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管理人のうちなーライフかりゆし日記

管理人てぃんがーらが沖縄の生活を綴ります。

伊江島の戦跡3 第502特設警備工兵隊出撃之地

2012年03月27日 | 博士の研究日記

 伊江島守備隊第502特設警備工兵隊は、1944年10月に500人の兵力で島の西側の防衛にあたっていました。1945年3月には3個中隊800人にまで増強され、名護の出身である宜保豊猛中尉が率いていました。しかしながら半数が現地召集の住民義勇隊でした。
 工兵隊ですから主な任務は、伊江島飛行場の整備・保守です。
 武器は大隊に機関銃二丁、各中隊に小銃が十丁と擲弾筒(てきだんとう)一丁、各自に手榴弾と竹槍、これが装備の全てでした。

 米軍本島上陸の直前、1945年3月に第502特設警備工兵隊に飛行場の破壊と、本島への引き上げ命令が出されます。ところが海上はすでに米軍に抑えられ、島を出ようにも船も無い状況で、彼らは島に残るしかなかったのです。

 1945年4月16日未明にブルース少将率いる米海兵隊6000人の部隊は伊江島に上陸し、直ちに島の中央部に有る飛行場を制圧します。日本軍は飛行場を中心に分断され、第502特設警備工兵隊は東側の本隊から孤立してしまいます。
 本隊と連絡もままならないなか工兵隊は4月16日の夜より米軍に斬込みをかけました。武器は一人2個の手榴弾と竹槍でした。
 伊江島での米軍の激しい攻撃は4月21日まで続きました。この戦いで日本軍約3000人、村民約1500人が戦死しました。米軍の死者行方不明者は218人でした。
 最期の出兵の際に、宜保中尉はこれ以上の攻撃は不可能として、「少人数に別れ敵中突破。本隊・井川部隊に合流せよ」と解散命令を出します。そのとき、第502特設警備工兵隊の生存者は180名にすぎなかったといいます。

 伊江村字西江上の米軍演習場につながる道沿いに第502特設警備工兵隊出撃之地があります。道沿いに民家は無く、ほとんど人通りの無い道端に、草に隠れて石碑が立てられています。

 1995年に部隊の生存者によって建立されたものです。

 石碑の背後に自然壕があり、この壕内に集結し、毎夜、竹槍と手榴弾を持って斬り込みに出撃しました。

第502特設警備工兵隊ハ
隊長宜保豊猛中尉以下八百名
一九四五年四月十六日夕刻敵ヲ
乾坤一擲(けんこんいってき)セント出撃ス

 石碑の裏面には工兵隊出撃について書かれた石板が埋められています。


伊江島の戦跡2 山グシの陣地壕跡

2012年03月25日 | 博士の研究日記

 日本軍は伊江島を要塞化しました。タッチューの周囲に何本もの壕を掘りめぐらせ、それらを連結させて陣地としました。
 山グシのトーチカの前の道路を30mほど進むと、道路脇の藪の中に、それらの壕の一つが開口しています。第2歩兵隊第3中隊が構築した陣地壕です。

 道路から20mほど入ったところです。入口付近はだいぶ土砂が堆積し、高さ70cmくらいになっており、背をかがめて入壕します。

 入り口部分です。保存状態は比較的良いのですが、一部天井からの落盤があります。

 さらに奥に進むと天井が高くなり、立って歩けるようになります。
 この奥は山の反対側の出口に通じています。懐中電灯を消すと真っ暗闇です。戦時中大勢の日本兵がここに潜み、出兵していったのでしょう。

 


伊江島の戦跡1 山グシのトーチカ跡

2012年03月24日 | 博士の研究日記

 伊江島は沖縄本島北部、本部半島の北西9kmの海上に浮かぶ周囲22.4kmの離島です。平らな島ですが、東よりに標高172mの城山(グスクヤマ)がそびえ、遠目にも三角形の山の形がよく分かります。城山はタッチューの愛称で親しまれる島のシンボルとなっています。
 この城山は、離島における最大の激戦地であり、山の周囲には縦横に陣地壕が掘られた要塞となっていました。
 1945年4月16日に米軍は伊江島に上陸します。日本軍によって村民も戦闘に動員され、鉄の暴風雨のなか、多くの民間人が犠牲となりました。約1,500名の村民が死亡したと言われています。その中には集団自決で亡くなった村民もいました。
 伊江島の戦闘が、沖縄戦の縮図と言われる所以です。

