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管理人のうちなーライフかりゆし日記

管理人てぃんがーらが沖縄の生活を綴ります。

八重瀬の戦跡3 クラシンジョー

2012年06月03日 | 博士の研究日記

 糸満から国道331号線を知念方向に行くと、左側に八重瀬町役場が見えてきます。その先を右手に入ると、高台に具志頭城址公園があります。太平洋を見下ろすことができる広々とした公園で、子供連れや、ピクニックを楽しむ家族が多く訪れます。

 その公園に沿って、海方向に下りていくと、高台の中腹当たりにクラシンジョーと呼ばれる壕が残されています。


 道の擁壁に、階段が作られています。実はこの階段、壕に行くためだけの階段です。手すりも完備されております。よくこんなアプローチを作ってくれたものです。

 階段を登り切るとインディ・ジョーンズの世界です。ただ、この上はさきほどの公園になっており、子供たちの歓声が遠くに聞こえます。

 この岩場の右側に壕口が2ヶ所確認できます。戦時中、住民が避難したといわれる壕です。入り口は土砂により高さ50cmくらいまで狭められています。

 内部は天井高2~3mあり、広い空間になっています。地面には壜や陶器のかけらが散乱しています。一部に火を起こした後も確認できます。
 壁に石積みがありますが、これは古い墓です。

 壕の反対側に岩の裂け目があります。この内部はトーチカとして銃眼が作られています。

 トーチカの内部です。コンクリートで作られた銃眼の先には海が見えます。海上からの米軍を狙ったものです。

 このクラシンジョーとよばれる壕は、実のところ詳しい資料が残されていません。壕の構築、整備は、第9師団武部隊が配備されていた頃に行われていたらしいのですが、この壕がどのような使われ方をしたのか不明です。住民との関わりも分かっておりません。

 


完熟たんかん

2012年06月01日 | 博士の研究日記

 変わりやすい天気が続く今日このごろ、体調を崩してしまいました。
 ブログの更新もできなく失礼いたしております。

 さて、元気をつけるために最近はまっているものがこれ。

 大宜味村の完熟たんかん。
 たんかんって食べたことありますか?柑橘果実なんですが、香りと甘味が濃い、蜜柑よりも蜜柑らしい味なんです。
 ヤンバルに行くと、道端で売っているのですが、皮が汚い。でも皮を剥くと味はじょーとー。そのたんかんのジュースです。
 実はこれで島酒を割ると旨い。シークワサーよりも香りが良くて甘くなるのですな。飲みすぎないように注意。

 


南城市の戦跡3 久手堅の吉岡隊構築壕

2012年05月13日 | 博士の研究日記

 斎場御獄の近く、知念社会福祉センター脇の交差点を、知念勤労者体育センターに向かいます。体育センターの門を入った左側、南城市知念字久手堅537番地のウフグスクとよばれる小山に日本軍の陣地壕が残されています。

 1942年、中城湾警備の任務の命を受けた重砲兵第七連隊第二中隊は吉岡隊に編入され、ここ知念崎の中腹に布陣しました。第一小隊は知名、第二小隊は斎場御獄のウローカー付近に十二糎連射加農砲の砲座を構築しました。

 この陣地壕は道路からも見える位置に、壕口が確認できます。 入り口は半分ほどの高さまで土砂で埋められていますが、中に入ると立って歩けるほどの高さになります。

 壕は第三紀砂岩(ニービ層)をくりぬいて造られ、壁には補強のための枕木を建てた跡が残ります。突き当たりは見張りのための窓が開けられています。さらに右にはトーチカ状の銃眼、左には崩落した連絡壕があります。
 おそらくウローカーの砲台までつながっていたと思われます。

 


南城市の戦跡2 斎場御獄その2

2012年05月12日 | 博士の研究日記

 国道311号線斎場御獄入り口を過ぎさらに安座間方向に進むと、国道の左側に「ウローカー」の看板が見えてきます。

 ウローカーとは斎場御獄を訪れる人々が身を清めたという湧き水(カー)です。ここから御嶽の御門口(ウジョーグチ)に道がつながっていますので、本来ここが御嶽への参道だったのでしょう。

