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管理人のうちなーライフかりゆし日記

管理人てぃんがーらが沖縄の生活を綴ります。

石垣島の戦跡1 平得飛行場跡の掩体壕

2011年11月27日 | 博士の研究日記

 アルファさんが八重山に行かれたということで、石垣島の戦跡をご紹介したいと思います。まずは石垣島の空の玄関、石垣空港。

 新空港の建設が遅れ、手狭感のある石垣空港。ボーディングブリッジも2つしかなく、タラップを使って乗り降りすることも多くあります。滑走路も短く、1,500mしかありません。ボーイング737でさえ、乗客や荷物を積んで燃料を満タンにすると1,500mで飛び上がれません。したがって、石垣島から本土へ直行便を飛ばすことができず、那覇で燃料補給することになります。
 どうしてこんなに手狭な空港なのかというと、実はこの空港は旧日本海軍平得飛行場をそのまま使っているからなのです。当時の飛行場は滑走路1,200m、それでもゼロ戦を飛ばすには十分な大きさでした。

 この石垣空港の滑走路脇に掩体壕が残されています。
 真栄里からウージ畑の農道を滑走路に向かいます。ほとんど雑草に覆われた農道を、歩いていくと、滑走路に面して戦闘機を格納した掩体壕が見えてきます。

 平得飛行場は旧海軍が太平洋戦争に向けて建設したもので、計画では2,000m級の滑走路を3本持つ広大なものでした。農地が接収され、多くの島民が作業に徴用されました。
 この掩体壕は戦闘機を敵機から秘匿するために造られたものです。

 読谷の掩体壕とは異なり、堅牢な作りです。尾部が入る部分は石積みとなっています。

 だいぶ土砂で埋まっているようですが、天井のアーチには鉄筋が入っているのが分かります。コンパネを貼ってコンクリートを流し込んでいます。読谷の掩体壕は、土を盛ってコンクリートをかけ流し、固まってから土を取り除くという方法でしたが、こちらは強度的に考えられた構造となっています。

 天井付近に被弾したような跡があります。石垣では地上戦は無かったので、被弾した航空機が爆発したのかもしれません。

 この掩体壕からいくらも離れていないところに石垣空港の滑走路があります。当時は戦闘機が飛び立って行った滑走路から、現在は観光客を乗せた旅客機が離陸していきます。

 


2011年瑞泉「御酒」

2011年11月26日 | 博士の研究日記

 遅ればせながら、2011年度の御酒(うさき)を買ってまいりました。

 御酒は沖縄戦で壊滅した泡盛の麹が、平成10年に東京大学に保存されていることが分かり、瑞泉酒造がその麹菌を使って復活させた泡盛です。他の菌が混入しないよう全生産ラインを停止させ殺菌を行い、瑞泉の杜氏たちの手作業で戦前の泡盛を復刻させた「幻の泡盛」です。
 造り酒屋は全て量り売りで、ブランドというものなど無かった時代、全ての泡盛がそう呼ばれていたように名前を「御酒」(うさき)と付けたそうです。
 当初、繁殖に難があった戦前の麹菌も元気に増え続けているようで、毎年この特別な御酒が販売できるようになりました。
 で、お味はというと、2009年度版を飲みましたが、一言で言えばフルーティ。古酒ではないのですが、刺すようなアルコールを感じさせず、マイルドで素朴な味です。
 スーパーで2600円位で売ってます。瑞泉のネットショッピングでも買えます。ぜひ戦前の味をお試しください。

 


