照屋から県道82号線を西崎に向けて下りていくと、阿波根橋を渡り切った左に小高い丘があります。阿波根グスクがある富嶽山です。戦時中、この近辺には歩兵32連隊の歩兵砲部隊が配置されておりました。
丘の周囲には古くからの墓があり、阿波根橋のたもとから、墓所に向かう山道が続きます。清掃が行き届いている墓もあり、代々使われている様子です。
整備された山道も次第に険しくなり、道が途切れるあたり、丘の南側斜面に所有者も不明な古い墓が数基あります。その古墓に囲まれるようにして、壕が口を開けています。歩兵第32連隊歩兵砲部隊の陣地壕です。もともと墓として利用されていた自然壕を、陣地に利用したものと思われます。この陣地壕は対戦車攻撃用として構築されたものです。
壕内部は5mほど進むと途中で天井が崩落しています。これ以上奥に進むことはできません。天井には鍾乳石も確認できます。
内部に古い骨壷が放置されていました。中には何も入っていませんでした。戦前からあるものなのか、後から持ち込まれたものなのかは分かりません。過去、墓として利用されていたようです。
壕内部から南側斜面を眺めます。今は植物が生い茂っていて遠くを見通せませんが、南の海岸沿いから侵攻する米軍を狙う作戦だったようです。
しかし、撤退を続ける日本軍は実弾も少なく、1発撃つと何十倍ものお返しが来たということで、歩兵隊は壕の中でひたすら息をひそめていたようです。
壕口にはこんな看板が。
前略・すごいかたですね。足でさがしていらっしゃる沖縄の戦火のあと。誰がこんなに調べていらっしゃろうか…というぐらいですね。傷跡爪あとのなんと多いこと。気の毒でなりません。ガマの中のひどい状況ガマを軍隊から追い出される民間のかたがた。どこへ逃げろというんでしょう。どこもかしこも、悲惨一色の沖縄…を知りました。
私にメ-ルでしたので、読んで頂きたくて。
メールのご紹介ありがとうございます。
内地においても戦跡は有りますが、沖縄の戦跡はそのまま手つかずで至る所に残っており、さらにその中で人々が日常の生活をしているという特殊性があります。
それだけ住民を巻き込んだ地上戦が激しかったということです。
再びこのような悲劇を招かないためにも、物言わぬ証人達をご紹介したいと思っています。