沖縄で暮らして思った事は、自然が生き生きとしているということ。中でも植物の生命力にあふれています。
ヤンバルの山道に捨てられていた丸太。
そこから伸びる若芽。朽ち木から生えたのか、またはここに種が飛んできたのかは分かりませんが、ちょっと嬉しくなる光景です。
沖縄で暮らして思った事は、自然が生き生きとしているということ。中でも植物の生命力にあふれています。
ヤンバルの山道に捨てられていた丸太。
そこから伸びる若芽。朽ち木から生えたのか、またはここに種が飛んできたのかは分かりませんが、ちょっと嬉しくなる光景です。
美しい珊瑚礁が広がる慶良間諸島。那覇の南西に位置する島々です。
米軍は本島に上陸する前、慶良間諸島の阿嘉島、座間味島、渡嘉敷島を制圧しました。
座間味村の産業組合壕は、米軍が座間味島に迫り、1945年3月26日行き場を失った座間味村の村三役や役場職員、その家族67人が集団自決を行った場所です。
字座間味の集落から高月山に登る県道の途中、左側に石碑と案内板があります。
この石碑の下が、集団自決が行われた壕跡です。
壕には食糧や村役場の重要書類が保管されていました。現在は道路を造ったため、その土砂が谷側に盛られ、壕口は塞がれています。
以前はかつて、石碑の下に段々畑が広がっていました。その斜面に壕は開口していました。現在は草木に覆われた斜面が広がるのみで、壕の痕跡はありません。
遺体の収容は米軍が許可をせず、二カ月間住民は壕に近寄ることができなかったため、「集団自決」の詳しい状況はよく分かっていません。生存者の証言も無く、謎の多い事件です。
管理人が調べたところを記すとこうなります。
3月23日、米軍は座間味島上陸の前に、執拗な艦砲射撃を繰り返します。村民たちは壕に避難しますが、25日になると米軍が上陸してくるという噂で皆がパニックになります。
野村正次郎村長、宮里盛秀助役、宮平正次郎収入役の三役は産業組合壕で協議し、どうせ死ぬなら村民が一緒に死のうと集合をかけます。三役は海上挺進第1戦隊梅澤戦隊長を訪ね自決用の手榴弾の支給を申し出ますが拒否されます。
そこで一旦は村民は解散しますが、翌日産業組合壕に避難していた67名の中で殺し合いが始まります。
村の幹部は小銃で自決したようですが、武器が十分にあるわけでなく、多くの村民は農具などで殺し合ったようです。
玉砕命令が軍からあったか無かったか、という議論は昔からあり、梅沢隊長の責任もずいぶんと論じられています。
しかし管理人は軍命があったか無かったは論じる意味はそれほど無いと思います。村民をこうした行動に追い立てたのは、日本が軍国主義に進む中での国民に対する軍事教育と皇民化政策にあったのだと思うからです。特に沖縄県民に対しては軍部は信用していなかったようで、方言を禁じ、方言を話すとスパイ罪で処刑するなど、徹底した同化政策をとってきました。要は「お前たちはちゃんとした日本人になれ」としてきたわけですね。県民の中にも「お国のために働いて、本当の日本人になりたい」と思う気持ちも、あこがれもあったと思います。
こうした中で玉砕を命じた村長が悪いのかと言われれば、当時この場所でこのような状況の中、他に選択肢を考えられたのかどうか疑問です。
天皇のため、国のため、一億総玉砕と軍部は県民を教育してきたわけです。その結果が村民をこういう行動に走らせたわけです。一村長、一隊長の責任を問う問題では無いわけですねえ。
源為朝は平安時代の末期、保延5年(1139年)に源為義の八男として生まれました。性格は勇猛で傍若無人、兄達にも遠慮しなかったといいます。為朝は弓の名手で、身長は七尺(2m10cm)もあったといいます。
保元物語によると、為朝はその性格が災いし、13歳の時に父・為義に勘当されてしまいます。
九州の豊後国に流されるのですが、自ら鎮西総追捕使を称して暴れまわり、三年後には九州を制圧してしまいます。
