出と戦術が変わっていき、このミサイル基地は使用されなくなりました。
基地跡には8基の射出口の跡がそのまま残されています。
恩納村の基地は、8基のミサイル発射台を有し厚さ1.5mのコンクリートで作られています。原状復帰もされぬまま民間に返還後、当初は取り壊す話もありましたが、1977年に創価学会が買い取り、1984年に発射台をそのまま「沖縄池田平和懸念館附属展示室」として改装・保存しました。
展示室の内部です。発射台が傾斜して設置され、上空を睨んでいる造りがよくわかります。
展示室には各種パネルやメースBのスケールモデルが展示されています。
発射口の背後です。斜面に傾斜して造られているのがよく分かります。
メースBが配置された時の資料です。
基地撤去後の様子。これだけのコンクリートの塊が、原状復帰されぬまま放置されました。
核弾頭搭載可能な弾道ミサイル・メースBのプラモデル。1:32レベル製です。
巡航用エンジンの下に、打ち上げ用のエンジンが付けられています。
この核弾頭は広島や長崎に投下された原爆と同等の威力を持っていました。
広島、長崎原爆投下の悲劇にも関わらず、尚同等の威力を持つ、核弾頭、弾道ミサイルを使用しようとしていたなんて。しかも沖縄で。そして現在も使用方法が異なるだけで、睨みをきかせているなんて。安心して眠れない。
一方、希望もあるのです…眠る必要もない方々の一団が、地球を守っているのも事実。羽衣こそ着てはいませんが、天男天女が実在し、悪エネルギ-に毎日奮闘中。な~んて、信じて貰えますか?真面目にコメント書けと云われそうですが、これも現実かもしれません。
人類終末の気配が感じられました。
う~ん、こんなもんが残っているなんて、、、
これを見る限り、沖縄に核は持ち込まれたでしょうね。
こんな恐ろしいモノ・・日本から飛ばさないで欲しいです。
米軍にとって、長崎・広島は格好の核実験場所だったのですね。
アルファさん、
本当は現在はもっと恐ろしいものがあるのでしょうね。
目に見えないだけで。
ちんちらぽっぽさん、
絶対持ち込まれています。住んでいると分かります。
そうした証拠がありながら、政府は嘘ついています。
だから、不信感しか持てない。
らなこ、
植物状態という話をネットでみましたが。
どうなんでしょうねえ。
osakakenさん、
ここから発射したという話は聞いてはいませんが、こんなものがあるというだけで不安ですよね。