西原の戦跡6 小波津家の弾痕跡のある石塀 

2011年11月23日 | 博士の研究日記

 西原町の戦跡の中で知名度も高く、保存状態も良いものがこの「小波津家の弾痕跡のある石塀」です。前回ブログでも紹介しましたが、より詳しくお伝えします。

 県道155線から1本入った小波津集落に小波津家があります。

 周囲はまだ畑の残る住宅地です。
 1944年10月10日に、那覇市内が火の海となった十・十空襲がありました。その後の本格的な米軍の攻撃から、沖縄守備隊第32軍の司令部陣地のある首里を守るため、ここ西原町(当時は村)小波津に独立歩兵第11大隊第1中隊と第3中隊が配備されました。この小波津家は1935年(昭和10年)に新築された豪邸であったようで、そのために日本軍に接収され、兵士の宿舎として使用されました。
 読谷に上陸した米軍が南下するにつれ、首里の防衛ラインである西原町は激戦地となりました。米軍は中城湾に艦隊を配備し、艦砲射撃を行いました。特に日本軍が駐留した小波津には攻撃が激しかったようです。

 上の画像とは反対方向からの小波津家です。中城湾に面した塀に弾痕跡が多く見られます。激しい砲弾を浴び、一帯は石塀を残し灰塵と化しました。
 電柱の横にある白い看板は西原町役場が設置した案内板です。こうした戦跡をきちんと説明する案内板は県内でもなかなかありません。

 案内板の拡大。

 おびただしい弾痕が残ります。この場にいたら、逃げ場は無かったと思います。

 その拡大。
 大小さまざまな穴が空いています。砲弾は着弾すると砕け散り、鋭く尖った焼けた鉄片が四方にばらまかれました。

 こうした戦争遺跡の中で、現在人々は生活をしています。弾痕に囲まれた日常生活とは、いったいどんなものかと考えてしまいます。

 


西原の戦跡5 西原の塔

2011年11月20日 | 博士の研究日記

 沖縄には戦没者の慰霊の塔が至る所に存在します。それぞれの集落で、職場で、また旧日本軍の遺族が建てたものなど実にさまざまです。これまで私は戦跡や戦争遺物・遺構をHPご紹介してきましたが、慰霊碑そのものを取り上げたことはありませんでした。それは、慰霊碑自体は戦後に造られたものであり、戦争遺跡とは少々違うだろうという感じがしていたからです。
 しかし、西原は当時の村の人口10,881人(2,165世帯)のうち実に47%の5,106人の方々が犠牲になり、476家族が一家全滅となりました。こうしたことから西原町(当時は村)そのものが戦跡であるという想いから今回取り上げてみました。

 西原の塔は前回ご紹介した西原村役場壕のすぐ近くにあります。西原は南部にや首里に通じる交通の要所であり、西原国民学校に第62師団第11大隊が駐留し、米軍と熾烈な戦いを展開した激戦地でした。案内板によると、慰霊塔は1955年に沖縄協会の援助と村民の寄付により建立され、1,700余柱が合祀されました。その後、西原村内で戦没した村外出身者、県外出身者の身元の確認も進み、1993年には7,068柱の合祀となったということです。
 慰霊碑の敷地内には、他県の慰霊碑や日本軍の顕彰碑など、さまざまな慰霊碑を見ることができます。

 遺族台帳の整備も進み、隣の給食センターの敷地に沿って、戦没者の名前が刻まれています。

 しかし、良く見ると、世帯主の名前はあっても、妻や子供の名前、年齢がいまだに分からない方もいらっしゃいます。沖縄戦で役場の住民台帳などの資料が全て灰塵に化してしまったためです。
 名前さえ分からない人たちが浮かばれる日は来るのでしょうか。

 


西原の戦跡4 小波津野戦重砲陣地壕

2011年11月19日 | 博士の研究日記

 首里から小那覇方面に向かって丘陵を下る県道155号線が、小波津の手前で町道37号線と分岐する交差点付近に、陣地壕跡が残されています。

 小波津には独立歩兵第11大隊が駐留し、南下して来る米軍に対峙しました。その第11大隊を側面から援護するため、独立重砲兵隊第100大隊に所属する一個小隊が布陣しました。
 この壕は八九式十五糎加農砲を秘匿するために作られた壕とみられます。

 壕の入口付近の左右に門柱のようなコンクリート柱が対で残っています。壕口に扉を作っていたものと思われますが、陣地壕にこのような構造物はあまり見かけないもので、私の知る限りここだけです。

