管理人のうちなーライフかりゆし日記

管理人てぃんがーらが沖縄の生活を綴ります。

辺野古基地が完成しても、普天間基地は返還されません。

2019年03月07日 | 博士の研究日記

県民投票の結果で、民意は基地新設についてNoを意思表示しました。

しかし、政府は工事の中止は全く考えておりません。

たとえ辺野古に基地ができても、米軍は以下の理由で普天間は返還されないことになっています。

稲田朋美防衛相(当時)は、平成29年6月15日の第193回参院外交防衛委員会で、
「米側との具体的な協議やその内容に基づく調整が整わないことがあれば返還条件が整わず、普天間飛行場の返還がなされない」と明言しています。
http://kokkai.ndl.go.jp/…/san…/193/0059/19306150059027a.html

答弁の根拠は、日米両政府が2013年4月に合意した「沖縄における在日米軍施設・区域に関する統合計画」で、同飛行場の「返還条件」として以下の8項目を列挙しています。

(1)海兵隊飛行場関連施設等のキャンプ・シュワブへの移設
(2)海兵隊の航空部隊・司令部機能及び関連施設のキャンプ・シュワブへの移設
(3)普天間飛行場の能力の代替に関連する、航空自衛隊新田原基地及び築城基地の緊急時の使用のための施設整備は、必要に応じ実施
(4)普天間飛行場代替施設では確保されない長い滑走路を用いた活動のための緊急時における民間施設の使用の改善
(5)地元住民の生活の質を損じかねない交通渋滞及び関連する諸問題の発生の回避
(6)隣接する水域の必要な調整の実施
(7)施設の完全な運用上の能力の取得
(8)KC-130飛行隊による岩国飛行場の本拠地化
https://www.mofa.go.jp/…/usa/hosho/pdfs/togo_20130405_jp.pdf

稲田朋美防衛相は民進党(当時)藤田幸久氏の質疑に「相手があることで、相手との調整ができなければ返還できない」と答弁しています。
つまりこの条件が揃わないと、普天間返還はされないと明言しているのです。そして特に4番目の条件がクリアされるかどうかについては明言を避けています。
今、政府は「普天間の危険除去」を掲げて、「普天間返還につながらないもの」を、国民の税金2兆円をかけて作ろうとしてます。
普天間の危険除去・普天間飛行場返還が大命題なら、なぜ「(4)普天間飛行場なみの長い滑走路」という一番重要な返還条件が語られないのでしょうか。
そもそも、普天間飛行場は2800m級の規模ですので、県内にその条件を満たす飛行場は、空自那覇基地と下地島空港の2か所しかありません。那覇基地を米軍と共用するつもりなのでしょうか。
政府は沖縄県にこの説明はしていません。仲井間知事が辺野古埋め立て承認した際には「条件」の説明は無かったと、県議会で報告されています。稲田防衛相が答弁した内容は「密約」ではないかという見方もあります。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/208873
普天間返還に結びつかない1800mの短い滑走路を、密約で2兆円掛けて作ることになる辺野古基地。
またこのことは承認撤回の大きな理由にもなり得るとも思うのですが、玉城知事は追及していません。


オスプレイ飛行 米軍、日本政府の自粛要請を拒否

2017年08月08日 | 博士の研究日記

また、オスプレイが事故を起こしました。
航空機それも軍用機ですから事故は起こります。今後も起こるでしょう。
で、政府が米軍に「オスプレイ飛ばすのは自粛してね」と要請したのですが断られたというのが今日の記事です。これ、本当に要請したのでしょうか?というより「飛行禁止」を言えないのでしょうか?自粛してねって英語ではどんな言葉だったのか分かりませんが、できたらお願い、程度であったことは予想できます。ポーズです。

