サンエー西原シティの前を通る県道38号線。西原中学校前の翁長交差点を首里方面に曲がり、西原の塔の少し先に右側に、旧西原村役場壕があります。
町制20周年を記念して整備された戦跡で、立派な案内板が立てられています。
その説明文によると、
旧西原村役場壕の沿革
1941年の太平洋戦争勃発後、日本軍の戦況が悪化してくると、大本営は沖縄に第32軍を配備し、西原村でも西原国民学校などに1200名余が駐屯しました。
戦況がますます厳しくなった1944年6月頃、西原村役場でも地元住民から人夫を雇って役場壕を掘り、戸籍簿・土地台帳などの重要書類や、公金・公印、出納簿、戦時債権などを重さ1トンほどもある壕内の金庫に収納していました。
役場の事務は米軍の本島上陸直前まで行われ、毎朝出勤すると役場壕から書類を持ち出して事務を行い、夕方再び書類を壕内に運んで保管していました。
戦後、壕はそのまま放置され、1980年頃、土地業者が道路に面した部分をえぐってしまった為に主壕の壁が壊され開口してしまいました。本来の入り口は北東に向かった2カ所です。
今日、戦争の歴史的教訓が年々風化するなか、太平洋戦争の悲惨さを物語る、本町での数少ない戦争遺跡の一つとなっています。
とのことであります。
ずいぶんと大きな壕口に見えますが、道路拡張の際に建設業者が崩してしまったのですね。向かって右側の道路沿いに本来の入り口が2ヶ所あります。
書類が湿気ないように風通しを良くするために、壕口を2ヶ所作ったということです。米軍に発見されないように、墓に偽装して作られました。現在、道路が高くなっており、路面よりも1mほど下がった所に入り口が有ります。
内部を窺うと、崩落を防ぐためにアーチ状に天井が作られているのが分かります。こうした壕を作っても、結局住民台帳を始め重要書類のほとんどが焼かれてしまいました。いまだに犠牲となった人々の中に、名前すら判明できていない方々も多くおります。
特に本土の若い人は、他人事のように言いますからね。
チビチリガマ、シムクガマ、米軍上陸の地碑
などを巡りました。
特に、チビチリガマでは、
地元のボランティアの人が修学旅行生に
説明しているのをいっしょに聴くことができました。
生き証人もどんどん少なくなっています。
それだけに戦争遺跡は未来に残していかねばなりませんね。
アルファさん、
チビチリガマとはいきなりハードな所に行きましたな。
ガマの中で何があったのか、しっかりした検証が必要だと思います。
osakakenさん、
いまだに名前も分からないというのが、当時の状況を現しています。
亡くなった方の死を無駄にすることなく、二度と犠牲者を出さない知恵が我々に求められていると思います。