保元元年(1156年)、鳥羽法皇が崩御すると、崇徳上皇と後白河天皇が権力の座をめぐって対立します。これが保元の乱です。
為朝の父・為義は上皇方の大将として為朝ら6人の子を引連れて崇徳上皇のもとに馳せ参じました。
為朝は平清盛の軍勢を相手にし、善戦しますが、白河北殿に火をかけられ、上皇の軍は東国に逃げ落ちることになってしまいます。
為朝は近江国坂田に身を隠しますが、密告により捕らわれてしまいます。そして伊豆大島に流されてしまいました。
しかし伊豆大島でも再び暴れ始め、とうとう伊豆七島を支配下においてしまいます。
嘉応2年(1170年)、為朝征伐の院宣が下り、北条氏ら20艘の軍勢が伊豆大島を襲います。為朝は1本の矢で船を1艘沈めてしまいますが、追い詰められ切腹をします。為朝32才、治承元年(1177年)のことでした。
源為朝 Wikipediaより
さて、ここから琉球為朝伝説が始まります。
1650年に編纂された琉球王国の正史『中山世鑑』では、実は為朝を乗せた船は伊豆大島に向かう途中、嵐に遭い、1169年沖縄本島の今帰仁に漂着することになっています。
為朝が運を天に任せて着いた地、ということで、上陸した地は運天と呼ばれるようになりました。
この伝承に基づき、運天港を見下ろす高台には、為朝上陸の碑が建てられています。大正11年(1922年)に建立された石碑には表側に「源為朝公上陸之趾 東郷平八郎」と刻まれています。
王府時代、尚氏の権威付けのために生まれた伝説を、近代になって皇民政策・軍事政策推進のために再び利用されたのではないでしょうか。
為朝伝説が日琉同祖論と結びつき、当時の「日本人になりたくてなれない」沖縄人の気持ちを、軍事教育に向けたような気がします。
さて琉球に流れ着いた為朝は佐敷の豪族、大里按司の妹と結婚し、子供をもうけます。生まれた子は尊敦と名付けられました。
ところが為朝は帰郷のため浦添の港からさっさと出帆し、残された妻子はいつまでもこの港近くのテラブのガマとよばれる洞窟の中で為朝の帰りを待ちわびました。こうして、この港は人々にマチナト(牧港)と呼ばれるようになりました。
今でもこういう男はいますよね。
本土で何かしでかして、沖縄に流れ着いて、子供まで作った末に、ほとぼりの冷めた頃また本土に一人で帰っちゃうという。
許せないですねえ。
こうして残された子供、尊敦は成長するにつれ頭角を表し、15歳で浦添按司となります。さすがに為朝の息子です。すごいです。
当時、琉球開闢の祖アマミキヨの子孫である天孫氏25世が琉球を治めていましたが、家臣の利勇が謀叛をおこし、天孫氏王統を滅ぼして自ら中山王につきます。しかし尊敦はこの利勇を討ち、諸侯の推挙を受けて国王となります。
尊敦が22才のときでした。舜天王の誕生です。
こうして王統は舜天(1187-1237)、 舜馬順煕(1238-1248)、 義本(1249-1259)と3代72年続くことになります。
南風原は日本軍の南部撤退に伴って、激戦地になった場所です。
沖縄自動車道南風原南インターの近くに山川の集落があります。ここは古くからの住宅地で、起伏のある細い路地が多く、家々が建ち並んでいます。
家屋の間に畑も残っています。その集落の中程、南風原町山川18番地付近の幅員3m位の生活道路沿いに、貯水槽の壁が残っています。
かつての貯水タンクの残骸です。
住民の若者が集まっていたところ、戦闘機によるロケット弾の直撃を受け、2名が即死したということです。
右下の土台部分にも被弾した痕が残ります。
壁は厚さ15cm位のコンクリート製ですが、弾が貫通しています。直径10cm位の穴です。
しかしながら、この弾痕の残る壁は現在ここにはありません。
南風原町により撤去され、現在は南風原文化センターの展示品として屋内に保存されています。戦争遺跡を保存するという意味ではやむを得ない措置なのでしょうが、やはり本来の場所で保存する事に意味があるのではないでしょうか。