普天間にオスプレイを配属させるとき、政府は「オスプレイの事故率は1.93で、海兵隊全機の平均より低いから安全です」と説明しました。2012年当時の海兵隊全機平均は2.45でしたから、確かに数字上は安全に見えます。ただしこの数字、オスプレイの開発実験段階の2003年10月から2012年4月の集計で、いわば実験室の中の数値。政府はそれを承知していながら説明に使ったのですね。

で、直近の10万時間当たりの重大事故率は、3.44。2016年の海兵隊全機の平均は2.63ですから平均以上の事故率ということになります。オスプレイが平均を引き上げているともいえます。重大事故というのは死者が発生したか損害200万ドル以上の事故のことですから、それ以下のトラブルはもっと多いはずですね。

国民に事故率を少なく説明した政府が、米国に対して強い態度をとれるとはどうも思えないのです。

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/125061


沖縄を離れて

2017年08月01日 | 博士の研究日記

久々の投稿です。

 ブログを放置いたしまして申し訳ありません。沖縄を離れて数年、仕事もリタイアいたしました。ということで、しばらくは内地から見た沖縄について投稿していきたいと思います。
 こちらでのしがらみが無くなりましたら、再び沖縄に住みたいと思っております。

 ガイドブックに載らない情報も、できるだけご紹介していきたいと思います。

 


R.J.ロベルトソン号、遭難

2014年07月11日 | 博士の研究日記

 宮古島市平良にあるドイツ皇帝博愛記念碑。

 141年前の今日はドイツの商船ロベルトソン号が宮古島近海で遭難した日です。
 1873年(明治6年)7月11日のこと、宮古島は台風でした。中国の福州からお茶を積んで出航し、オーストラリアに向けて航行していたドイツの商船「R.J.ロベルトソン号」は、宮古島の近海で暴風雨に遭遇しました。2本のマストは強風に折られ、乗員10名のうち2名を失いながら荒海を漂流し、宮国村沖に座礁してしまいました。
これを見た島民はサバニで救助に向かうのですが、波が高くて船に近づくことができません。そこで波がおさまるまで夜間海岸で松明を焚き、乗員たちを励まし続けました。
 翌朝、風がおさまると漁師たちが舟を出し、8名の乗員を救助し、手厚く看護をしました。
 ロベルトソン号の船長は帰国できるように宮古島の役人に船を手配してくれるように要望します。役人は首里に報告するのですが、返答が一向に無いため、難破から34日後に帆船を手配し乗員を帰国させました。
 この事実を知ったドイツ皇帝ヴィルヘルム1世は、宮古島の人々の博愛精神に感動し、1876年軍艦チクローブ号を派遣し、平良港の近くに博愛精神を称賛する記念碑を贈呈、設置しました。

 宮古島市上野にあるうえのドイツ文化村。「独逸商船遭難の地の碑」があります。

 白く波が立っているリーフのあたりでロベルトソン号は座礁しました。

 不思議なことにこの事実はその後長らく人々から忘れられていました。1933年に文部省が教科書の教材を募集する企画に、宮古に旅行に来て記念碑に興味を持った日銀君寝支店長の松岡益雄氏が応募、当選したことにより、広く日本に知れ渡るようになりました。
 この博愛精神はアララガマ精神と並んで、宮古人の人となりを表す言葉となりました。


宮森小学校戦闘機墜落事故

2014年06月30日 | 博士の研究日記

 今から55年前、1959年の今日6月30日は、米空軍のジェット戦闘機が、石川の宮森小学校に墜落した日です。この事故で教室にいた学童を含む17人が犠牲となりました。

