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管理人のうちなーライフかりゆし日記

管理人てぃんがーらが沖縄の生活を綴ります。

沖縄の史跡 2 津嘉山飛び安里発飛翔顕彰記念碑

2012年07月27日 | 博士の研究日記

 南風原町津嘉山にある高津嘉山。標高87メートルの小高い山です。周囲にはサトウキビ畑や住宅地が広がっています。
 以前にもブログでご紹介しましたが、いまから約230年前の琉球で、空を飛ぶことを夢見、この山から大空に飛び立った人物がいました。
 今回はもう少し詳しくご紹介させていただきます。
 琉球王府の花火職人、安里周當(1765-1823)がその人です。人々は周當を「飛び安里」と呼びました。

 安里家は代々王府に仕える花火職人の家系で、彼は見事な仕掛け花火で王から褒賞を受けた優秀な技術者であったといいます。
 しかしながら時の王府は、空を飛ぶとは人騒がせと、飛行の禁止令を出したそうです。周囲から変人と見られる中、飛び安里はそれでもめげず、飛行機の研究をしました。
 安里の羽ばたき飛行機は弓の弾力性を利用して足で翼を上下させる仕組みで、竹、芭蕉布、鳥の羽などで作られていたと伝えられています。沖縄戦で物証が消えてしまった事もあり、詳細は分かっておらず、伝承によるところも多いようです。

 高津嘉山のふもとから八合目あたり、頂上に続く階段の右側に飛び安里の碑があります。説明板には安里周當が世界で初めて飛行したこと、周當が琉球王府の花火師だったこと、津嘉山に移り住んだこと、等が記されています。
 世界で初めて飛行機を飛ばしたのが飛び安里なのでしょうか?

 飛び安里初飛翔のモニュメント。安里周當の頭文字Aをデザインしたということです。

 飛び安里が飛び立った高津嘉山から、南風原の街並みを見下ろします。230年前はどんな風景だったのでしょうか。

 南風原町役場です。ここの1Fロビーに飛び安里の作った飛行機の1/2スケール模型が展示されています。

「飛び安里」の羽ばたき式飛行機は 翼幅9メートル、全長4.5メートル、全高2メートル、骨組みは竹、翼には芭蕉布と鳥の羽根が貼られていたといいます。
 翼の先端から少し内側の梁から、機体の底部にある横棒にロープが4本張られています。横棒を足で前後に動かすことにより羽ばたいたといいます。 こうしてみると、羽ばたき飛行機というより、現在のハングライダーに良く似ています。驚くべき事に、主翼面はゆるやかに湾曲し、揚力を生むような形になっています。

 さて、この飛行機、本当に飛んだのでしょうか。
 それが、ちゃんと飛んだのです。1999年3月27日、南風原町の町おこしグループ「すきです南風原・夢・未来委員会」が、この飛び安里の飛行機を復元し、町長も見守る中、玉城村前川の丘陵地で15mの飛行に成功したのです。
 飛行成功を伝える琉球新報

 ライト兄弟が世界で初めて動力付き飛行機で飛んだのが1903年。
 オットー・リリエンタールがハングライダーで飛んだのが1894年。
 航空学の父ジョージ・ケイリーのグライダーによる有人飛行が1849年。
 世界で初めて空を飛んだとされる岡山の表具師 浮田幸吉(鳥人幸吉)が飛んだのが1785年。
 こうしてみると1780年に飛行機を飛ばした飛び安里は、本当に世界で初めて空を飛んだ人間という事になります。

 しかしなんとも不思議なのは、人類初飛行という偉業をなしとげた人物が、歴史上に出て来ないということです。ライト兄弟がエンジン付き飛行機で飛んださらに123年前、大空の魅力にとりつかれ、飛行機で大空に舞い上がった人が、この沖縄にいたわけです。
 ロマンですねえ。

 


