宜野湾市大謝名4丁目20-6番地付近、住宅地の一角にガジュマルの大木に囲まれた庭があります。
黄金宮または黄金庭とよばれるこの土地は、察度の住居であったといわれています。
伝承では察度は浦添間切謝名の百姓、奥間大親と天女との間に生まれたことになっています。奥間大親が天女と出会った地が宜野湾の森の川で、現在公園になっています。なぜ奥間が天女と結婚したのか、この話は次回にすることとしましょう。
さて、若いころの察度はどうも不良だったようで、百姓の倅だったにも関わらず農作業に精を出すことは無く、遊びまわっていて、父親の言うことは聞かなかったそうです。
ある日、彼は勝連按司(あじ)の娘が婿選びをしているのを聞きつけるのですな。按司というのはまだ統一国家というものが確立していない時代、土地を治めていた地方豪族のことで、日本風に言えば大名でしょうか。
当時強勢を誇っていた勝連按司の娘ですから、当然のことながら身分の高い者や才能に秀でた者たちが求婚するわけですが、娘はなぜか縁談を断り続けていたのです。
こういう話を聞いて、なんと、とんでもないことに察度はその娘と結婚しようと思い立ってしまいます。
当時の古琉球の身分制度がどのようなものであったのかよく知りませんが、貧乏百姓の倅がお姫様と結婚しようと考えるのですから、察度は大変な自信家か大馬鹿野郎のどちらかだったのでしょうねえ。
しかし、察度は考えるだけでなく、行動に移します。彼は勝連城まで行って門を叩きます。
当然、門番は最初彼を追い返します。ところが、押し問答を繰り返すうちに、門番が折れて彼を中に入れてしまうのですね。伝承では察度の態度が立派であったからというのですが、実際のところどうだったのでしょうか。
話を聞いた勝連按司は果たしてどんな男だろうと興味を持ってしまい彼を庭に入れてしまいます。
そこで察度は按司に、
「私は浦添間切大謝名の察度です。娘さんをもらいに来ました」
と、臆することなく言っちゃった。
按司や家来たちが「こりゃ、とんでもない大馬鹿者が来た」と苦笑する中、その様子を物陰から見ていた娘が出てきて、父親に、
「お父さま、この人こそ私の夫になる人でございます」
と言ったのです。
衝撃的発言!按司は驚いたでしょうねえ。
「何人ものすばらしい若者を断っているのに、なぜこのような百姓と結婚しようと言うのか?」
まあ、そうでしょうねえ、職業に貴賤は無いとはいうものの、私の娘がフリーター連れてきたら、ちょっと困惑しますなあ。
しかし娘は、
「このお方は後に王となる方です」
と答えるのです。
そこで按司は占いをしたといいます。今でも沖縄はユタやノロが信じられている世界です。
按司お抱えのユタもたくさんいたに違いありません。
ところが占ってみると、娘は王妃になる、という結果が出ちゃうのですね。
そこで、ようやく按司は二人の結婚を許します。
娘は身ひとつで察度のもとに嫁いだといいます。勝連按司は何も持たせなかったのでしょうかねえ。本心は「それなら勝手に出て行け!」というわけだったのでしょうか。
察度の家は、ひどい貧乏ぐらしで生活必需品もまともに無いというほどだったらしい。
ところがカマドの中に何かあるのを妻は見つけます。取り出すと黄金の塊でした。
妻はびっくりして、
「これはどこからもってきたのですか?」
と尋ねます。
「なに、こんなものなら庭の畑に埋まっている」
と察度が言うので畑に行くと、金塊がたくさん見つかりました。
察度はこの地に家を建て、人々は黄金宮とよびました。牧港に出入りする日本の船と交易し、察度は黄金で鉄を買い入れ、農具を作り、農民に与えました。貧しい人々の救済も行ったといいます。
人々は察度を慕い、彼を浦添按司に推挙しました。察度の政治で領地内は栄え、察度を支持する人々はますます多くなりました。
そのころ英祖王統の中山王である西威が亡くなりました。西威は政治への才覚が無く、国は乱れ、人々は苦しい生活を送っていました。にも関わらず王統は西威の息子を王にしようとしました。息子はわずか5歳でした。
ここでクーデターが起こります。1349年、中山の按司たちは団結し英祖王統を滅ぼし、察度を王位につけたのです。察度30歳のときでした。
一説によると、察度王は英祖王統の財宝を放出し、黄金で農民のために農具を購入したといいます。
こうなると、黄金宮の金塊と話が前後してしまいます。
察度王のこうした善政が、黄金宮の伝説を作ったのかもしれませんね。
沖縄では、羽衣の話も、空想ではなく現実味を帯びてくるから、不思議な処ですね。
御蔭さまで壕を訪ねさせて頂いていますが、こうしたお楽しみの場所も教えて頂いて、楽しんで、歩く事が出来そうです。
自分の将来が見えていたのかも知れません。
こんな時代に生きてみたかったです。
所全、伝説ですから・・・。