 朝10時40分ごろ米空軍のノースアメリカンF100型ジェット戦闘機が、整備飛行のため嘉手納基地を離陸直後、操縦不能に陥りました。パイロットは基地からの指示に従い、機首を太平洋に向けた後に具志川上空付近でパラシュートにより緊急脱出しました。ところが無人となった戦闘機は海に向かわず大きく旋回を始め、徐々に高度を下げながら陸地に戻ってきました。そして石川の住宅地に墜落、衝撃で機体は150mほどバウンドし、住宅35棟をなぎ倒しながら宮森小学校の校舎に激突、爆発炎上しました。
 この事故により児童17人、住民6人が死亡、重軽傷者210人、校舎3棟・住宅27棟・公民館1棟が全焼、校舎2棟・住宅8棟が半壊するという、戦後未曾有の大惨事になりました。
 事故の直後から、県内各所の消防、軍警察、医師らが現場に駆けつけ、懸命の救助を行ったといいます。
 しかしながら爆発したジェット機の炎の勢いは激しく、鎮火までに1時間を要しました。犠牲となった子供たちのほとんどが、逃げ出したものの炎に包まれ、校庭の水飲み場で息絶えたといいます。

  (現在の宮森小学校)

 宮森学校の内庭には、犠牲となった児童を慰霊する「なかよし地蔵」が建立されており、毎年追悼式が行われています。


 昨年の1月、沖縄復帰40周年記念作品として映画「ひまわり~沖縄は忘れない あの日の空を~」が制作されました。(監督:及川善弘、出演:長塚京三、能年玲奈)
http://www.ggvp.net/himawari/
ぜひご覧いただきたい映画です。

 


護佐丸の日

2014年05月30日 | 博士の研究日記

 5月30日は護佐丸の日です。2009年に中城村が制定しました。5.30で護佐丸、語呂合わせですねえ。
 護佐丸は1390年ごろの生まれ、読谷山按司の子といわれています。ただ、生まれ年にも諸説あり、詳しくは分かっていないのですね。
 尚巴志が北山の制圧に乗り出すと、護佐丸はその大将に抜擢され、今帰仁城に攻め入り北山王国を滅ぼしてしまいます。そして尚巴志は引き続き北山を見張るように命じるのですね。そこで、護佐丸は読谷に座喜味城を築城し、北山を監視しました。この座喜味城、かつての護佐丸の居城だった山田城の石垣を運んだそうです。堅牢で、美しく曲線を描いた座喜味城によって、護佐丸は築城家としての名声を高めました。



 北山は制圧したものの、今度は勝連がきな臭くなってきます。勝連城を根拠地とする茂知附按司(あじ、地方豪族)が徐々に力をつけて来たのです。そこで尚巴志は、中城の自分の領地を護佐丸に与え、城の建設を要請します。中城城で勝連を牽制しようとしたのですね。



 さて、ここからいよいよ話が面白くなります。阿麻和利の登場です。
 阿麻和利は悪政を行っていた勝連按司 茂知附を滅ぼし、勝連城を手に入れました。そして東南アジアとの交易を盛んにし、勢力を大きくしていきました。
 そんな中、1454年に王位継承権をめぐる王家の内乱「志魯・布里の乱」が起きます。尚巴志の子尚布里が失脚、尚泰久が第六代国王となりました。しかし、内乱で王権は失墜し、地方豪族達がいつ王府に反旗を翻すかわからない情勢になりました。護佐丸の娘を正室としていた尚泰久王は、長女百度踏揚(ももとふみあがり)姫を阿麻和利に嫁がせます。護佐丸・阿麻和利という二大実力者を親戚にして、自分の立場を確かなものにしようとしたのですね。
 しかし1458年8月、「護佐丸・阿麻和利の乱」が勃発します。
 ことの始まりは護佐丸が阿麻和利征伐のために兵馬を整えたことによります。これを見た阿麻和利は国王に「護佐丸が反乱を起こそうとしてますぜ」と告げ口をします。すっかり信じ込んだ尚泰久王が阿麻和利を総大将に任じ中城城に派兵します。城を包囲した軍勢が王府軍であることに護佐丸は悲嘆し、反撃もせずに自害してしまいます。
 宿敵護佐丸を滅ぼした阿麻和利は、その勢いに乗じて首里王府に攻め入ろうと計画します。夫の計略に気付いた百度踏揚は勝連城を抜け出し、国王に阿麻和利の策略を伝えるのです。こうして阿麻和利は鬼大城率いる王府軍によって急襲され滅ぼされました。
 この話にも諸説あり、史書では護佐丸が首里城の攻略を計画していたとか、もともと尚泰久王は、護佐丸、阿麻和利ともに滅ぼすつもりだったとかいう説もあります。
 尚泰久王は最初は護佐丸・阿麻和利を利用したのですが、彼らが力を持つようになると邪魔になったのかもしれませんね。
 琉球の群雄割拠の時代、壮大なドラマがあったのですねえ。


