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管理人のうちなーライフかりゆし日記

管理人てぃんがーらが沖縄の生活を綴ります。

糸満の戦跡9 白梅の塔の壕(上の壕)

2012年03月07日 | 博士の研究日記

 白梅の塔の下の壕から道路を挟み、100mほど登ったところに上の壕があります。
 上の壕は軍の資材置き場でありましたが、白梅舞台の休憩所として使われていました。白梅同窓会が建てた石碑の後ろが壕口です。
 白梅学徒隊の由来の白梅は、沖縄県立第二高等女学校の校章に使われた花でした。

 壕は自然壕が崩落してできたドリーネ状になっています。直径10mほどに開口しており、底部から洞窟が伸びています。

 石碑によると昭和20年6月22日に、米軍の攻撃があり白梅学徒隊2名が死亡、1名重傷(翌日に米軍の病院で死亡)。こうして、解散後戦場を彷徨った24名のうち、17名が犠牲となりました。

 


糸満の戦跡8 白梅の塔の壕(下の壕)

2012年03月03日 | 博士の研究日記

 沖縄戦では何の法的根拠も無いまま、学生が戦場に駆り出されました。沖縄県立第二高等女学校の生徒は白梅隊として、第24師団第1野戦病院に勤務しました。15-6才の少女達は、医療物資のほとんど無い壕の中で、負傷兵の手当て、死体の処理、炊事などの重労働に従事しました。
 ところが6月4日、八重瀬の壕で解散命令が出され、少女達は戦場を彷徨うことになります。白梅萼と隊の一部16名がたどり着いたのが、ここ糸満市真栄里の壕でした。壕は「上の壕」と「下の壕」の二つがあり、下の壕には野戦病院に配置された衛生兵がおり、傷病兵の手当てを行っていました。白梅部隊は再び傷病兵の看護の手伝いを行いましたが、下の壕は6月21日、米軍による馬乗り攻撃にあい6名が死亡、翌日上の壕も攻撃を受け3名が死亡しました。

 戦没した白梅部隊、及び教職員同窓生149柱の鎮魂のために建立された白梅の塔。いまでも多くの人が訪れます。

 南禅廣寺とかかれたお堂の脇に、解散後16名の白梅部隊がたどり着いた壕があります。

 下の壕は階段手すりが整備され、内部まで入ることが可能です。

 それほど広い空間ではありません。土砂が流入し、かなり堆積している様子です。

 自然壕であり、天井部には鍾乳石が垂れ下がっています。地下水が、天井から降ってきます。こんな中に、多くの負傷兵がおり、学徒隊は手当てを行っていました。手当てといっても医薬品があるわけでなく、その仕事は包帯の交換、食事の世話、糞尿の始末、そして死体の処理でした。

 内部から外を見上げます。もちろん当時は階段も無かったのですから、岩を伝って出入りしていたのです。

 


那覇の戦跡14 旭ヶ丘の壕群

2012年02月27日 | 博士の研究日記

 那覇市若狭の海辺沿いの小高い丘にある旭ヶ丘公園。園内には波の上宮や護国寺、波の上ビーチがあり、市民の憩いの場となっています。この丘に日本軍が陣地壕を構築しています。都市部の公園とあって、現在すべての壕口はブロックにより閉鎖されていますが、公園を一周すると数多くの壕口を確認することができます。

 公園の南東にある壕口。道路から3mほどの高さにあります。斜面が道路により削られたために露呈したものです。

 南側にある壕口。

 同じく南側の丘の中腹にある壕口。

 ビーチ近く公園内にあるトーチカ跡。

 同じく公園内にあるトーチカ跡。海岸線を狙ったものです。

 公園の一角にある対馬丸記念館。昭和19年8月22日、那覇国民学校の疎開学童、引率教員、一般疎開者、乗組員1788名が乗った対馬丸は、鹿児島県悪石島付近で米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没、1418名が犠牲となりました。
 この事実を後世に伝え、平和教育の一環となるように設立された記念館です。HPはこちら。

 市内唯一の海水浴場である波の上ビーチ。観光客も多く訪れます。

 


