南部病院前から331号バイパスに入らず、海側の旧道を南下します。琉球ガラスで再び旧道がバイパスと合流する300mほど手前の糸洲入り口に第二外科壕の道標が立っています。
電柱に寄り添うような小さな道標で、まして旧道ですから、ほとんどの観光客は気付かずに通過してしまうだとうと思います。
農道をバイパスに向かって進むと伊敷に抜ける手前で道は切り通しになります。その左側、字糸州239番地に木々の生い茂る丘があります。ここに糸州第二外科壕があります。
壕の脇には壕の所在を示す石柱が建てられていますが、表面に書かれた文字はほとんどかすれてしまい、読み取ることは困難です。この壕には南部撤退後の南風原陸軍病院第二外科勤務者とひめゆり学徒隊が避難しました。
壕入口は斜面にあるため上部からの土砂でほとんど埋まっています。かろうじて壕口の上部20cmほどが開口しています。ここにも誰が手向けたのか白百合の花束が置かれていました。
そのわずかな隙間からカメラのレンズを入れてみると、土砂の向こうに壕口を閉鎖したコンクリートブロックが確認できます。おそらく危険のため壕口を塞いだものと思われます。ただ、どれだけ内部が調査されたか不明です。きっと内部にはまだ多くの遺骨や遺品が残っているはずです。
第二外科壕は1945年6月18日に米軍の馬乗り攻撃に遭い、その夜生存者は壕を脱出し伊原第一壕にたどり着きますが、そこで解散命令を受けることになります。
沖縄の地は遺骨だらけ…。そう思うと、寺島尚彦さんのような思いと、経験をしてしまいますね。その後の自分の生き方まで、変わるかどうか、これが問題ですが。
沖縄の地が悲鳴を上げているように感じられます。2度と過ちを繰り返さないためにも、知って貰いたい沖縄の姿です。
案内や説明を書いた盤を設置したいです。
3年ほど前のことだったでしょうか、家の近くの新都心・銘苅の宅地造成で、戦没者の遺骨・遺品が沢山出ましたね。
まだ調査できていないガマは多くあります。
アルファさん、
ほとんどの戦跡が忘れさられているような状況ですね。
もう少し管理態勢ができていればいいのですが。
多すぎて管理も難しいんでしょうね~
多すぎるというのが本当なんでしょうねえ。
不発弾だって、毎週のように撤去してますが、
このペースで取り除けたとしてもあと100年かかる、
と言われてますから。