オリオンビール誕生日

2014年05月18日 | 博士の研究日記

  昭和32年の今日、5月18日はオリオンビールが設立された日です。なんと私と同じ年なんですねえ。
 米軍の占領下にあって、沖縄の経済振興と雇用創造のために1957年5月18日に前身である沖縄ビール株式会社が首里寒川町に設立されました。そして11月1日に新聞広告で「大衆に親しみやすく呼びやすい名称」をと、ビール名を一般公募、 選考の結果首里山川町の宮平ヨシさんの「オリオン」が採用されました。2位は「ゴールデン」3位は「サン」でした。ちなみに1等賞の賞金は10,000B 円。B円というのは占領下の沖縄で、軍票という米軍が管理する通貨単位でした。当時の10,000B円は83ドル40セント、現在の価値に直すと約40万円です。
 そのときの講評では、オリオンは南の星座で南国沖縄にマッチしたイメージであること、星(スター)は人々の夢や憧れを表すものであること、また沖縄を統治していた最高司令官の象徴が「スリースター」であったこと、などから決定されたとのことです。
 現在のOrionのロゴですが、文字の一部が斜めにカットされたデザインになっています。カットされたOは、未完成の円であり理想を追求することにより完全な円を目指すという企業姿勢を表しています。
 さて、今夜もオジー自慢の三ツ星を掲げましょうかね。誕生祝いで、あり、乾杯!

黒糖の日

2014年05月10日 | 博士の研究日記

 今日5月10日は黒糖の日です。沖縄産の黒糖の良さをPRして販売拡大に繋げようと、2010年に県と生産地の町村、それに製糖会社などで作る「沖縄県含みつ糖対策協議会」が制定いたしました。


 沖縄で黒糖が作られるようになったのは今から380年程前、1623年(元和9年)琉球王朝尚豊3年、儀間真常が中国から製糖法を学び普及が始まりました。
 伝統的な琉球料理に欠かせ無い黒糖ですが、お茶請けや、海に行くときなどにも広く使われ親しまれています。私が好きなのは、つぶつぶの黒糖。ぱらぱらと崩れるあの食感が好きですねえ。ミネラルたっぷりの黒糖、家の食卓にも常備されています。
 黒糖はサトウキビを絞って作る沖縄の名産品ですが、不思議なことにこれを原材料にした酒がありません。沖縄では黒糖焼酎やラム酒など作られずに昔から輸入米を原料に泡盛が作られていました。最近になって沖縄電力のベンチャー企業がラムを作り始めたくらいです。一面のウージ畑を前にいつも考えてしまう疑問です。


5月8日はゴーヤーの日

2014年05月08日 | 博士の研究日記

 

5月8日はゴーヤーの日です。

そしてJefが、ハンバーガー界に革命を起こしたあのゴーヤーバーガーを発売した日でもあります。
ゴーヤーバーガーの誕生は1993年のことでした。
ゴーヤーのスライスが入った玉子の生地をバウンズで挟み込んだゴーヤーバーガー、食べてみると以外に美味しい。
ゴーヤーバーガーのヒットに味をしめたJef、その後あろうことか、ゴーヤーバーガーにポークを入れた、ぬーやるバーガーを発売、地域密着型B級グルメとしてファンを増やしています。