糸満の戦跡7 富嶽山陣地壕

2012年02月26日 | 博士の研究日記

 照屋から県道82号線を西崎に向けて下りていくと、阿波根橋を渡り切った左に小高い丘があります。阿波根グスクがある富嶽山です。戦時中、この近辺には歩兵32連隊の歩兵砲部隊が配置されておりました。

丘の周囲には古くからの墓があり、阿波根橋のたもとから、墓所に向かう山道が続きます。清掃が行き届いている墓もあり、代々使われている様子です。

 整備された山道も次第に険しくなり、道が途切れるあたり、丘の南側斜面に所有者も不明な古い墓が数基あります。その古墓に囲まれるようにして、壕が口を開けています。歩兵第32連隊歩兵砲部隊の陣地壕です。もともと墓として利用されていた自然壕を、陣地に利用したものと思われます。この陣地壕は対戦車攻撃用として構築されたものです。

 壕内部は5mほど進むと途中で天井が崩落しています。これ以上奥に進むことはできません。天井には鍾乳石も確認できます。

 内部に古い骨壷が放置されていました。中には何も入っていませんでした。戦前からあるものなのか、後から持ち込まれたものなのかは分かりません。過去、墓として利用されていたようです。

 壕内部から南側斜面を眺めます。今は植物が生い茂っていて遠くを見通せませんが、南の海岸沿いから侵攻する米軍を狙う作戦だったようです。
 しかし、撤退を続ける日本軍は実弾も少なく、1発撃つと何十倍ものお返しが来たということで、歩兵隊は壕の中でひたすら息をひそめていたようです。

 壕口にはこんな看板が。

 


糸満の戦跡6 潮平権現

2012年02月24日 | 博士の研究日記

 糸満市阿波根941番地の農地の中にある潮平壕は、長さ150メートルの自然壕で、十十空襲の際に住民の避難壕として利用されました。
 沖縄戦では、字潮平の住民約560名が約3カ月にわたり壕の中で過ごし、昭和20年6月14日(旧暦5月5日)に一人の戦死者を出すことも無く、全員無事で米軍に投降することができました。
 1953年10月、壕への感謝と戦争犠牲者の追悼、世界平和を願い、潮平権現として鳥居が建立されました。毎年旧暦5月5日に潮平権現祭が行われています。

 サトウキビ畑の中に、潮平権現はあります。
 住民たちを救った壕への感謝の念を表すため、戦後この鳥居が建てられました。壕の保存状態は良く、住民たちが大切に管理していることが分かります。この鳥居の手前と奥の2箇所に壕の入り口があります。ふたつの壕は内部で連絡しています。

 手前の壕の入り口です。土砂の流入によりだいぶ狭くなっています。

 鳥居の奥の壕入り口です。斜めに地面が裂けたような形をしています。

 米軍により手榴弾が2回投げ込まれたということです。戦後70年近く経った今でも、天井に焦げた跡が残り、足元には陶器・瓶などのかけらが散乱しています。
 遺留品の持ち出しは禁じられています。
 左の白い看板は、壕内見学順路を表すために設置されたものです。懐中電灯を消すと、内部は真っ暗闇です。

 壕内には不発弾も残されています。むやみに歩き回ると危険です。

 壕の入り口を内部から見上げます。
 この地区は水が豊富で、夜になると水汲みや洗濯のために外に出て、昼は壕の中で過ごしたということです。
 丘の中腹にある壕の入り口。上から見ると、サトウキビ畑が広がっています。当時も変わらない風景だったのでしょうか?

 


糸満の戦跡5 ウフ壕(田原屋取の壕)

2012年02月22日 | 博士の研究日記

 ウフ壕は糸満市真栄里1789番地、真栄里集落の東側丘陵にある自然壕です。戦時中、地元住民が避難するために整備されました。
 真栄里には日本軍の最後の防衛戦として多くの陣地壕が構築され、日本軍が配備されました。陣地壕だけでは足りずに、民間の避難壕にも日本軍が入り込みました。
 首里陥落後の6月4日、歩兵第32連隊第3大隊の連隊長以下50名が撤退してきてウフ壕に布陣しました、壕の中に避難していた住民たちは、日本軍に壕から追い出されました。
 6月22日に牛島中将、長参謀が自決し、日本軍の組織的戦闘が終わった後でも第32連隊は抵抗を続けました。米軍は壕内の日本軍に対し、執拗に爆撃を繰り返し、ようやく8月28日になって日本軍は捧持していた軍隊旗を壕内で奉焼し、翌日米軍に降伏しました。

