沖縄本島南部の都市、糸満市。糸満といえば海人(うみんちゅ)といわれるように、昔から漁港を中心に栄えた街です。
糸満の語源には諸説有り、サバニで遠く欧州まで渡った海人を極東から来たということで「イースト・マン」と呼ばれたとか、昔船が座礁し8人のイギリス人が住みつき「エイト・マン」からきたとか言われています。8人の外国人の血をひいているのか、糸満の人はちょっと顔だちが違います。
いずれにしても糸満は海とともに栄えてきました。
ところが沖縄戦では司令部が首里から南部に撤退したため、糸満は米軍の掃討作戦により戦場となりました。
糸満市の住宅地を歩くと、今でもいたるところに機銃や迫撃砲の痕を見ることができます。
三巓毛(サンティンモウ)公園の裏手にある民家。たまたま家の奥様が玄関に出ていており、お話を伺うことができました。
このお宅は建物は数年前に建て替えたと言うことですが、石塀は戦前のものだそうです。小さな穴は銃弾の痕です。何ヶ所かモルタルで穴を埋めた跡がありますが、これは砲弾の痕ということでした。
これも砲弾の痕です。石塀を貫通しています。
小銃の弾痕。これも民家の奥様が教えてくださいました。
住宅地の細い通り。糸満は古くからの住宅地が多く、細い路地がたくさんあります。こんな路地にも、石塀に弾痕が残ります。
路地が細いため、石塀に斜めから着弾している様子がわかります。
車も通れないこうした路地にも、弾痕が残ります。路地を丁寧に歩けば、銃弾の痕はいくらでも見つけることができます。
戦後60数年経ちますが、今でも戦争の傷跡が残る場所で、人々は日常の生活を送っていることに深く考えさせられました。
学ぶ事が多くて・・ビックリです。
細い路まで 銃弾が流れていたことを 恐ろしく思います。でも 少ない人でも 生き残った方々がいて 良かったなあと・・思います。
この先・・いつまでも平和でいて欲しい。
正直なところ・・娘が嫁ぎ 自分の事のように
考える事ができるようになったのです。
だから 本土の人に沖縄を考えてもらう 難しさを 考えると 不安になります。
同じ沖縄県民でも顔立ちが違うんですね~
同じ鹿児島県民でも離島の方は顔黒で濃いし毛深いしごっつい人が多いですね~
どこの血をひいてるんだろうww
淡々と長い年月を こうして書き伝えていかれる姿に ただただ頭が下がる思いです。
ウサギとカメのウサギのような私なのですが、見習う方が沖縄におられて、嬉しいです。それに、今から学びが出来る事が、何よりもうれしく思います。ブログを覗いた息子、500円で骨董品を買われた写真と記事に、数万もするんだよ~と、羨むことしきりでした。
ほんと、お言葉通り楽しみながら、細く長くですね。ありがとうございました。そろそろ、
メイフラワ-が咲き始めましたね。良い香りがし始めました。
海人にとても親しみを感じます。
確かに自分に関係しないことには関心が薄いですよね。
でも沖縄の犠牲の上に、今の日本の平和と繁栄があるのも事実。
少しずつでも理解してもらいたいですねえ。
らなこ、
明らかに東南アジアからだと思いますよ。
北から来たモンゴル系とは違いますねえ。
稗島さん、
細々と情報発信していきます。
ぜひお付き合いください。
ブログはマイペースでいいと思います。
また気が向いたら始めてください。
楽しみにしてます。
アルファさん、
本当は海アッチャーといいます。
漢字で書くと海歩人。
ちなみに百姓はハルサー。畑人です。
私ゃ、老後はハルサーになりたい。