 城山の麓、伊江村字東江上に唐小堀(ハラクブ)溜池があります。この灌漑用水池は唐から来た冊封使に「城山と山グシに火難の相があるので池を掘った方がよい」と言われ、造られたということです。唐小堀溜池と道路をはさんだ向かいにの山の斜面に、コンクリートで造られたトーチカが残されています。

 道路側から見ると、岩にしか見えませんが、この付近には戦時中、独立混成第44旅団の3個中隊からなる第2歩兵大隊が配備されており、第2歩兵隊第3中隊が構築した陣地壕と言われています。

 内部に入ると天井、柱は鉄筋コンクリートで作られていることが分かります。流入した土砂により、高さは1mほどになっています。天井からはコンクリートに含まれる石灰が小さな鍾乳石を作っており、70年近い歳月を感じます。

 入り口(道路側)を中から見ます。現在道路によって地面が下がっていますが、おそらく連絡壕によって周囲の陣地と結ばれていたと思われます。

 入り口と反対側の開口部分。ここから米軍を狙ったのでしょうか。

 


糸満の戦跡14 糸洲壕 ・・・小池勇助少佐の決断

2012年03月23日 | 博士の研究日記

 国道329号線を南下、何部病院の先からバイパスに入りしばらく行くと左側に畑が広がります。その畑の中、糸満市伊敷に自然壕の糸洲壕があります。1944年10月10日、十・十空襲の際に糸州の住民達がこの壕に避難しました。壕には出入り口が2箇所ありそれぞれウッカーガマ、ウンジャーガマと呼ばれています。

 1945年5月27日、戦況の悪化に伴い、豊見城城址にあった第24師団第二野戦病院(山3487部隊小池隊)は糸洲壕に移動してきます。この第二野戦病院には私立積徳高等女学校の女生徒25名が学徒動員されていました。移動にあたっては、歩ける者は部隊に帰し、重傷患者は「処置する」よう命令されました。
 しかし軍医は「本来なら患者を治してやるべき医者が、例え戦争中でも命を奪うのは忍びない」と、患者一人一人に励ましの声をかけ、枕元に水や乾パンと手榴弾を置いて別れたということです。
 この長野県出身の軍医・小池勇助隊長は戦時中にあって命の尊さを説く珍しい軍人であり、最期まで学徒隊を守り犠牲を最小限に抑えた人物でした。


糸洲壕の上に立つ鎮魂の碑

 第二野戦病院小池隊は糸洲壕に避難したものの艦砲射撃が激しくなり、衛生兵や学徒隊・傷病兵は壕の奥へと移動していくことになります。壕の中は広いのですが、中には水量豊富な川が流れており洞窟内は濡れた状態で、学徒隊の足袋は乾くことが無く足がふやけてしまい歩くのも困難になったということです。
 6月17日に壕の周囲は米軍が取り囲み、壕は馬乗り攻撃を受けます。壕の上からボーリングし穴を開けガソリンを流し込んで火をつけたり、ガス弾を打ち込んだりする攻撃です。
 衛生兵たちは切り込み隊に任命され、夜になると闇夜に紛れて米軍へ奇襲を行いました。
 衛生兵が少なくなるにつれ、学徒隊の仕事はますます多くなっていきました。
 こうした中、小池隊長の元に野戦病院の解散命令が届きます。この解散命令とは実際には「玉砕せよ」という命令です。しかし今解散したら学徒隊を戦場に放り出すことになる。小池隊長は学徒隊の命と軍命の狭間で悩みましたが、こんな状況の元で少女たちを放り出すことは出来ない、と解散命令を握りつぶし壕の中で解散の時期を探ることにしたのです。