 真栄里の山形の塔。沖縄戦で犠牲となった山形県出身者約4万柱の霊を祀っています。ウフ壕はこの塔の下にあります。

 岩の隙間に壕口があります。入り口はフェンスで塞がれ、内部に入ることはできません。

 山形の塔と道路を挟んだ反対側に、歩兵第32連隊終焉の地の碑が立てられています。

 


糸満の戦跡4 住宅地にある弾痕

2012年02月19日 | 博士の研究日記

 沖縄本島南部の都市、糸満市。糸満といえば海人(うみんちゅ)といわれるように、昔から漁港を中心に栄えた街です。
 糸満の語源には諸説有り、サバニで遠く欧州まで渡った海人を極東から来たということで「イースト・マン」と呼ばれたとか、昔船が座礁し8人のイギリス人が住みつき「エイト・マン」からきたとか言われています。8人の外国人の血をひいているのか、糸満の人はちょっと顔だちが違います。
 いずれにしても糸満は海とともに栄えてきました。

 ところが沖縄戦では司令部が首里から南部に撤退したため、糸満は米軍の掃討作戦により戦場となりました。
 糸満市の住宅地を歩くと、今でもいたるところに機銃や迫撃砲の痕を見ることができます。

 三巓毛(サンティンモウ)公園の裏手にある民家。たまたま家の奥様が玄関に出ていており、お話を伺うことができました。
 このお宅は建物は数年前に建て替えたと言うことですが、石塀は戦前のものだそうです。小さな穴は銃弾の痕です。何ヶ所かモルタルで穴を埋めた跡がありますが、これは砲弾の痕ということでした。

 これも砲弾の痕です。石塀を貫通しています。

 小銃の弾痕。これも民家の奥様が教えてくださいました。

 住宅地の細い通り。糸満は古くからの住宅地が多く、細い路地がたくさんあります。こんな路地にも、石塀に弾痕が残ります。

 路地が細いため、石塀に斜めから着弾している様子がわかります。

 車も通れないこうした路地にも、弾痕が残ります。路地を丁寧に歩けば、銃弾の痕はいくらでも見つけることができます。

 戦後60数年経ちますが、今でも戦争の傷跡が残る場所で、人々は日常の生活を送っていることに深く考えさせられました。

 

 


那覇の戦跡13 てんぷら坂の防空壕跡

2012年02月18日 | 博士の研究日記

 牧志の市場通りを壺屋方面に進み、アーケードを抜けると、壺屋焼物博物館の手前の左側に細い坂道があります。
 かつて、天ぷら屋が軒を重ねたというところから、てんぷら坂とよばれています。
 そのてんぷら坂の左側の崖の斜面に沿って、壺屋の住民たちが掘った防空壕の壕口が並んでいます。防空壕は1944年の10・10空襲の前日に完成したということで、近隣の住民たち約千人が避難したということです。

 てんぷら坂です。坂下に立つと、左手が市場、右手が壺屋焼物博物館の方向になります。

 てんぷら坂を登り、上から見下ろします。後方は桜坂方面になります。右手のフェンスの奥に防空壕の入り口があります。

 2つの壕の入り口が、金網で塞がれています。中の看板は「ごみ捨て禁止」というもの。壕の案内板はどこにもありません。
 沖縄戦で使われた壕はほとんど自然壕ですが、ここ壺屋は当時から住宅密集地であり、住民たちが総出で手掘りしたということです。

 てんぷら屋の建物裏に、壕口があり、セメントで塞いだ跡があります。壕はこの周辺に6箇所掘られ、中でつながっていたといいます。

 てんぷら坂の下の店舗の裏にも、埋もれかかった壕が見えます。2階の高さです。戦後、道路が掘り下げられたために壕口が高くなってしまっています。

 

 


