戦跡を訪ねるシリーズ、読谷村の戦跡の最後として、読谷村渡具知にある米軍上陸の地の碑をご紹介します。
比謝川の河口、渡具知城につながる小高い丘の上に「勿為沖縄戦場」の碑があります。
アメリカ軍は日本本土攻略の足掛かりとするため、沖縄上陸作戦をアイスバーグ作戦と名付け、周到な準備のもとに太平洋軍のほぼ全兵力を集結させ、この小さな島に投入しました。
その兵力、戦闘部隊と補給部隊あわせて550,000人。大量の航空機、戦艦、戦車、火器が投入されました。
1945年4月1日午前5時30分、1,300隻の艦隊を率いるターナー海軍中将は読谷村渡具知から嘉手納、北谷にかけての本島西海岸に向けて一斉に艦砲射撃を仕掛け、それに続き、米第十軍バックナー陸軍中将の率いる海兵隊は水陸両用戦車、上陸用舟艇で60,000名が無血上陸を果たし、1日にして橋頭堡を築いたのです。
従軍記者のアーニー・パイルは、あまりにあっけなく上陸を果たせたので、エイプリルフールではないのか、と本国に打電しました。
渡具知から嘉手納方向を望みます。この海岸が米軍の艦隊、上陸用舟艇で一面埋めつくされました。これを迎え撃つ牛島中将率いる沖縄守備隊は総勢で約110,000人。主力部隊は中国戦線から移動してきた精鋭部隊といわれた第三十二軍ではありましたが、米軍沖縄上陸に先立つ1945年1月にフィリピンが陥落し、色をなした大本営は次の標的と思われた台湾に沖縄守備隊の最新鋭だった第九師団を転出させ、実際のところ沖縄の防衛力は大幅に弱体化していたのです。
さらに守備軍の三分の一は軍事訓練もされてない防衛隊と称する現地沖縄で集められた補充兵や学徒隊であったこと、物資の補給路を絶たれ物資や火器銃弾も欠乏していたことなどから、どう考えても戦闘にはならないほどの戦力差があったのです。
その結果、沖縄戦は米軍を引き込んで持久戦にに持ち込み、本土決戦までの時間を稼ぐという捨て石作戦にならざるを得なかったのです。
戦後50周年を記念して造られた石碑には、平和への近いが刻まれています。我々はこの願いを次の世代に伝えていかねばなりません。
ところで余談ですが、米軍は上陸すると直ちに補給基地として軍事物資の集結倉庫、兵舎、ガソリン貯油タンクを作ります。そして次ぎに作るのが米兵にとって欠かせない物なのですが、それは一体なんだと思いますか?
答えは郵便局と教会です。戦争の最中でも敵地に作るのですね。米軍の余裕を感じます。
いかにもアメリカらしいですね。
石垣の孫が 柔道を習い始めました。平和な時代が続いて どこまでも趣味で・・楽しんで欲しいと願っています。
南部に住民が撤退するとき、米軍からの攻撃を避けるために夜間に移動したそうです。でもお昼には攻撃が止むことに気づいて、その間に危険な場所を通過したとのことです。
米軍はランチタイムを取るのだそうです。
osakakenさん、
その従軍記者アニー・パイルも伊江島で銃弾に倒れました。
お孫さんの成長が楽しみですね。