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管理人のうちなーライフかりゆし日記

管理人てぃんがーらが沖縄の生活を綴ります。

読谷の戦跡 その4 古堅、伊良皆の戦跡

2011年09月10日 | 博士の研究日記

 国道58号線を北上、嘉手納を過ぎ比謝橋を渡ると伊良皆の交差点があります。
 右側一帯は米軍基地で嘉手納弾薬庫が広がっていますが、一部は黙認耕作地となっていて農道が通じており、立ち入りが可能です。
 ここ伊良皆集落に日本軍は読谷飛行場に駐機する戦闘機を米軍の空襲から守るために1944年12月から翌年1月にかけて軍用機秘匿場所を構築しました。このために集落にあった五軒の民家が取り壊されたということです。読谷飛行場からは1.5kmほど離れており、木々に隠れるように秘匿場所への誘導路は造られました。

 ここ伊良皆の農道の一部に、当時の誘導路の跡が残されています。道の中央に20cm位の四角い石を並べた石畳が確認できます。当時の舗装の跡です。琉球石灰岩を立方体に切り出し、碁盤の目のように並べています。残念なことに、破壊されたり流出したのか、ほとんどが消失しています。

 さて嘉手納から58号線を北上、大湾の交差点を左折した左側が古堅のです。ここ古堅には戦時中日本軍が駐留しており、米軍の激しい攻撃を受け、戦後は米軍に土地を接収されました。それだけに数多くの戦争遺跡が残されています。

 古堅の住宅地の中に古堅国民学校の門柱が復元・保存されています。ここには1944年7月から日本軍が学校を接収、軍隊が駐留しておりました。校舎を追い出された生徒たちは青空教室で勉強せざるを得なかったということです。
 戦後は米軍が接収し、この門柱はブルドーザーで押し倒され地中に埋められたものを当時の場所に復元したものです。(土地の分譲の関係で、校門の向きが異なっているようです)
 銃弾の跡が残る国旗掲揚台も保存されています。

 古堅地区のビジュル(拝所)に幹が空洞になったフクギが生えています。このフクギは以前にもブログで紹介いたしました。この拝所には戦時中日本軍が駐留し、物資の貯蔵場所となっていました。敷地の中には天幕張り倉庫があり、中に何が保管されていたのかは不明ですが米軍の爆撃を受けて火災となり、フクギは焼け焦げて幹に穴が空いてしまいました。
 それでもフクギは成長を続け、空洞の幹のまま大木に育っています。その生命力に感嘆するとともに、物言わぬ戦争の生き証人を大切に保護する必要があると感じました。

 古堅集落は10・10空襲以降、米軍の戦闘機による空爆を度々受け、住民は自宅の周囲に防空壕を掘って避難していました。
 拝所の背後、集落の東側、比謝川の近くに、フルギンガー(古堅井戸)とよばれる井戸が二つ並んでいます。この井戸の上方斜面に住民達が避難するために自ら掘った防空壕が残されています。「古堅の家族壕」とよばれる壕群です。

 フルギンガーには日本軍が駐留し、炊事を行っていました。家族壕には兵隊も入り込んで来たようです。壕は手掘りで、現在3箇所の壕口が確認できます。これらの壕は斜面上部からの土砂で入り口は下から2/3位まで埋まっていますが、内部は比較的保存状態が良く1.5m位の高さがあり、奥で隣の壕と通路でつながっています。すでに埋もれてしまった壕もあるようで、これも可能ならば保存をしたい戦争遺跡です。

 家族壕の内部です。土砂が流れ込んでいますが、比較的保存状態は良好です。

 



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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (☆アルファ☆)
2011-09-10 13:12:07
旅行の予定がいろいろ変わりましたが、
11月15日の夜は読谷のホテルのどれかに
泊まることになりそうです。
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