南風原町文化センター。南風原の歴史や風俗、戦争関係の資料が展示されています。小さいながらも、その内容は非常に濃く、大きな博物館に負けない位の展示があります。
陸軍病院壕の見学の受付も、こちらで行っています。
プロ野球球団もキャンプを張る浦添運動公園の近く、浦添大公園の東の外れに浦添ようどれがあります。
浦添ようどれは、浦添グスクの北側崖下にある琉球王国初期の王陵で、咸淳年間(1265-1274年)に英祖王が築いたといわれています。
英祖王は琉球最初の王で、伝説上の人物とも言われていますが、最近の研究では実在した可能性が高くなっています。
その後、1620年に、浦添出身の尚寧(しょうねい)王が改修し、王自身もここに葬られました。尚家の墓陵は首里城近くの玉御殿(たまうどん)ですが、尚寧は自分の統治時代に薩摩の侵略を許してしまい、その負い目もあって浦添に葬られる事を望んだといわれています。
浦添ようどれは国宝候補にもされながら、沖縄戦で破壊されたまま長く放置され、その復元が課題とされていました。
平成元年に浦添グスクの一帯が国史跡に指定され、浦添市が整備を計画していた所、所有者である尚裕氏(尚家22代当主)から浦添市に無償提供され、復元事業がはじまりました。
平成17年4月に復元が完成し一般公開されています。
浦添グスク公園の入り口から左へ下りていく通路があります。
崖の中腹を下る階段で、右上には山が迫り、左手は普天間基地まで見通す事ができます。
暗しん御門(くらしんじょう)とよばれる通路。ここは本来トンネルでしたが、沖縄戦で破壊されました。現世とあの世を繋ぐ門とされています。
暗しん御門を抜けると二番御庭(にばんうなー)となります。
中御門(なーかうじょう)と呼ばれるアーチ門をくぐりぬけると一番御庭です。
琉球石灰岩で作られた陵墓。浦添城は13世紀から15世紀まで王府が置かれていました。琉球の浦々まで治める、というのが浦添の語源といわれています。ようどれは13世紀ごろ王府の繁栄を願い造られたもので、白く輝く太陽の世界をイメージして、白い石灰岩で造られています。ようどれとは夕凪を意味する琉球語です。古代琉球語では墓を意味するとも言われています。
静謐な空間です。
崖の中腹に自然壕を利用して横穴を掘って墓室とし、中には中国産の石で作られた石厨子が置かれています。向かって右側の西室が英祖王の墓です。
左側の東室が尚寧王の墓です。
尚寧王の墓を守るシーサー。対の右側のシーサーは沖縄戦で破壊されました。
浦添グスク・ようどれ館。公園に行く途中の左側にあります。ビデオ資料はぜひ視聴したいもの。
墓室内部(西室英祖王統)を復元したレプリカ。非常に良くできていて、発掘に当たった調査員の方の話によると、本当に内部はこんな感じだった、ということです。骨を納める石逗子は中国製で、このころから交易が盛んに行われていた事を示しています。逗子の中には複数の人骨が納められています。ようどれに行く前に見学しておきたい場所です。
国道58号・伊佐交差点を県道81号・普天間宮方面に登り、2つ目の信号が喜友名の入り口です。宜野湾市喜友名区は、集落全体が碁盤の形のように規則正しく区画整理された古くからの計画集落のひとつです。
そこには、あたかも集落を取り囲むように石彫りの獅子像(シーサー)が配置され、村落や屋敷内によそから厄や忌み嫌われるものが入らないようにと置かれています。
この交差点に、喜友名の石彫り獅子群の案内板があります。
案内板には、シーサーを巡る地図が書いてあります。
このように周囲にシーサーを配置した村落は各地に見られますが、その全てが現存するのは喜友名区だけであり、学術的価値もきわめて高いといいます。
シーサーは七体配置され、村落に通じる道の入り口に置かれています。
1.メートーヤマ前のシーサー 喜友名2丁目29-1付近
