今や那覇の新しい顔として開発が進む新都心。天久、銘苅、安謝、上之屋にまたがる新しい街は、戦後米軍住宅地として接収され、昭和62年に返還された土地に建設されています。返還後も長い間、汚染された土壌の入れ替え、登記簿謄本が焼失したため所有地の線引きなどで時間がかかり放置されていました。(そのころ解放地といって、うーまくーのたまり場でした)
その新都心の中心地、おもろまち駅の近く、デューティ・フリー・ショップの正面に小高い丘があり、水道局の給水施設が置かれています。この丘が、かつて米軍からシューガーローフと呼ばれ、日本軍と血を血で洗う激戦が行われた場所です。
丘の周囲は大分削られ石垣で固められていますが、かつてはなだらかな斜面が続いていました。慶良間諸島が見えるということで住民たちがケラマチージとよんでいた丘です。この場所は戦時中日本軍が52高地と名付け、地下に網の目に陣地壕が掘られ、強固な要塞となっていました。
1945年5月12日、読谷に上陸してから1カ月半かけて南下してきた米第6海兵大隊第22海兵連隊は安謝川を渡河します。シュガーローフから見通し距離にある安謝川に日本軍は猛烈な集中砲火を浴びせました。3m前進し2m後退するという攻防戦の結果、5月14日に海兵隊はシュガーローフの手前にある小さな丘(クイーンヒル、現日本銀行付近)を占拠します。
クイーンヒルからシュガーローフを攻撃する海兵隊(沖縄公文書館のHPより)
5月15日、戦車を楯にシュガーローフに近づくも、日本軍の斬り込み隊により、海兵隊の前線は20名のみとなり、一旦退くことになります。
5月16日、海兵隊は兵力を増強、再度攻撃をするも、至近距離での熾烈な銃撃戦により敗退、前線を後退しました。
5月17日、海兵隊はシュガーローフの西側にあるクレセントヒルを攻略、シュガーローフの頂上を制圧しますが、再び日本軍の猛攻撃により撤退を余儀なくされます。その後2度目の頂上制圧も失敗、3度目でようやく日本軍を撃退しますが、もはや海兵隊には陣地を維持するだけの余力は残っておらず、撤収することになります。
5月18日、第6海兵師団第29連隊は砲兵隊の援護射撃を受けながらシュガーローフを猛攻撃、ついに陣地を占領することに成功しました。
この戦闘で第6海兵師団は2,662人の戦死者を出しました。日本側の被害は不明ですが、その数倍の犠牲があったと思われます。シュガーローフの攻防は沖縄戦上最も熾烈な戦いであったといいます。詳細は以前のブログでご紹介した書籍があります。
シュガーローフから首里方面を見ます。東横インの左側の小高い山が首里城です。首里城には沖縄守備隊第32軍が置かれ、シュガーローフは首里攻防戦の要となる陣地でした。
シュガーローフに設置された 案内板。
慶良間チージ(シュガーローフ)
沖縄戦の激戦地。字安里の北に、位置する丘陵地帯に築かれた日本軍の陣地の一つ。日本軍は「すりばち丘」、米軍は「シュガーローフ」と呼んだ。一帯の丘陵地は日本軍の首里防衛の西の要衝で、米第6海兵師団と激しい攻防戦が展開された。
とくにここ慶良間チージの攻防は、1945年5月12日から1週間に及び、1日のうち4度も頂上の争奪戦がくりかえされるという激戦の末、18日に至り米軍が制圧した。
米軍は死者2,662人と1,289人の極度の精神疲労者を出し、日本軍も学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した。
それ以降、米軍は首里への攻防を強め、5月27日、首里の第32軍司令部は南部へ撤退した。沖縄戦は、首里攻防戦で事実上決着していたが、多くの住民をまきこんだ南部戦線の悲劇は6月末まで続いた。
(石碑の説明文より)
山頂から東方向を見ます。現在では慶良間どころか、ビルしか見えません。正面のツタヤの向こうがサンエーメインプレイス。那覇で最大のショッピングセンターです。
(沖縄公文書館のHPより)
だいたい同じ方向から撮られた写真です。おそらく中央右の戦車があるあたりがサンエーメインプレイス、中央左の黒い岩山がクイーンヒル(日銀那覇支店)だと思います。
65年の歳月を感じます。
なんとか風化を防がねば、、、
それが今を生きる者の義務と思う。
あれからすぐに買ったのですが、
実はまだ読んでいません。
というか、
最近ほとんどの本が積ん読状態です。