沖縄の史跡 1 恩納ナビィの碑

2012年07月21日 | 博士の研究日記

波の声もとまれ
  風の声もとまれ
首里天がなし
  美御幾拝ま

恩納村の万座毛入り口に、歌人恩納ナビィの石碑があります。

ナビィは1660年ごろ恩納村に生まれました。類まれな感性を持ち、幼いころから人々の心を打つ歌(琉歌)を詠みました。
ちなみにナビィとは鍋のこと。戦前まで沖縄の女性の名前は、カマドゥ(かまど)、ウシ(牛)、カマ(鎌)など台所用品や農具の名前が付けられました。男尊女卑の現れとも言われますが、女性が一生食べ物に困らないようにという願いもあったようです。
石碑に刻まれたこの歌、大変に有名な歌でナビィの代表作ともいえるもの。沖縄口で読むとこうなります。

波ぬ声(くぃ)んとぅまり
  風(かじ)ぬ声(くぃ)んとぅまり
首里天加那志(すいてぃんがなし)
  美御幾拝(みうんちうが)ま

1976年、尚敬王が恩納村に立ち寄った際に歌ったもので、意味は、

波の音も静まれ、風の音も静まれ
  首里の王様のお顔を拝しますから

という、国王一行を讃えお迎えする内容です。
村民は広い草原で太鼓や踊りでもてなしたということで、その時尚敬王はその草原を「万人を座せしめる毛(原っぱ)」ということで万座毛と名付けたと言う事です。

さて、村内にはこんな歌が刻まれた石碑もあります。

恩納松下(うんなまちした)に
  禁止(ちぢひ)ぬ牌のたちゆし
戀(くい)しのぶまでぃん
  禁止(ちぢ)やねさみ

恩納の役場前の松の木の下に、
  いろんな禁止事項の立て札が立っている
恋することまで
  禁止したものはないでしょう

尚敬王(1713~1751)は、中国からの冊封使を迎えるに当たり、沖縄の男女の風紀の乱れを取り締まろうとしたのですね。
で、毛遊び(もうあしび)を取り締まった。毛遊びというのは毛(原っぱ)に夜男女が集まり飲食し、歌や踊りで楽しむ集会のことで、近年まで行われていました。
今で言うところの合コンですね。というわけですから時にはナンパする輩も現れる。
それを「異性不純交際は禁止」とおふれを出したのですね。
でも娯楽の無い時代、男女が交際できる場でもあったわけで、そこでナビィは皮肉を込めてこういう歌を歌ったのです。

こうなると冒頭の歌も、本当に国王を讃えているのかちょっと怪しくなります。
自分たちの生活を禁止、禁止で身動きできなく縛りつける王府。
中国のご機嫌とりばかりしていて、国内には人々が困る政策を押しつける国王の顔を皆で拝んでやろうよ、という痛烈なメッセージが読み取れます。

あれ?中国を米国、国王を民主党に替えたら、現代と何も変わっていないですねえ。

 


南城市の戦跡6 南城市役所大里支所十五糎加農砲

2012年07月15日 | 博士の研究日記

 南城市大里字仲間1124-1南城市役所大里支所(旧大里村役場)の敷地内に、大里村農村環境改善センターがあります。
 門を入ると正面の建物の左側に茶色に塗られた大砲が鎮座してます。

 旧日本軍陸軍の十五糎加農砲です。1945年3月、大里の平川壕に二基配置され、那覇方面に砲口が向けられていましたが、5月に米軍の集中砲火に合い、壕は破壊され大砲は埋没しました。一基は掘り起こし移動させたものの、この砲は軍に放棄されました。

 昭和4年に旧日本軍によって、制式化された大砲で開脚式装輪砲架を持ち、遠距離でも命中精度にすぐれていた。砲身車と砲架車をそれぞれ牽引車で牽引して移動し、陣地で組み立てて使用したが、準備に1時間程かかったそうである。
大里村内には、1945年3月に旧日本軍陸軍独立重砲兵第百大隊が布陣した際に、二門が配置された。しかし、沖縄戦においては、米軍とのあまりに大きな物量の差により、その効果は乏しく、一発撃つと何十、何百という反撃をうけたといわれている。                                             平成15年12月 大里村教育委員会

 平成15年3月平川壕の発掘が行われ、このカノン砲は掘り出されました。発掘の際、平川壕の一部が破壊されたということです。砲は復元され、同年8月より展示されています。
 現物の迫力が伝わります。

 砲身。60年近く土中に眠っていたとは思えない保存状態です。

 後部にある鋤鍬。矢板を地面に打ち込み、砲弾の発射時、反動による後退を防ぐものです。

  
 