 まっすぐに2-30mほど掘られています。左右の壁と天井に溝が見られますが、これは崩落を防ぐために坑杭を立てた跡です。

 外を見ると目の前が道路です。車で横付けできる場所に有り、アクセスの良い壕です。(笑)
 


西原の戦跡3 西原村役場壕跡

2011年11月17日 | 博士の研究日記

 サンエー西原シティの前を通る県道38号線。西原中学校前の翁長交差点を首里方面に曲がり、西原の塔の少し先に右側に、旧西原村役場壕があります。

 町制20周年を記念して整備された戦跡で、立派な案内板が立てられています。
 その説明文によると、

旧西原村役場壕の沿革
1941年の太平洋戦争勃発後、日本軍の戦況が悪化してくると、大本営は沖縄に第32軍を配備し、西原村でも西原国民学校などに1200名余が駐屯しました。
戦況がますます厳しくなった1944年6月頃、西原村役場でも地元住民から人夫を雇って役場壕を掘り、戸籍簿・土地台帳などの重要書類や、公金・公印、出納簿、戦時債権などを重さ1トンほどもある壕内の金庫に収納していました。
役場の事務は米軍の本島上陸直前まで行われ、毎朝出勤すると役場壕から書類を持ち出して事務を行い、夕方再び書類を壕内に運んで保管していました。
戦後、壕はそのまま放置され、1980年頃、土地業者が道路に面した部分をえぐってしまった為に主壕の壁が壊され開口してしまいました。本来の入り口は北東に向かった2カ所です。
今日、戦争の歴史的教訓が年々風化するなか、太平洋戦争の悲惨さを物語る、本町での数少ない戦争遺跡の一つとなっています。

とのことであります。

 ずいぶんと大きな壕口に見えますが、道路拡張の際に建設業者が崩してしまったのですね。向かって右側の道路沿いに本来の入り口が2ヶ所あります。

 

 書類が湿気ないように風通しを良くするために、壕口を2ヶ所作ったということです。米軍に発見されないように、墓に偽装して作られました。現在、道路が高くなっており、路面よりも1mほど下がった所に入り口が有ります。

 内部を窺うと、崩落を防ぐためにアーチ状に天井が作られているのが分かります。こうした壕を作っても、結局住民台帳を始め重要書類のほとんどが焼かれてしまいました。いまだに犠牲となった人々の中に、名前すら判明できていない方々も多くおります。

 


西原の戦跡2 西原町立図書館の九六式一五糎榴弾砲

2011年11月13日 | 博士の研究日記

 平成17年、西原町幸地の壕跡から日本軍の九六式一五糎榴弾砲が発掘されました。町では原型をとどめないほど破壊されたこの榴弾砲を復元し、町立図書館に展示しました。

 榴弾砲の前に置かれた石碑には次のように書かれています。

「この榴弾砲は、去る太平洋戦争の沖縄戦において、日本軍が使用した大砲で、平成16年12月、西原町幸地集落南西部の陣地壕跡から発見された。西原町は、この榴弾砲が原型を留めないほどにすさまじい日・米両軍の銭湯がくりひろげられた激戦地で、当時の住民の役47%の尊い命が犠牲になった。破壊された榴弾砲をこの地に展示することにより、戦争の悲惨さ愚かさを認識するとともに戦争のもたらす恐ろしさ、悲しさを語り継いでいく手がかりとしてほしい。二度とあの忌まわしい戦争を起こしてはならないという近いと、平和の尊さを実感し、さらには平和教育の資料として役立つことを願い、終戦60年の節目にあたりこの榴弾砲を展示する。 平成17年8月15日 西原町」