 今では水もほとんど湧いていません。水場の遺構のみ残っています。
 ウローカーから左手に御嶽に続く道があります。

 山道は右手に登る階段と左に行く道とに分かれます。右手の階段は現在閉鎖されていますが、登ると斎場御獄の正門である御門口(ウジョーグチ)に出ます。
 左の道は岩を切り通して作られており、良く見るとコンクリートで舗装されています。

 この道は戦時中日本軍が構築した連絡通路です。
 県史によると知念村には重砲兵第七連隊の中隊が配備され、加式十二糎速射加農砲二門を装備していました。

 連絡通路に残る鉄筋コンクリートの門柱。おそらく強固な扉があったのでしょう。

 コンクリートが流された跡です。砲台の基礎かもしれません。この陣地は米軍の艦砲射撃により破壊されました。

 周囲の林の中には日本軍の遺構らしきものが確認できます。ただし相当な藪の中なので、ハブには十分注意が必要です。
 


南城市の戦跡1 斎場御獄その1

2012年05月06日 | 博士の研究日記

 世界遺産にも指定された斎場御獄(せいふぁうたき)。南城市の公式HPによると、

 御嶽とは、南西諸島に広く分布している「聖地」の総称で斎場御嶽は琉球開びゃく伝説にもあらわれる、琉球王国最高の聖地です。
 御嶽の中には、六つのイビ(神域)がありますが、中でも大庫理・寄満・三庫理は、いずれも首里城内にある建物や部屋と同じ名前をもっています。当時の首里城と斎場御嶽との深い関わりを示すものでしょう。
 はるかなる琉球王国時代、国家的な祭事には聖なる白砂を「神の島」といわれる久高島からわざわざ運び入れ、それを御嶽全体に敷きつめました。その中でも、最も大きな行事が、聞得大君の就任式である「お新下り」でした。斎場御嶽は、琉球国王や聞得大君の聖地巡拝の行事を今に伝える「東御廻り」(アガリウマーイ)の参拝地として、現在も多くの人々から崇拝されています。(引用終わり)

 寄満(ゆいんち)と名付けられた拝所。寄満とは台所のことで、大航海時代、世界の富が集まった所という意味合いがあります。

 三庫理(さんぐーい)。突き当たりの空間からは久高島が見えます。

 三庫理から久高島を望みます。久高島は琉球開闢の祖アマミキヨが降り立ち、国づくりを行ったという最も神聖な島です。

 さて、斎場御獄の入り口から登っていくと、大庫理から寄満に向かう途中の右手に直径5メートルほどの円形の池があります。

 今でも水を湛えるこの池は、砲弾池と呼ばれています。戦時中、艦砲射撃の砲弾が着弾した跡です。沖縄最大の聖地にも、砲弾が降ってきたのですね。いつまでも水が絶えない着弾跡、御嶽が戦争の痕跡を後世に残そうとしている様です。

 


糸満の戦跡20 ひめゆり部隊の彷徨・ひめゆり学徒隊散華の跡

2012年05月04日 | 博士の研究日記

 荒崎海岸はひめゆり学徒隊の終焉の地として、当ブログでも過去何回か紹介してきた場所です。
 1945年6月19日、伊原の陸軍病院第三外科壕で解散命令を受けたのち、米軍による攻撃から逃げのびた「ひめゆり学徒隊」の引率教員2名と女子生徒12名は、荒崎海岸までたどり着きました。
 米軍は火炎放射器でアダン林を焼き払いながら残敗兵や住民を炙り出し、海へ追い詰めていったのです。 
 ようやく海まで逃げた学徒隊ですが、すでに海上には米艦隊が大挙して押し寄せ、投降を呼びかけていました。6月21日、岩場に隠れたものの米軍の急襲を受け、引率教員が手榴弾を使って集団自決を図り8名が死亡、さらに米軍の機銃掃射により6名が犠牲となりました。
 翌6月22日、沖縄守備隊第三十二軍司令官牛島中将、長参謀は摩文仁の壕で自決し、日本軍の組織的戦闘は終わりを告げました。

 糸満市字上里にある糸豊環境美化センター正門の脇の農道を「荒崎海岸へ」の案内板に従い海に向かいます。

 道は藪の中に入り、雑木のトンネルをくぐり抜けると、目の前に海が開けます。

 荒崎海岸はリーフがなく、波が隆起珊瑚礁の磯浜に打ち寄せる、名前の通り沖縄の海らしからぬ荒々しい風景です。風雨にさらされた岩は、剃刀の刃の様に尖り、ビーチサンダルで歩くと穴があくほどです。
 当時、海上は米艦隊の大軍で真っ黒になったといいます。軍艦からは絶え間なく艦砲射撃が行われました。