昔、メートーヤマ前のシーサーは「ウィユクイビラ」とよばれていた坂道(ビラ)の石積みの上にありました。ここは、ちょうど喜友名入り口の交差点あたりにあって、道路拡張時にシーサーは移動されたとのことです。
ウィユクイビラはと湧泉までの道のりの途中にある休み場で、夕方になるとの人々が集まり語り合う憩いの場所だったということです。大きな口に大きな目のチブルシーサーです。
ここは、の西の入り口にあたり、目下には米軍施設キャンプフォスター、そして東シナ海が一望できます。
2.ナカムトゥ前のシーサー 喜友名2丁目25-1付近
の北西の角に置かれています。シーサーは頭を南東の方角に向けています。
しっかりとした形を保って、台座の上に鎮座しています。民家の門柱の様な台座ですが、分家によって村が大きくなると、シーサーも動かしたといわれていますから、もしかしたら向きも整地に合わせて変えられたのかもしれません。
3.メントー前のシーサー 喜友名2丁目5-26付近
の南側の細い路地を南東に向けて入った南側に、電柱の影に隠れるようにあります。
だいぶ崩れているようで、どちらが頭なのかもよくわかりません。石の隙間から、小さなガジュマルが顔を出していました。
4.メーマシチ前のシーサー 喜友名2丁目3-14付近
県道81号、喜友名の交差点からに入る道の突き当たり、県道35号に出る角にあります。の南側を守るシーサーです。
シーサーは南東の方角を睨んでいます。この方向には普天間基地があります。厄が落ちて来ないように、しっかりを守っています。
5.クラニーグワー前のシーサー 喜友名2丁目17-1付近
の南側の中間を守るシーサーです。駐車場の敷地の内側から顔を出し、南東を睨んでいます。
両脇に木が植えられ、その日陰の中に座っています。150cm位高さの台座の上に載っています。
6.イリーグワー前のシーサー 喜友名1丁目3-18付近
の東北の角を守るシーサーです。一丁目から二丁目に抜ける三叉路の突き当たりに置かれています。
輪郭が大分崩れてしまっているのでしょうが、なんとも柔和な顔つきです。
7.トゥクイリーグワー前のシーサー 喜友名1丁目29-3付近
最後の七番目のシーサーです。の北東の縁にあり、北側を守っています。交差点の角、ミラーの脇に立って、前を通る車を見つめています。
七体のシーサーの中で最も保存状態が良く、富盛の石彫大獅子に共通するデザインです。
たまにはこうしたシーサー巡りも面白いものです。
名護にある標高383mの多野岳は、頂上からは山原の森や羽地内海が一望でき、現在キャンプ場やコテージ、パークゴルフ、ホテルなどの設備があるレジャースポットとなっています。
古宇利島が見えていました。
山頂にあるホテル・タニュー。タニューとは多野岳の方言名とのことです。このホテルの敷地は、かつて米陸軍の羽地補助施設とよばれ、地対空ミサイルの基地でした。
敷地内にはその遺構が残されています。
ホテル棟とは道路を挟み反対側に、体育館があります。土地の返還後、保養施設「名護いこいの村」が建設され、その施設の一部として利用されています。
このレクレーションホールの中庭にキャンプファイヤーができる中庭があります。この燃えさしが残る円形の台座が、地対空ミサイル・MIM-23ホークの発射台跡です。
円形の台座の手前に、ミサイルを運び入れる運搬ローダーのタイヤを載せるための傾斜が造られています。
さらに奥にも同じ造りの台座が確認できます。
この多野岳は、米軍の防空ミサイルの沖縄配備計画に基づき、昭和31年に強制接収されました。38万平米の土地に防空ミサイルやその関連施設が造られました。
ピット跡。楕円形に溝が掘られ、コンクリートが流し込まれています。これもかつての基地の遺構です。
基地建設当時の画像です。山頂を平らに削り、基地建設した様子がよく分かります。(沖縄県のHPより)
ローダーから発射されるホークミサイル。(Wikipediaより)