ところが、この展示が住民たちの物議をかもすことになりました。

 西原町は町(当時は村)全体が戦場となり、戦跡は街の中に残り、また住民の記憶の中にもとどまっています。町を戦場とし多くの犠牲を生んだ日本軍の武器を飾るとは何事か、というわけです。
 大砲が自分を狙っているようで、怖くて図書館に行けない、という住民もいます。
 それに対して図書館の館長は「だったら他の図書館に行けばいい」と発言したものだから問題はこじれた、と当時の沖縄タイムス紙で読みました。

 この問題、現在は落ち着いているようですが、実際に図書館の入り口から見るとこんな感じです。

 戦争を体験した人にとっては悪夢がよみがえる感じなのでしょうね。戦争を知らない私でも、確かにあまり気持ちのいいものではありません。
 図書館はそれぞれの地域の歴史をとどめ、資料を保管し、未来に繋ぐという重要な使命があります。遺物を保存するということは大切なことではありますが、その保存方法が住民に理解されていないという残念な結果になっています。
 また、この榴弾砲は綺麗に復元され、塗料も塗られています。はたしてここまで手をいれていいのかどうかも今後検討されるべき問題であると考えます。

 


西原の戦跡1 内間御殿の鳥居

2011年11月12日 | 博士の研究日記

 読谷と宮古島に続き、西原町の戦跡をご紹介いたします。西原町は那覇市の北、太平洋に面した町で、首里にも近いため日本軍の守備隊が配置され、町(当時は村)全体が戦場と化しました。
 最初にご紹介するのは内間御殿の鳥居です。

 内間御殿(うちまうどぅん)というのは、第二尚氏の祖、金丸(のちの尚円王)が内間地頭に任ぜられたときの住居跡に、尚円王没後190年経ってから建てられた御殿です。
 金丸は1415年沖縄北部にある離島、伊是名島の農民の子として生まれました。ところが干ばつの時、金丸の田だけ水があったことから水泥棒の疑いをかけられ、島を追い出されたのです。一節によると、人徳のある若者だった金丸に、村の娘たちがこっそりと水を分けたために田の水が途切れなかったという話も。きっと人気者で、他の村人から反感を買ったのでしょうねえ。
 そして本島に来てからめきめきと頭角をあらわし、首里の越来王子(のちの尚泰久王)の家臣に召し抱えられるのですな。尚泰久王の跡を継いだ尚徳王と金丸は対立し、若くして尚徳王(享年28才)が亡くなると、家臣から推されて金丸が国王になるのです。まるで、豊臣秀吉みたいな立身出世物語です。こうして尚家の血筋は途絶え、金丸が尚円王として第二尚家を築くのです。

  さて、この御殿の前に鳥居があるのですが、この鳥居、例によって沖縄県民の皇民教育の一環として昭和6年に建てられたものです。神国日本の思想を住民に刷り込むために、この時期あちこちの御獄や拝所にこのような鳥居が建てられたのです。

 この鳥居、近づいてみるとあちこちが削られ、中の鉄筋がむき出しになっています。米軍と日本軍の戦闘にあって、銃弾によってできた傷です。
 戦前の皇民化のために建てられた鳥居ということで、二重の意味で貴重な戦跡といえます。

 内間御殿の中に樹齢480年といわれるサガリバナの大木があります。毎年7月ごろ、白い花房をつけるサガリバナにちなみ、さわふじ祭りが行われます。鳥居の下に露天が並び、エイサーやバンド演奏などが行われ人々で賑わいます。

 この鳥居が再び銃弾を浴びることの無いように願うばかりです。

 


TPPを考えてみた

2011年11月05日 | 博士の研究日記

 環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)、今旬な話題ですねえ。関税が無くなり自由に貿易ができる、ということで、日本がTPPに参加したら、沖縄の経済がどうなってしまうのかちょいと考えてみました。
 琉球はもともと海洋国家、昔からアジア諸国と交易をし栄えてきました。沖縄特産の泡盛はタイ米だし、消費量全国一の昆布だって県内では採れず昔からにほんからの輸入でした。いまでも泊港や那覇港は輸出入で栄えています。
 しかしですよ、TPPって何が自由になるのか言えますか?
 農産物と答えた方は、100点満点中4点ですね。農産物も対象ですが、ほんのごく一部に過ぎません。正直、農産物なんてたかが知れてる分野です。
 PTTをwikiで調べると、