 海岸に沿って左手にモルタルを流しただけのかろうじて人一人が歩ける小道が続きます。その道をたどると岩場の左方向の崖の上に、ひめゆり部隊終焉の地を表す「ひめゆり学徒隊散華の跡」の石碑が見えてきます。

 この下の窪地の中で、ひめゆり学徒隊と引率教員8名が自決しました。

 石版にはこの地で亡くなった学徒隊12名と教員2名の名前が刻まれています。



 


糸満の戦跡19 ひめゆり部隊の彷徨・陸軍病院伊原第三外科壕

2012年05月03日 | 博士の研究日記

 南風原陸軍病院撤退後、糸満市伊原672番地にある縦穴の洞窟に第三外科の職員、衛生兵、学徒隊および引率教師たちは避難しました。この伊原第三外科壕は6月19日米軍のガス弾の直撃に遇い、住民も含め約80名が犠牲となりました。

 国道331号線を南下、伊原の交差点の左側に第三外科壕の壕口があります。

 第三外科壕の周辺には土産物屋、喫茶店、ミリタリーショップや米軍放出品の店が建ち並び、呼び込みの声も騒がしく、常に観光客であふれています。

 壕口の後ろには大きな慰霊碑が建ち、戦没者の氏名が刻まれています。またその背後には財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会によって建設されたひめゆり平和祈念資料館があり、学徒隊の手記、ジオラマなどが展示され、ひめゆり部隊の生き証人が観光客に解説をしてくれます。

  第三外科壕の壕口です。数メートル垂直に開口しており、途中のテラス状になった岩に梯子をかけ出入りしていました。

 慰霊塔への参道の脇にある「沖縄戦殉職医療人の碑」(右)と「陸軍病院第三外科職員の碑」(左)。

 戦後第三外科壕が発見され、遺骨を収拾したときに住民の協力によって建てられた「ひめゆりの塔」。慰霊碑への参道にある「ひめゆりの塔の記」には以下のようなことがらが記されています。

 昭和20年3月24日島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員生徒297名は、軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。    
 戦闘がはげしくなるにつれて、前線から運ばれる負傷兵の数は激増し病院の壕はたちまち超満員になり、南風原村一日橋・玉城村糸数にも分室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜昼となく力のかぎりをつくして傷病兵の看護を続けた。
 日本軍の首里撤退もせまった5月25日の夜南風原陸軍病院は重傷患者は壕に残し歩ける患者だけをつれて、手を引き肩をかし砲弾をくぐり、包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。
 南にくだった後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれて業務を続けた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。
 6月18日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌19日第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げ込まれ地獄絵図と化し、奇跡的に生き残った5名をのぞき職員生徒40名は岩に枕を並べた。軍医・兵・看護婦・炊事婦等29名、民間人6名も運命をともにした。その他の壕にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最期をとげたのである。              
 戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕が探しあてられた。真和志村民の協力により昭和20年4月7日最初のひめゆりの塔が建ち、次第に整備された。ここに沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員16名、生徒208名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点とする。

 第三外科壕から命からがら逃げ出すことができた学徒隊12名と引率教員2名はこのあと荒崎海岸までたどり着くのですが、さらに過酷な運命が待っているのです。

 


糸満の戦跡18 ひめゆり部隊の彷徨・陸軍病院糸洲第二外科壕

2012年04月30日 | 博士の研究日記

 南部病院前から331号バイパスに入らず、海側の旧道を南下します。琉球ガラスで再び旧道がバイパスと合流する300mほど手前の糸洲入り口に第二外科壕の道標が立っています。

 電柱に寄り添うような小さな道標で、まして旧道ですから、ほとんどの観光客は気付かずに通過してしまうだとうと思います。

 農道をバイパスに向かって進むと伊敷に抜ける手前で道は切り通しになります。その左側、字糸州239番地に木々の生い茂る丘があります。ここに糸州第二外科壕があります。

 壕の脇には壕の所在を示す石柱が建てられていますが、表面に書かれた文字はほとんどかすれてしまい、読み取ることは困難です。この壕には南部撤退後の南風原陸軍病院第二外科勤務者とひめゆり学徒隊が避難しました。

