南風原陸軍病院撤退後、糸満市伊原672番地にある縦穴の洞窟に第三外科の職員、衛生兵、学徒隊および引率教師たちは避難しました。この伊原第三外科壕は6月19日米軍のガス弾の直撃に遇い、住民も含め約80名が犠牲となりました。
国道331号線を南下、伊原の交差点の左側に第三外科壕の壕口があります。
第三外科壕の周辺には土産物屋、喫茶店、ミリタリーショップや米軍放出品の店が建ち並び、呼び込みの声も騒がしく、常に観光客であふれています。
壕口の後ろには大きな慰霊碑が建ち、戦没者の氏名が刻まれています。またその背後には財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会によって建設されたひめゆり平和祈念資料館があり、学徒隊の手記、ジオラマなどが展示され、ひめゆり部隊の生き証人が観光客に解説をしてくれます。
第三外科壕の壕口です。数メートル垂直に開口しており、途中のテラス状になった岩に梯子をかけ出入りしていました。
慰霊塔への参道の脇にある「沖縄戦殉職医療人の碑」(右)と「陸軍病院第三外科職員の碑」(左)。
戦後第三外科壕が発見され、遺骨を収拾したときに住民の協力によって建てられた「ひめゆりの塔」。慰霊碑への参道にある「ひめゆりの塔の記」には以下のようなことがらが記されています。
昭和20年3月24日島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員生徒297名は、軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。
戦闘がはげしくなるにつれて、前線から運ばれる負傷兵の数は激増し病院の壕はたちまち超満員になり、南風原村一日橋・玉城村糸数にも分室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜昼となく力のかぎりをつくして傷病兵の看護を続けた。
日本軍の首里撤退もせまった5月25日の夜南風原陸軍病院は重傷患者は壕に残し歩ける患者だけをつれて、手を引き肩をかし砲弾をくぐり、包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。
南にくだった後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれて業務を続けた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。
6月18日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌19日第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げ込まれ地獄絵図と化し、奇跡的に生き残った5名をのぞき職員生徒40名は岩に枕を並べた。軍医・兵・看護婦・炊事婦等29名、民間人6名も運命をともにした。その他の壕にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最期をとげたのである。
戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕が探しあてられた。真和志村民の協力により昭和20年4月7日最初のひめゆりの塔が建ち、次第に整備された。ここに沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員16名、生徒208名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点とする。
第三外科壕から命からがら逃げ出すことができた学徒隊12名と引率教員2名はこのあと荒崎海岸までたどり着くのですが、さらに過酷な運命が待っているのです。
ユリの花がレクイエムを奏でているのですね。
それにしても、不発弾の処理に後100年かかるとは!地雷の絵本の読み聞かせなどさせて貰っていましたが、身近にこんな問題がある事を知り、ちょっとピンボケでは済まされないと思い始めています。
戦跡の代表ですから仕方ないのかも知れませんが、ここと摩文仁の丘を見て「沖縄の戦跡見てきた」ということになっています。
サトウキビ畑の何もない道を走っていると、この伊原周辺だけ店がわっと集まっているのですよね。