南城市の戦跡5 佐敷老人福祉センター

2012年07月10日 | 博士の研究日記

 1991年5月に佐敷町津波古で、旧日本軍93式発射魚雷が8発発見されました。
 いずれも弾頭、信管が装着されておらず無事発掘、撤去され、そのうちの1基が佐敷町にて保管されることとなり、佐敷町(現南城市)字新開1-240の佐敷町老人福祉センターの敷地内に展示されました。

 道路沿いの駐車場後ろの共同作業所の前に93式魚雷が安置されています。

 共同作業所さしき。軒下に不釣り合いな物体が・・・。

 93式魚雷は皇紀2593年(昭和8年)に完成した全長7.55m、重量2000kgの酸素式魚雷です。500kgの火薬を先端に搭載し雷速36ノット、射程40kmを誇る新兵器でした。燃料の燃焼に酸素を使うエンジンは、連合国も開発できない優れた技術でした。
 しかしながら、米航空機による爆撃が中心となった沖縄戦では、ほとんど戦果をあげることができないまま、終戦を迎えることとなりました。

 半球になった燃料タンクの先端部。この前部に約500kgの火薬を搭載できた弾頭と信管が装着されました。その破壊力はすさまじく、連合軍を恐怖におとしいれたということです。

 連合軍でも開発ができなかった酸素エンジン部分。圧縮酸素により燃料を燃やし、その結果排気ガスは二酸化炭素のみで窒素を含みません。二酸化炭素は水に溶け易く、ほとんど雷跡を残さずに巡行でき、発見は非常に難しかったといいます。
 ただし酸素タンクに純粋酸素を充填するのも難しく、事故も多発したということです。

 スクリューは二重反転構造になっていて回転モーメントを互いに打ち消し合い、直進性を高めています。この推進装置を流用し、戦争末期には人間魚雷「回天」が製造されました。


 


豊見城の戦跡3 サバキナの丘の防空壕跡

2012年07月07日 | 博士の研究日記

 豊見城市名嘉地127番地付近のサバキナ丘陵に、沖縄戦のときに住民が掘った防空壕が残されています。

 国道331号線豊見城バイパスを南下、旧道と交差する名嘉地交差点を県道66号線に向け直進、最初の信号を左に入ると、左脇の丘のがけ下にいくつもの穴が見えてきます。

 この洞穴は戦時中、近隣住民が避難するために掘られた民間壕です。

 サバキナの丘とよばれる丘陵地ですが、道路の背後まで削られ平地にされています。上部が削られた部分にも、壕口の跡が確認できます。
 壕の上部に墓があり、かろうじて一部が残されています。

 壕は幅1m位ですが、ゴミと流れ込んだ土砂のため高さは50cm位になっています。

 これらの壕群は民間の防空壕ということもあり、詳細はほとんど分かっていません。ただ、十数ヶ所の壕があり、米軍の空襲に備え集落の人々が総出で掘ったものなのでしょう。

 


豊見城の戦跡2 アカサチ森軍構築壕跡

2012年06月30日 | 博士の研究日記

 那覇空港から国道331号線を南下、豊見城警察署の手前、瀬長の交差点の左手に木々に覆われた小高い丘があります。豊見城市字瀬長71-1にあるアカサチ(赤崎)森とよばれる雑木林です。
この丘には日本軍が構築した壕が残されています。

 丘の脇には瀬長地区の拝所が造られています。
 沖縄戦では歩兵第22連隊第1大隊第1中隊が瀬長に配備されていました。この壕はその歩兵隊が構築したものと思われます。

 国道331号線の裏側になります。2000年の沖縄サミットのときに建築資材置き場として利用するために丘の東側半分が削り取られてしまいました。
 削られた岩肌に二本の坑道が露出しています。

 幅3m、高さ2mほどの壕でありましたが、十分な調査もなされないまま業者によって埋められてしまいました。

 こうなる前に内部に入ってみたかったですねえ・・・。

 


