アルファさんが八重山に行かれたということで、石垣島の戦跡をご紹介したいと思います。まずは石垣島の空の玄関、石垣空港。
新空港の建設が遅れ、手狭感のある石垣空港。ボーディングブリッジも2つしかなく、タラップを使って乗り降りすることも多くあります。滑走路も短く、1,500mしかありません。ボーイング737でさえ、乗客や荷物を積んで燃料を満タンにすると1,500mで飛び上がれません。したがって、石垣島から本土へ直行便を飛ばすことができず、那覇で燃料補給することになります。
どうしてこんなに手狭な空港なのかというと、実はこの空港は旧日本海軍平得飛行場をそのまま使っているからなのです。当時の飛行場は滑走路1,200m、それでもゼロ戦を飛ばすには十分な大きさでした。
この石垣空港の滑走路脇に掩体壕が残されています。
真栄里からウージ畑の農道を滑走路に向かいます。ほとんど雑草に覆われた農道を、歩いていくと、滑走路に面して戦闘機を格納した掩体壕が見えてきます。
平得飛行場は旧海軍が太平洋戦争に向けて建設したもので、計画では2,000m級の滑走路を3本持つ広大なものでした。農地が接収され、多くの島民が作業に徴用されました。
この掩体壕は戦闘機を敵機から秘匿するために造られたものです。
読谷の掩体壕とは異なり、堅牢な作りです。尾部が入る部分は石積みとなっています。
だいぶ土砂で埋まっているようですが、天井のアーチには鉄筋が入っているのが分かります。コンパネを貼ってコンクリートを流し込んでいます。読谷の掩体壕は、土を盛ってコンクリートをかけ流し、固まってから土を取り除くという方法でしたが、こちらは強度的に考えられた構造となっています。
天井付近に被弾したような跡があります。石垣では地上戦は無かったので、被弾した航空機が爆発したのかもしれません。
この掩体壕からいくらも離れていないところに石垣空港の滑走路があります。当時は戦闘機が飛び立って行った滑走路から、現在は観光客を乗せた旅客機が離陸していきます。