読谷の戦跡を語る上で避けて通れないのがチビチリガマとシムクガマです。住民を巻き込んだ地上戦が行われた沖縄を象徴するような二つのガマ(洞窟)をご紹介します。
読谷村の戦跡の中で最も悲惨な殺し合いが行われた場所がこのチビチリガマです。いわゆる「集団自決」が行われたのですが、「自決した」という言葉では表し切れない凄惨な地獄絵図が繰り広げられました。
とてもブログで語り尽くせるものではありませんが、簡単に説明します。洞窟には住民約140人が避難していましたが、米軍は上陸したその日にこの洞窟を発見し、投降を呼びかけました。しかし民間人は殺さないという米兵の言葉を信じられない数人の住民が、竹槍を持って米軍に反撃したのです。米軍は応戦し、銃撃により2名が死亡しました。これを見た避難民は動揺し、波平地区の指導者の「自決せよ」の言葉に、鎌や包丁、看護婦が持っていた毒薬などで、家族が殺し合うという惨劇が繰り広げられたのでした。
暗闇の洞窟の中、結果83名が死亡、その6割が18歳以下の子供でした。中には4ヶ月の赤ん坊もいました。
この集団自決を生み出した伏線は、沖縄差別と、戦時中の皇民教育にあると考えます。「御国のために命を捨てる」、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」という軍事教育は、差別され続けてきた琉球民族が「本当の日本人になりたい」という願望と合致し、県民が傾倒してしまった節があります。そして、直接的な原因は、日本軍の教宣活動です。鬼畜米軍の捕虜になれば、男は戦車でひき殺され女は強姦され殺される、と洗脳され続けた結果、今まで見たことも無かった米兵に追い詰められパニックになった住民は、死を選ぶしか無かったのです。
また、後世にこの事実を伝えるために「平和の像」が建立されましたが、1987年読谷村で行われた海邦国体ソフトボール会場で日の丸が焼かれるという事件が起こり、その報復のために右翼によって平和の像は破壊されました。
本来の平和を願うという遺族の気持ちが、プロバガンダに使われた感があります。
以前に米軍通信基地(通称、像の檻)があった小高い丘の裏側にシムクガマという洞窟があります。波平又川原(マタガーバル)に大きく口を開いたこのガマには約1000人が避難しました。米軍が投降を呼びかけたところ、壕の中はパニックになりましたが、避難していたハワイ帰りの二人の老人、比嘉平治氏(72歳)と比嘉平三氏(63歳)が「アメリカ人は人を殺さない」と、米軍は国際法に従って行動しているということを訴え、人々を説き伏せることができ、その結果一人の犠牲者も無く全員が保護されました。
この対照的な二つのガマは、1kmも離れていません。住民の中にはチビチリガマに逃げようかシムクガマに行こうか迷った人もいたといいます。
沖縄には「命(ぬち)どう宝」という言葉があります。命が一番大切である、ということですが、そんな言葉があっても、洗脳されてしまうと死を選んでしまう。教育というものがいかに重要であるか、この二つのガマは教えてくれているように思えます。
今、一部の団体が、戦争を美化しようとする教科書を作成しています。また、集団自決に軍命はあったか無かったかと裁判にもなっています。しかし、この真っ暗闇の洞窟の中で米軍におびえ死しか選択肢が無かった人々の無念さを想うと、その議論すら意味を失います。
全ての戦争はNo、これが唯一の答えのように思えます。
osakakenさん、
通常、戦争では相手国が敵になりますが、悲しいことに沖縄の住民にとっての敵は、米軍と日本軍でした。
ちんちらぽっぽさん、
おそらく差別は全国にいろんな形であったと思われますが、そもそも日本軍は沖縄人を信用していなかった。だから、方言を話せばスパイ容疑を掛けられ処刑されたのです。
軍は住民を守らない、ということを彼らは身をもって体験しているわけです。
沖縄だけ味わった差別!
今の日本人は平和ボケ!残念!
沖縄はさまざまな面を持っています。
独特の琉球文化を伝える伝統、歴史。
手つかずの美しい海、珊瑚礁、自然。
住民を巻き込んだ唯一の地上戦の傷跡。
米軍占領地の名残と基地。
そのどれもが沖縄ですし、一面だけでは語れません。
ぜひいろんな沖縄の側面を見て頂きたいと思います。
11月に沖縄本島で過ごす2日間は、
戦跡や基地の現状を見ることに専念しようと
思いました。