ちなみに「ぬー(何)やるばー」とはウチナー口で「何だって」というような意味。関西弁で「何ちゅーねん」と似たようなニュアンスです。
沖縄に来たらエンダーとともにJefもお試しあれ。

沖縄近海に眠る水爆

2014年05月07日 | 博士の研究日記

 沖縄の近海に水爆が眠っていることをご存知でしょうか。
 1989年の今日、5月7日、米ニューズウィーク誌は1965年に米海軍艦載機が水爆を搭載したまま沖永良部島の東約300kmの沖縄近海に水没し、米海軍はこの事故をもみ消したと報じました。
 事故を起こしたのはベトナムから横須賀に帰還途中の空母タイコンデロガです。核兵器搭載訓練中、第56攻撃飛行中隊ウエブスター中尉を乗せた戦闘機ダグラスA4Eスカイホークが、格納甲板からエレベータで移動中に所定の場所に停止できず、海に転落したものです。この戦闘機には1メガトンの水爆B43が1個装着されていました。水爆は空母から落下時に機体から外れ、煙を噴きながら海に沈んだといいます。この事故を米軍は長らく隠蔽し、24年後の今日5月7日、ニューズウィーク誌によって明らかにされたのでした。
 この水爆、水深4,800mの海底で眠っており、現在まで約50年間プルトニウムを流出し続けているのです。
 この内容は「トップガンの死」という本に書かれています。日米が長らく隠し続けた事実を知って頂きたいと思います。


浦添ようどれ

2014年04月29日 | 博士の研究日記

 2005年の今日4月29日は国王の墓陵である浦添ようどれの復元が完成しした日です。
 パンフレットによりますと、浦添ようどれは、浦添グスクの北側崖下にある琉球王国初期の王陵で、咸淳年間(1265-1274年)に英祖王が築いたといわれています。
 その後、1620年に浦添出身の尚寧(しょうねい)王が改修し、王自身もここに葬られました。崖に横穴を掘り墓室とし、中には中国産の石で作られた石厨子があります。向かって右側が英祖王、左側が尚寧王の墓といわれています。「ようどれ」とは琉球の言葉で「夕凪」のことです。
 沖縄戦では米軍が日本軍の要塞と間違え攻撃し、破壊されてしまいました。参道にあったトンネルも爆破され崩れてしまいました。
 戦後、琉球政府により墓室が復元され、2000年~2005年に墓庭や参道が整備されました。
 画像は完成直後に訪ねた時のものです。真っ白な琉球石灰岩で造られた墓陵は、静謐な空間を作り出し、まさに王家とグソー(あの世)を結ぶ神聖な雰囲気をかもしだしていました。


 かつてここはトンネルだったということです。米軍の攻撃により山がくずれてしまいました。


 墓庭への入り口です。アーチ状の門をくぐります。


 ここから静寂な空間が広がります。


右手前が英祖王、奥が尚寧王の墓と言われています。


 ようどれを訪ねたのは夕刻でした。陽は傾いていましたが、石灰岩が白く光り、なんだか結界の中にいるような気持になりました。
 琉球石灰岩はその性質により年月が経つと黒く変色していきます。将来に訪ねると、また違った趣で迎えてくれるのでしょうね。


大シーサーの誕生日

2014年04月06日 | 博士の研究日記

読谷村残波岬の大シーサー。先週の金曜日に28歳になりました。
全長6m、高さ7mは県内で最大のシーサーです。
ということは日本最大のシーサーということですね。
この大シーサー、1986年に作成されたもので、かつて読谷は中国からの文化を取り入れて大いに栄えたことを後世に伝えるという意味を込めたものです。
ということで、文明が伝来した中国の方角を見つめて立っています。

 