糸洲壕への入り口

 6月26日になって、沖縄守備隊第三十二軍牛島中将・長参謀自決の報を受け、小池隊長は日本軍の敗北を知ります。そこで小池隊長は危険が少なくなったと判断し積徳学徒隊に解散命令を出します。
 解散にあたって小池隊長は学徒隊を集め、次のような話をしたということです。
「日本は戦争に負けました。長い間、軍に協力してくださりご苦労だった。負ける戦だと分かっていれば、君たちを預からなかった。親御さんに何とお詫びしたらいいか、本当に申し訳ない」と謝罪し、頭を下げました。
 米軍に捕らえられるくらいなら自決を選ぶと言う少女たちに対しては、
「捕虜になることは恥ではない、本当の恥は死ぬことだ。決して死んではいけない。必ず生きて家族のもとに帰りなさい。そして凄惨な戦争の最後を、銃後の国民に語り伝えてください」と訓示し、一人一人握手をし、学徒隊を送り出しました。
 解散命令が、沖縄戦の戦闘が終了した後のことであったために、学徒隊25名のうち、戦争の犠牲となったのは3名で、22名が生還しました。
 解散の翌日、恐怖のため糸洲壕から遠く離れることができなかった学徒隊の一人の少女が壕に戻り、服毒自決した小池隊長の変わり果てた姿を発見します。
 なぜ常々「決して死んではいけない」と諭していた小池隊長が自決したのかは明らかでありません。軍人として命令を握りつぶした責任を取ったのでしょうか?
 いずれにしても沖縄戦において、命を尊ぶ考えを持った軍人が日本軍にいたという事実を知っておかねばなりません。

 


八重瀬の戦跡2 第一野戦病院の壕

2012年03月20日 | 博士の研究日記

 島尻郡八重瀬町富盛にある八重瀬岳の山腹から山頂にかけて、八重瀬岳公園があります。ここはかつて八重瀬按司(あじ)という豪族の居城跡でした。グスク内には、本殿跡や蔵当、物見台跡があり、鉄器、石器などが多く出土しています。
 公園内の山頂に至る両脇の階段には約500本の寒緋桜の並木があり、桜の名所としても有名です。

 高台にある眺めの良い公園です。公園の駐車場から、東風平ののどかな農村風景や街並みを見ることができます。
 この公園内に第24師団第一野戦病院が置かれた壕が残されています。野戦病院には県立第二高等女学校の女生徒で結成された白梅学徒隊46名が配置されました。

 山頂に登る階段のすぐ左脇に、壕口に続く小道があります。この壕には第二十四師団第一野戦病院が置かれ、軍医・衛生兵、看護婦が約190名、白梅学徒隊46名が配置されました。
 入り口の部分は、鍾乳洞の上部が陥没したドリーネ状になっており、両側に険しい崖が迫ります。

岩の割れ目の奥に壕口があります。比較的大きな壕口で間口・高さとも広く、立ったまま入っていくことができます。

 

 奥に坑道が続きます。
 坑道はこの他にも分岐するように5、6本あり、約500名の患者を収容することができたといいます。
 しかし、負傷者の増大、医療品の不足から、負傷兵に対する処置は限られたものでした。多くの負傷兵は土の上に寝かされ、麻酔も無しに手足の切断が行われました。
 白梅学徒隊の仕事は、包帯の取り替え、糞尿の始末、死体や切断された四肢の廃棄、洗濯、食事の世話など、大変に過酷なものでした。
 昭和20年6月3日、戦況の悪化から、第一野戦病院は糸満に撤退することになり、閉鎖されました。
 白梅学徒隊の女生徒たち46名は、砲弾が飛び交う戦場の真っ只中で解散させられたのです。多くの女生徒は凶弾に倒れ、砲火をかいくぐった16名が糸満市真栄里の壕(白梅の塔の壕)にたどり着くことになるのです。


 