那覇の戦跡12 カテーラムイ旧海軍壕跡

2012年02月11日 | 博士の研究日記

 ゆいレール小禄駅の東側に、田原公園があります。この公園の中央に小高い丘があり、周囲に木陰が多く、噴水や小川が配置され、夏には涼を求める市民の憩いの場所になっています。

 この丘の地下にかつての沖縄戦に海軍の陣地が構築されました。

 丘に登る階段脇に壕口があります。擁壁とともにコンクリートで補強され、扉で閉鎖されています。

 中を窺うと整備されきちんと保存されているのが分かります。

 当時のままの送電用電線が残されています。

 周囲に壕口は4ヶ所確認できました。

 設置された案内板によると、

カテーラムイ(寿山)旧海軍壕
 海軍航空隊巌部隊の本部陣地壕。日本軍は、この地を寿山と称した。小禄飛行場防衛のため、小禄・豊見城一帯では、海軍少将大田実司令官の指揮下に連合陸戦部隊が編成され、多くの陣地壕が掘られた。その一つが本壕で、1944年8月から12月にかけて住民も動員して突貫工事で完成した。総延長は350mで、その中に司令室・兵員室・暗号室などが設けられた。1945年6月4日、米軍は飛行場のある字鏡水に上陸、戦闘が始まった。6月7日、米軍はここカテーラムイ一帯に激しい攻撃を加え、数日で制圧した。壕内には最大1000人余の将兵・住民がいた。南部への撤退、避難民、戦死者数ともに不明であるが、8月段階でも約50人が壕内に留まっていたという。

とのことです。
 上空から見ると森の形が寿の字に似ていることから「寿山」と名付けられたそうです。米軍は「馬乗り攻撃」といって丘の上から穴を開けて壕内にガソリンを流し込み、火をつけて攻撃しました。

 


那覇の戦跡11 新修美栄橋碑

2012年02月10日 | 博士の研究日記

 琉球王府時代の那覇は、入江の中にある島でした。いくつかの橋で結ばれてはいたものの、首里からの交通の便は悪かったと言います。
 そのために王府は那覇に至る道路を作るために、海中に堤を築きました。これが長虹提とよばれた当時の幹線道路です。その長虹提に架かる橋の一つが美栄橋でした。

 沖映通りにある美栄橋駅。駅前広場の一角に「新修美栄橋碑」があります。

 黒っぽい一枚岩に美栄橋が改修された経緯が記されていますが、沖縄戦で被弾した跡が残っています。

 碑には十数ヶ所の弾痕があります。戦後ブルドーザーで倒されたものを付近の住民が保管しておいたということです。
 昭和52年4月8日に再建され、那覇市の有形文化財に指定されました。

 案内板が設置されています。
 読みにくいので、書き起こしてみます。

新修美栄橋碑
 いにしえの那覇は「浮島」と呼ばれる島であったため、首里との交通は不便でした。
 そこで尚金福王は、1452(景泰3)年 、冊封使を迎えるにあたり、国相懐機(こくそうかいき)に命じて、崇元寺前からイベガマ (現松山1丁目付近)に至る約1kmの「長虹提(ちょうこうてい)」という、海中道路を築かせました。「長虹提」には、3つの橋が架けられていたといわれ、美栄橋はその内の一つでした。
 那覇が発展して行くに従い、美栄橋は手狭になり、さらに上流からの土砂が橋の付近にたまって浅くなってしまいました。そのため、川を浚え、橋を架け替えることになり、1735(雍正13)年10月8日に着工、翌年2月6日に竣工しました。その経緯を記してあるのが、新修美栄橋碑です。正議大夫揚大荘(せいぎたいふようたいそう)が文をつくり、都通事揚文彬(とつうじようぶんひん)がこれを書き上げました。碑文には、工事に要した費用などが記され、当時の経済状況もうかがい知ることができます。
 その後、美栄橋は1892(明治25)年に改修されましたが、沖縄戦で破壊されてしまいました。しかし、碑だけは原型を止め、付近の民家に保管されていたものを現在地に移して保存しています。

 現在の美栄橋は沖映通りに架かっていますが、当時はもう少し県庁寄りだったようです。ちなみに一番上の画像で、左側の建物よりの道(街路樹が並んでいる道)が長虹提の跡です。