サトウキビ畑

2014年03月23日 | 博士の研究日記

 10年前の2004年の今日3月23日は「さとうきび畑」の作者、音楽家寺島尚彦氏が逝去された日です。
 寺島尚彦氏は1930(昭和5)年6月4日 栃木県生まれ、東京藝術大学音楽学部作曲科を卒業し、洗足学園音楽大学で教鞭を取りました。1964年に寺島氏は初めて沖縄を訪れます。そして観光ガイドと一緒に南部を観光します。
 沖縄の青い空、白い雲、エメラルドグリーンの珊瑚礁、そして青々と葉を伸ばすサトウキビ畑。そのときガイドが寺島氏に「この畑の下に、まだ多くの戦没者の骨が眠っているのです」と伝えました。
 それを聞いた瞬間、目の前に広がっていた原色に塗られた風景が一瞬にしてモノクロームに変わった、といいます。
 そして、呆然と立ち尽くす寺島氏の耳には、サトウキビ畑を渡る風の音だけが残りました。
 こうして、ざわわ、ざわわ、で始まる「サトウキビ畑」が生まれました。1967年に発表された「サトウキビ畑」はたくさんの歌手によって歌われ、多くの人たちの心を打つ名曲となりました。
 

オヤケアカハチ

2014年03月20日 | 博士の研究日記

 約五百年前の今日、1500年3月20日(旧暦2月20日)はオヤケアカハチが琉球王府軍との戦い(アカハチホンガワラの乱)に破れ、戦死した日です。
 オヤケアカハチについては、八重山の英雄として、改めて説明することも無いくらい、みなさんよくご存じかと思います。舞台劇も何度か上演されています。

 そんな英雄も中山王府から見ると、中央集権化を進める上での邪魔者だったわけですね。
 金城哲夫はウルトラマンに登場する怪獣レッドキングの由来はアカハチであると言っていましたが、まさに中央側から見ると辺境の地の怪獣のような反逆者だったのでしょう。

 八重山は長く一つの文化圏を形成し、独自に歩んできました。
 オヤケアカハチは波照間で生まれ、幼少の頃から頭角を表していたといいます。
 八重山で勢力を拡大していったアカハチは、すでに中山王府から宮古の首長を任じられていた仲宗根豊見親からの年貢を断るなど、中央に反目する勢力になっていきました。
 八重山の中には仲宗根豊見親と親族関係になり王府と組む勢力、長田大主もいましたが、アカハチは長田大主一族を討ち滅ぼしてしまいます。八重山で内戦があったわけですね。こうしてアカハチの勢力が増大していくにつれ、王府や仲宗根豊見親は「これはけしからん奴だ」と思ったわけです。
 で、1500年、王府は46隻の船に3,000人の軍勢でアカハチ討伐に出兵します。
 迎えるアカハチ軍は、海岸で女性たちが両手に草木を持って踊り、呪術を唱え、相手を呪います。 王府軍はそれを見て「日が悪い」といったん引き返します。なんとものんびりとした戦いです。
 翌日、王府軍は新川と登野城の二手に別れて上陸し、挟み打ちにして、アカハチを討ち取ります。
こうして王府の統治は宮古、八重山まで及ぶようになり、中央集権化が進むようになっていくのです。
 時代に翻弄された反逆者、地元のヒーロー、オヤケアカハチ。なんだかマブヤーのハブクラーゲンやハルサーエイカーのチリー・ドブーと通じるものを感じます。私だけかも知れませんが。

 


誠ぐわぁ、一周忌

2014年03月19日 | 博士の研究日記

今日3月19日は早弾きの名手 登川誠仁の一周忌ですね。
小柄な外見からは想像がつかないほどのダイナミックな音色を紡ぎだす誠グワァ。
映画「ナビィの恋」では、実にダンディで沖縄らしい「おじぃ」を演じていました。
私が誠グワァをナマで見たのは奇しくも2006年3月19日、金城みゆき芸道30周年のコンサート。
そのときには元気に三線弾いたり太鼓叩いたりしていました。

誠グワァ、永遠なれ。