この基地から実際にホークミサイルが発射されたという話はきいておりません。この基地も、ミサイルの運用が変わったために昭和44に返還されました。
今回ご紹介するのは史跡といっても近代遺跡とでもいいましょうか、米ソ冷戦時代に米軍が建造したミサイル基地の跡です。
国道58号線を北上、読谷から恩納村に入りしばらく行くと、リザン・シーパークホテル谷茶ベイが見えてきます。その先の信号のある交差点を右折し、自衛隊専用道路に入ります。こんな看板が立っていますが、たまに通るくらいならば許可は不要です。
坂道をしばらく登ると、左側に創価学会沖縄研修道場の入り口ゲートが見えてきます。この施設の中に、かつて冷戦時代に米軍が建設したミサイル基地が残されています。
この施設は学会関係者以外は立ち入りができませんが、私は公明党の那覇市議の紹介を受けてきました。紹介が無くても入り口で見学の目的を言えば入れてくれると思います。
施設の中、駐車場の右側にミサイル発射器地が残されています。
米ソ冷戦時代、米軍は1960年代に中国大陸に向けて地対中距離弾道ミサイルを、恩納、読谷、金武、勝連に配備しました。ミサイルはメースBと呼ばれるもので、射程距離2,200km、時速1,000km/hで誘導飛行されるもので、核弾頭を装備することができました。恩納村の基地は、わずか6ヶ月の工期で1962年6月に完成したものです。
2,200kmの射程というと、朝鮮半島はもちろん北京、重慶まで攻撃可能でした。
1970年代になるとミサイルは地上からでなく艦船や航空機からの射出と戦術が変わっていき、このミサイル基地は使用されなくなりました。
基地跡には8基の射出口の跡がそのまま残されています。
恩納村の基地は、8基のミサイル発射台を有し厚さ1.5mのコンクリートで作られています。原状復帰もされぬまま民間に返還後、当初は取り壊す話もありましたが、1977年に創価学会が買い取り、1984年に発射台をそのまま「沖縄池田平和懸念館附属展示室」として改装・保存しました。
展示室の内部です。発射台が傾斜して設置され、上空を睨んでいる造りがよくわかります。
展示室には各種パネルやメースBのスケールモデルが展示されています。
発射口の背後です。斜面に傾斜して造られているのがよく分かります。
メースBが配置された時の資料です。
基地撤去後の様子。これだけのコンクリートの塊が、原状復帰されぬまま放置されました。
核弾頭搭載可能な弾道ミサイル・メースBのプラモデル。1:32レベル製です。
巡航用エンジンの下に、打ち上げ用のエンジンが付けられています。
この核弾頭は広島や長崎に投下された原爆と同等の威力を持っていました。
「天女伝説の発祥の地」、宜野湾市真志喜にある森の川です。
今からおよそ690年前のことです。浦添間切大謝名に住む奥間大親という若者がおりました。彼は非常に貧しい百姓で、嫁を迎えることもできずにおりました。
ある日の夕暮れ、農作業の帰りに手足を洗おうと思って森の川に立ち寄ると、なんとこの世の人とは思えない美しい女性が水浴しているのを見かけました。
奥間は泉に忍び寄り、木陰から覗いていましたが、ふと気づくと、とてもきれいな羽衣が頭上の松の枝にかけてありました。
「これはあの美しい女性の着物に違いない」
奥間は羽衣を枝から取ると隠してしまいました。
女性は、羽衣が無くなっていることに気づき、泣き崩れました。
そこで奥間は女性に声をかけました。
「これはどうなされたのですか?あなたはどこからいらしたのですか?」
「私は天女です。泉で水浴している間に飛衣がなくなってしまいました。それがなくては天界に戻れません。どうしたらよいのでしょう」
奥間は心の中で喜び、
「それでは私が探しましょう。見つかるまで私の家でお待ちください」
と家に誘ったのです。
奥間は蔵の中に羽衣を隠すと、
「いくら探しても見当たりません」
とごまかしました。
二人は夫婦の契りを結び、二人の間に一男一女が生まれました。