豊見城の戦跡1 田頭の石彫りシーサー

2012年06月26日 | 博士の研究日記

 那覇から豊見城バイパスを南下、瀬長の交差点を左に入ります。

 この道はバイパスがまだ無かったころ、瀬長島に通じる唯一の道でした。旧道(県道231号線)にぶつかる少し手前、字田頭(たがみ)に崩れかけた石彫りのシーサーがあります。シーサーは、村落に入り込む魔物や厄の反し として、集落の入り口に置かれました。

 県の文化財にもなっているこのシーサー、こんな謂れがあります。
 この田頭のに米軍が迫った時、戦車の行く手をシーサーが阻み、住民たちは森の中に逃げのびることができたというのです。

 大きな口のチブル(頭)シーサー、立派に厄を払ってくれたのですね。

 の背後の森。この森自体が御嶽であり、ガジュマルの大木があります。

 


慰霊の日

2012年06月23日 | 博士の研究日記

 本日6月23日は「慰霊の日」です。
 1945年3月26日、米軍は慶良間諸島に上陸し沖縄戦が始まりました。地上戦は硫黄島につぐ二例目、住民を巻き込んだ地上戦としては唯一の戦闘でした。米軍は4月1日本島にも上陸、血を血で洗う悲惨な戦闘がこの小さな島の中で繰り広げられました。
 日本軍連合軍そして民間人を合
わせ20万人もの犠牲をだした沖縄戦、6月22日に牛島中将・長参謀が摩文仁で自決し、日本軍の組織的戦闘は終結しました。
 世界の人々が二度とこのような愚かな過ちを繰り返さないよう、恒久平和を祈念します。

 戦後67年経っても駐留し続ける米軍。戦争のための基地はいりません。(画像は住宅街の中に広がる普天間基地)

 


八重瀬の戦跡4 ヌヌマチガマ

2012年06月16日 | 博士の研究日記

 具志頭運動公園の脇の農道を競技場を右に見ながら進むと、畑の中に白梅学徒隊の慰霊碑が建っているのが見えてきます。

 ここは「ヌヌマチガマ」とよばれる壕で、戦時中、第一野戦病院分院として昭和20年4月下旬頃、八重瀬町富盛の八重瀬岳にあった第24師団第一野戦病院が、軍医1名、看護婦1名、白梅学徒隊(県立第二高等女学校)3名を派遣し新城分院として開設されました。
 壕は自然壕で、約500mほどの長さがあり、西側の出入り口をヌヌチガマ、東側の出入り口をガラビガマとよんでいました。
 野戦病院とは名ばかりで、患部が化膿し腐るのを防ぐため麻酔も薬も無い状態で負傷兵の手足を切断していました。学徒隊は、血や膿、排泄物の匂いが立ち込める中で、1,000名を越える患者の世話をし続けたのです。
 米軍が迫ってくると、解散命令が出され、歩けない患者は「処置」と称して青酸カリを注射されました。

 壕口のかたわらに白梅学徒看護隊の塔が建っています。昭和56年6月に建立されました。

 塔の裏側に回り込むと、壕口に下りる通路があります。壕口は岩の裂け目の下にあり、赤土が流れ込んで滑りやすくなっています。

 壕口から見上げます。湿度が非常に高く、カメラのレンズが曇ります。

 湿気がすごく、天井の鍾乳石からは地下水が滴り落ちてきます。

 壕内部。終戦間際、壕内で約800名の傷病兵が手榴弾や薬品で自決し、息ある者は衛生兵によって銃殺されました。

 


南城市の戦跡4 佐敷の海軍貯水槽

2012年06月10日 | 博士の研究日記

 南城市佐敷、太平洋を見下ろせる高台にある住宅地です。字新里201番地付近の駐車場の脇に斜面に下りていく階段があります。

 道路に沿って民家があるのですが、その裏手はまさに密林です。ハブの危険があるので、それなりの装備は必要です。

 下草を払いながら藪の中を進むと、レンガ作りの建造物が見えてきます。これは旧日本海軍が構築した給水タンクで、かつて軍港だった中城湾に面する馬天港まで給水パイプが延びていました。建築されたのは日清戦争の頃といわれています。

 一辺4m×3mほどの直方形に作られており、高さは2m50cm位あります。

 一部崩壊していますが、内部はコンクリートで固められており、堅牢な作りです。

 斜面の上から俯瞰します。古代遺跡の様ですね。