八重瀬の戦跡1 富盛の石彫大獅子

2012年03月19日 | 博士の研究日記

 東風平町富盛集落にある勢理城(じりぐすく)という小山があります。
 その城跡の山頂に沖縄で最大最古の石彫大獅子があります。
 設置されたのは尚貞王21年(1689年)、高さ141.2cm、長さ175.8cm、県指定有形民族文化財になっています。
 当時、富盛集落は火災が頻発していました。村にやってきた王府の役人が、火災は火山(フィーザン、噴火する火山という意味でなく、火の厄がいる山のこと)とされた八重瀬嶽がもたらしているので、八重瀬嶽に向けて火伏せの獅子を置けば厄は防げると命じ、村民に作らせたものと言われています。その結果集落の火災は無くなったということです。

 しかし近年、郷土の歴史家がまた違う事実を発見します。獅子の向いている方向を調べると、八重瀬嶽の方角からはずれているというのです。彼の推理はこうです。当時の家屋は茅葺きで、火事は八重瀬岳のせいでなく自分たちの火の始末が悪かったからであるということを村人たちはよく知っていました。
 しかし、役人の言うことを聞かぬわけにはいきません。そこで、八重瀬岳の火の神にも気遣い、方角をずらして設置したというのです。
 両方を立てて丸く納める、現在でもありそうなことですね。

 さて、この獅子の身体には丸い穴が空いています。弾痕です。
 沖縄戦において、1945年5月26日首里から撤退してきた第二四師団歩兵二二連隊が6月5日より八重瀬岳周辺に布陣し、米軍と激しい戦闘を繰り広げました。これは日本軍の最後の組織的な攻防戦でした。
 日本軍は陣地壕に野砲、迫撃砲、重機関銃を配備し米軍を迎え撃ちました。しかし6月13日、米軍は戦車隊を投入し、戦車砲・火炎砲で日本軍の陣地壕に集中砲火を浴びせます。ある壕は岩盤もろとも吹っ飛ばされ、ある壕は馬乗り攻撃といって壕の上から穴を開けられガソリンを流し込まれ火をつけられました。
 6月17日ごろには日本軍は制圧され、残った兵はさらに南部の摩文仁に敗走します。

(沖縄公文書館のHP資料より)

 日本軍最後の攻防戦の中で、全身に銃創を受けながら戦いを目撃してきた石彫大獅子。もし、彼が話すことができたら、一体何を語ってくれるのでしょうか。


糸満の戦跡13 三巓毛

2012年03月18日 | 博士の研究日記

 糸満ロータリーから山側を見上げると、小高い丘の上に青い展望台が見えます。

 この丘は三巓毛(サンティンモウ)とよばれ、現在は公園として整備されています。
 サンティンモウとは、昔糸満の海人が海上から自分の位置を知るための目標にしたため「目標を当てる」という意味の「サンアティン」がの語源で、それに広場を意味する毛がつき三巓毛になりました。(万座毛の毛と一緒ですね)

 展望台に登ると糸満の市街地が一望できます。

 展望台の下の広場にコンクリート製の国旗掲揚台がありますが、砲弾が貫通した穴が開いています。「皇太子殿下御誕生記念」の文字が読み取れます。また裏側には「昭和9年建立」と書かれています。

 掲揚台と並んで「御大典記念 三巓毛改修記念碑」の石碑があります。台から取り外され、横に寝かされていますが、これは弁軍の艦砲射撃の目標になることを恐れ、日本軍が倒したものです。この裏には昭和7年の文字が確認できます。

 石碑の台座部分には弾痕が確認できます。

 石碑のある広場の海側に8角形にコンクリートを流した跡があります。これは防空監視硝の土台跡です。防空監視硝とは、いち早く敵の飛来機を発見し、軍に伝えました。左側の四角い箱は後から作られた御拝所です。
 建屋まで残っているものは本部に現存し、以前ご紹介しました。→本部の防空監視硝

 三巓毛の地下には陣地壕が構築されていたということですが、現在塞がれています。またこれらの戦争遺物に関しても、何の説明書きもありません。公園内という戦跡を管理保存できる場所にあるのですから、きちんとした案内板を設置し、後世に伝えたいものです。

 