 環太平洋戦略的経済連携協定は、加盟国の間で工業品、農業品を含む全品目の関税を撤廃し、政府調達(国や自治体による公共事業や物品・サービスの購入など)、知的財産権、労働規制、金融、医療サービスなどにおけるすべての非関税障壁を撤廃し自由化する協定。2006年5月にシンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4か国が域外への経済的影響力を向上させることを戦略的な目的として発効し、運用している。環太平洋経済協定、環太平洋連携協定、環太平洋パートナーシップ協定ともいう。

と、あります。
 協議される品目は、24分野あり、
1.主席交渉官協議
2.市場アクセス(工業)
3.市場アクセス(繊維・衣料品)
4.市場アクセス(農業) 
5.原産地規制
6.貿易円滑化
7.SPS(衛生植物検疫措置の適用に関する協定)
8.TBT (貿易の技術的障害に関する協定)
9.貿易救済措置
10.政府調達
11.知的財産権
12.競争政策
13.サービス(クロスボーダー)
14.サービス(電気通信)
15.サービス(一時入国)
16.サービス(金融)
17.サービス(e-commerce)
18.投資
19.環境
20.労働
21.制度的事項
22.紛争解決
23.協力
24.横断的事項特別部会

と、多岐に渡っています。というより、経済活動全部です。
 なぜか、農業分野しか政治家もマスコミも取り上げないのですが、「これ、手つけちゃヤバイでしょ」のオンパレードです。
 たとえば「知的財産権」。今でさえ日本の技術、特許、音楽、映像などだーだーに流れているのに、どうなることやら。
 たとえば「制度的事項」。一番心配されるのが健康保険制度。この制度が無くなれば弱者は確実に切り捨てられます。
 最近の流れを見ていると、売国奴首相が行った郵政民営化を思い出します。世間の目を「郵便」にだけ引きつけ、公社時代には手出しできなかった米のファンド垂涎の的の郵貯340兆円を民営化し、米国にくれてやった狂気の政策です。PTTに関しても「米や野菜が安くなる」「農家はどうする」といったごくごく特定の部分のみしか取り上げず、ほとんどの重要な部分はねぐったままです。
 もともと沖縄経済は競争力も低く、労働賃金も安い中、PTTにより安い「労働」が輸入されたら、沖縄は破綻するでしょうね。怒濤のように難民も入ってくるでしょう。

 TPPは戦後日本が「強み」として築いてきたさまざまな(今では上手く行かなくなってきている面はあるにせよ)制度を根こそぎ取り崩し、裸になった日本の財をアメリカが吸い上げようとするものです。
 米軍基地であれだけ日本から金を巻き上げても足らずに、今度は日本の制度そのものを崩し去り、骨の髄までしゃぶろうとするのがTPPです。
 制度は防波堤です。米国の圧力という津波の侵入を許してしまったら、日本全体が瓦礫の荒野になってしまうのは間違いないことです。

 泊港の風景を見ながら、そんなこと考えてました。

 


天使のはね 梅味が出ました

2011年11月03日 | 博士の研究日記

 沖縄のお菓子として昔から塩せんべいというものがあります。水で溶いた小麦粉を型に流し込み、高圧をかけてポン菓子のように膨らませたせんべいです。その製造工程で型の隙間からはみ出したものを集めたのがこの天使のはね。以前にもブログでご紹介いたしました。→天使のはね
 その天使のはねに梅味が出たのでメインプレイスでさっそく購入。パッケージが間に合わなかったのか、透明な袋にシールが貼ってあります。
 シンプルな塩味も美味しいのですが、梅の香りが広がり、これは美味い!以前は副産物として豚のエサになっていたものが、最近では天使のはねが量産できるように機械を改良しているそうです。