ある日天女は、娘が弟の子守をしているときに、
「母がよ 飛び衣やよ
六ち股ぬよ 八ち股ぬよ
倉ぬ下ねー 隠ちぇーくとぅよ」
と歌っていることに気づきます。そこで歌のとおり蔵の中を探してみると飛衣が見つかります。
天女はそれを身に付けると、子供に名残を惜しみながらも天に昇っていきました。
これが天女伝説です。
沖縄県名勝 宜野湾市 森の川
1967(昭和42)年4月11日指定
2000(平成12)年5月19日追加指定
名勝「森の川」は天女が降臨し沐浴したという「羽衣伝説」の舞台となったところです。「球陽」などの古文書によると、天女は奥間大観なるものと結婚し、一男一女を授かり、のちにその男子は中山王察度になったと記されています。
察度王は1372年に公式に初めて中国明と外交を開いた人物として知られています。
泉の東隣には村の聖地であるウガンヌカタがあり、そこに立つ石碑(西森碑記)に、泉は1725年に向氏伊江家の一族により、石積みで建造されたことと、そのいきさつが記されています。
この泉はまた真志喜の重要な泉で、子供が出生したときの産水、正月の若水をとる泉であり、地域の方々との結びつきが深く、大切な場所です。
2003(平成17)年3月設置 沖縄県教育委員会 宜野湾市教育委員会
つまり現代に置き換えると、こういう話ですね。
ある日、美しい女性が一人で沖縄観光に来ていたのですね。彼女はサンゴ礁の海に惹かれて、ビーチで泳いでいた。そこに奥間という、いなぐじょーぐーが通りすがったわけです。彼女の美しさに奥間はのぼせ上がってしまった。
「あきさみよ~!しに、ちゅらさぬ、いなぐーやっさー」
ふと見ると、彼女のバッグが砂浜に置いてある。奥間はバッグを隠してしまった。
女性はバッグが無くなっていることに気づくと泣き出してしまった。
そこで奥間は女性に声をかけた。
「ちゃーさびたがやいびーがやー?」
「私は東京から来ました。私のバッグが無くなってしまいました。バッグの中には、着替えと財布と帰りの航空券がはいっているのです。バッグがなければ家に帰れません」
奥間は心の中で喜び、
「あい、でぇ~じなとん。我んが、とぅめーびーんなら、うんじゅや我ったー家でゆくてぃうとーてぃくみそーれ」
と女性を家に誘って、あろうことか子供まで作っちゃたんですねえ。
これって、もしかしたら犯罪なんじゃないの? 今やったら、絶対に犯罪ですよ。
下手すると、いやしなくても、天上界とうちなーの外交問題にも発展しかねない犯罪を、この奥間という男はしでかしちゃったわけですねえ。ただ、天上界から告訴されたという話はいまだもって無いようです。これは親告罪で天女は被害届けを天上警察に出さなかったのでしょうかねえ。閑話休題。
こうした天女伝説は全国各地にあるようですが、近隣の那覇市銘苅にも同様な伝承が残っています。銘苅では銘苅子という若者が登場します。ただし、察度王への結びつきは無いようです。
為朝伝説もそうですが、おそらく国王の権威付けのために創作されたものなのでしょうね。
さて、伝説によるとこうして残された子供が察度でした。前回、黄金宮でご紹介した後の中山王となる人物です。
察度は王になると、明国との貿易を始め、当時先進国であった中国の高度な文化と鉄などを輸入し、それによって作った農工具等を農民に与え、その後の琉球国の繁栄をもたらしたのでした。
私の前にも天女が現れないかしら。
宜野湾市大謝名4丁目20-6番地付近、住宅地の一角にガジュマルの大木に囲まれた庭があります。
黄金宮または黄金庭とよばれるこの土地は、察度の住居であったといわれています。
伝承では察度は浦添間切謝名の百姓、奥間大親と天女との間に生まれたことになっています。奥間大親が天女と出会った地が宜野湾の森の川で、現在公園になっています。なぜ奥間が天女と結婚したのか、この話は次回にすることとしましょう。