糸満の戦跡12 福地森の壕

2012年03月16日 | 博士の研究日記

 県道7号線を南下、糸満市座波に入ると報得川を渡ります。川を渡らずにすぐ手前に川に沿って農道があるので左折します。

 川沿いの農道の左側には畑が広がりますが300mほど進むと道が途切れ、藪の中の獣道になります。

 木々をかき分け、道無き道をさらに30mほど進むと、左側の山の斜面に壕口が見えてきます。福地森の壕とよばれる日本軍の構築壕です。
 この壕も秋風台の壕と同様、島田県知事と県警察幹部が一時避難した壕といわれています。

 5月27日大雨の中、明け方に秋風台の壕に到着したものの壕内へ雨の流入がひどく、一行はこの福地森に移動します。左の斜面に2つの壕口が見えます。

 向かって左側の壕口です。木の根が入り口をふさぎ、中に入れません。戦後70年近い年月を感じます。
 この壕は壕口から1-2mほどで落盤しており、大きな岩で塞がれています。

 さらに5mほど先に壕口があります。ここも入り口が土砂で埋もれており、上部が30cmほど開口しています。

 この壕の内部です。丁寧に掘り込まれています。保存状態は非常に良く、内部には崩落はありません。入り口から10mほど先で壕は分岐しています。分岐先は小部屋になっており、島田知事は休憩をとったということです。
 しかし一行は長く留まらず、さらに南部に撤退していきます。

 


 


糸満の戦跡11 秋風台の壕

2012年03月11日 | 博士の研究日記

 那覇から県道7号線南下、照屋の交差点手前の細い農道を報得川に向かって入る農道があります。

 目印は「肉山羊売ります」の看板。「山羊肉」ではなくて「肉用の山羊」を売っているのですね。沖縄では山羊はペット兼食料として、昔はどこの家庭でも飼育していた家畜です。
 さて、この農道を50mほど進むと十字路になり右奥に豚舎が見えてきます。豚舎の手前、ビニールハウスの脇に左に下りる急坂があり、大きな亀甲墓に突き当たります。
 墓の周囲は手入れが行き届いており、横に駐車場があります。古い墓ですが、現在も利用されています。墓の駐車場から後ろを見ると、道端に壕が口を開けているのが分かります。

 ガジュマルの木の根本に、半分以上埋まった壕口が確認できます。

 この壕はメーバル壕ともよばれ、那覇を追われた島田沖縄県知事と荒川県警察部長の一行が1945年5月27日に身を隠した壕です。しかし梅雨の豪雨で壕は浸水し、すぐに福地森に移動することになります。
 壕口は上からの土砂と投げ込まれたゴミで、上部30cmほどしか開いていません。

 腹這いになってやっともぐり込むと、内部は比較的保存状態が良く、崩落もありません。島田知事ゆかりの壕ということで、きちんとした保存が望まれます。

 

 


糸満の戦跡10 サキタリガマ

2012年03月10日 | 博士の研究日記

 糸満市阿波根集落の南に新興住宅地パークタウン阿波根があります。

 きれいに整地され新しい家が建ち並ぶ分譲住宅地です。

 パークタウンの北側の入り口付近、阿波根1406-115番地の公園の下に、壕が保存されています。

 ヒンプン(目隠しの塀)の後ろに整備された壕口があります。サキタリガマ(酒造り壕)とよばれる軍構築壕です。内部はかなり広いということですが、現在壕はパークタウンの自治会で管理しており、内部には入ることができません。

 日本軍が放棄したあとに、近隣の住民数百名が避難したということです。那覇警察署の山川署長以下、署員数十名も避難してきており、壕を拡張しました。
 米軍の攻撃が激しくなり、隙を狙い多くの避難民は壕を捨て南部に逃げました。残った住民も米軍の投降勧告により、ほとんどの人々が保護されましたが、中には捕虜に鳴るのを恐れ、手榴弾で自決した人もおりました。

 沖縄戦で不思議に思うのは、軍の武器である手榴弾を、広く民間人が所持していたということです。軍は「捕虜になったら男は戦車に轢き殺され、女は強姦され殺される」と住民たちを洗脳し、軍で管理されるべき手榴弾を「一人でも米兵を巻き込んで自決せよ」と住民に配っていたわけです。