 壕入口は斜面にあるため上部からの土砂でほとんど埋まっています。かろうじて壕口の上部20cmほどが開口しています。ここにも誰が手向けたのか白百合の花束が置かれていました。

 そのわずかな隙間からカメラのレンズを入れてみると、土砂の向こうに壕口を閉鎖したコンクリートブロックが確認できます。おそらく危険のため壕口を塞いだものと思われます。ただ、どれだけ内部が調査されたか不明です。きっと内部にはまだ多くの遺骨や遺品が残っているはずです。

 第二外科壕は1945年6月18日に米軍の馬乗り攻撃に遭い、その夜生存者は壕を脱出し伊原第一壕にたどり着きますが、そこで解散命令を受けることになります。

 


糸満の戦跡17 ひめゆり部隊の彷徨・陸軍病院山城本部壕

2012年04月29日 | 博士の研究日記

 首里司令部陥落に伴い、南風原を撤退後、陸軍病院の職員達が避難した壕が山城本部壕です。

 糸満市山城のサトウキビ畑の中の農道を走ると、279番地付近にガジュマルやゴムの木が繁った一角があります。

 林の中に慰霊塔があります。慰霊塔周辺は綺麗に整備され、花束が手向けられています。今も管理する人たちがいるようです。

 慰霊塔の反対側に陸軍病院本部壕があります。

 直径20m位の縦穴が口を開けています。鍾乳洞が陥没したドリーネで、底まで5mほど下ります。

 後から整備したのでしょうか、石畳の階段があり、地底まで下りることができます。当時はこんな階段など無く、ロープを伝って昇り降りしました。

 郷内は流入した粘土質の土砂で埋まっています。
 1945年6月14日に米軍の直撃弾を受け、病院長、衛生兵、ひめゆり学徒らが死亡しました。病院本部の機能は壊滅状態となり、翌6月15日に生存者は伊原第一外科壕、伊原第三外科壕などに分散しましたが、そこでも激しい攻撃にさらされることになりました。

 犠牲となったひめゆり部隊を読んだ歌が石碑に刻まれていました。


 


糸満の戦跡16 ひめゆり部隊の彷徨・陸軍病院伊原第一外科壕

2012年04月28日 | 博士の研究日記

 1945年3月23日、沖縄県立師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒222名は南風原の沖縄陸軍病院に配属されました。この学徒隊には、両校の校章に白ユリがデザインされていたこと、第一高等女学校の交友誌が「乙姫」であったことから、ひめゆり部隊と名付けられました。
 陸軍病院は沖縄守備隊第三十二軍の直轄であり、本部・内科・外科・伝染病科が置かれましたが、負傷兵の数が多くなり、内科は第二外科、伝染病科は第三外科に変更されました。病院といっても、壕の横穴の中に木製の二段ベッドを並べただけの施設でした。
 5月25日、戦局の悪化に伴い陸軍病院は重傷患者を残し、南部に撤退します。陸軍病院の糸数分室、津嘉山経理部の職員と一緒に第一外科の軍医とひめゆり部隊が避難した壕が、ここ伊原第一外科壕です。

 ひめゆりの塔の北、200mほどに国道331号にぶつかる農道があります。

 交差点に石柱の案内がありますが、非常に目立たなく、ほとんどの観光客が気付かずに通りすぎてしまいます。

 農道の脇に石碑が建てられています。その下に壕口があります。

 ドリーネ状に落ち込んでおり、内部には土砂が流れ込んでいます。壕口は上部30cm位しか開いていません。内部は湿度が非常に高く、カメラや眼鏡のレンズが曇ります。
 本日沖縄気象台は梅雨入りを発表しましたが、ひめゆり部隊が避難した時期、豪雨が続いていました。かなり劣悪な環境だったことが実感できます。
 6月17日に壕口に着弾し、ひめゆり部隊9名と教員(県立第一中学校長)が死傷、18日に解散命令が出され19日の未明負傷者を壕内に残し脱出します。

 壕の周囲はサトウキビ畑です。解散命令といっても、実質的には玉砕命令です。銃弾が飛び交う中、女子学生達は戦場を彷徨ったのです。この畑の中にはまだ多くの遺骨が眠っているはずです。