さて、若いころの察度はどうも不良だったようで、百姓の倅だったにも関わらず農作業に精を出すことは無く、遊びまわっていて、父親の言うことは聞かなかったそうです。
ある日、彼は勝連按司(あじ)の娘が婿選びをしているのを聞きつけるのですな。按司というのはまだ統一国家というものが確立していない時代、土地を治めていた地方豪族のことで、日本風に言えば大名でしょうか。
当時強勢を誇っていた勝連按司の娘ですから、当然のことながら身分の高い者や才能に秀でた者たちが求婚するわけですが、娘はなぜか縁談を断り続けていたのです。
こういう話を聞いて、なんと、とんでもないことに察度はその娘と結婚しようと思い立ってしまいます。
当時の古琉球の身分制度がどのようなものであったのかよく知りませんが、貧乏百姓の倅がお姫様と結婚しようと考えるのですから、察度は大変な自信家か大馬鹿野郎のどちらかだったのでしょうねえ。
しかし、察度は考えるだけでなく、行動に移します。彼は勝連城まで行って門を叩きます。
当然、門番は最初彼を追い返します。ところが、押し問答を繰り返すうちに、門番が折れて彼を中に入れてしまうのですね。伝承では察度の態度が立派であったからというのですが、実際のところどうだったのでしょうか。
話を聞いた勝連按司は果たしてどんな男だろうと興味を持ってしまい彼を庭に入れてしまいます。
そこで察度は按司に、
「私は浦添間切大謝名の察度です。娘さんをもらいに来ました」
と、臆することなく言っちゃった。
按司や家来たちが「こりゃ、とんでもない大馬鹿者が来た」と苦笑する中、その様子を物陰から見ていた娘が出てきて、父親に、
「お父さま、この人こそ私の夫になる人でございます」
と言ったのです。
衝撃的発言!按司は驚いたでしょうねえ。
「何人ものすばらしい若者を断っているのに、なぜこのような百姓と結婚しようと言うのか?」
まあ、そうでしょうねえ、職業に貴賤は無いとはいうものの、私の娘がフリーター連れてきたら、ちょっと困惑しますなあ。
しかし娘は、
「このお方は後に王となる方です」
と答えるのです。
そこで按司は占いをしたといいます。今でも沖縄はユタやノロが信じられている世界です。
按司お抱えのユタもたくさんいたに違いありません。
ところが占ってみると、娘は王妃になる、という結果が出ちゃうのですね。
そこで、ようやく按司は二人の結婚を許します。
娘は身ひとつで察度のもとに嫁いだといいます。勝連按司は何も持たせなかったのでしょうかねえ。本心は「それなら勝手に出て行け!」というわけだったのでしょうか。
察度の家は、ひどい貧乏ぐらしで生活必需品もまともに無いというほどだったらしい。
ところがカマドの中に何かあるのを妻は見つけます。取り出すと黄金の塊でした。
妻はびっくりして、
「これはどこからもってきたのですか?」
と尋ねます。
「なに、こんなものなら庭の畑に埋まっている」
と察度が言うので畑に行くと、金塊がたくさん見つかりました。
察度はこの地に家を建て、人々は黄金宮とよびました。牧港に出入りする日本の船と交易し、察度は黄金で鉄を買い入れ、農具を作り、農民に与えました。貧しい人々の救済も行ったといいます。
人々は察度を慕い、彼を浦添按司に推挙しました。察度の政治で領地内は栄え、察度を支持する人々はますます多くなりました。
そのころ英祖王統の中山王である西威が亡くなりました。西威は政治への才覚が無く、国は乱れ、人々は苦しい生活を送っていました。にも関わらず王統は西威の息子を王にしようとしました。息子はわずか5歳でした。
ここでクーデターが起こります。1349年、中山の按司たちは団結し英祖王統を滅ぼし、察度を王位につけたのです。察度30歳のときでした。
一説によると、察度王は英祖王統の財宝を放出し、黄金で農民のために農具を購入したといいます。
こうなると、黄金宮の金塊と話が前後してしまいます。
察度王のこうした善政が、黄金宮の伝説を作ったのかもしれませんね。