読谷と宮古島に続き、西原町の戦跡をご紹介いたします。西原町は那覇市の北、太平洋に面した町で、首里にも近いため日本軍の守備隊が配置され、町(当時は村)全体が戦場と化しました。
最初にご紹介するのは内間御殿の鳥居です。
内間御殿(うちまうどぅん)というのは、第二尚氏の祖、金丸(のちの尚円王)が内間地頭に任ぜられたときの住居跡に、尚円王没後190年経ってから建てられた御殿です。
金丸は1415年沖縄北部にある離島、伊是名島の農民の子として生まれました。ところが干ばつの時、金丸の田だけ水があったことから水泥棒の疑いをかけられ、島を追い出されたのです。一節によると、人徳のある若者だった金丸に、村の娘たちがこっそりと水を分けたために田の水が途切れなかったという話も。きっと人気者で、他の村人から反感を買ったのでしょうねえ。
そして本島に来てからめきめきと頭角をあらわし、首里の越来王子(のちの尚泰久王)の家臣に召し抱えられるのですな。尚泰久王の跡を継いだ尚徳王と金丸は対立し、若くして尚徳王(享年28才)が亡くなると、家臣から推されて金丸が国王になるのです。まるで、豊臣秀吉みたいな立身出世物語です。こうして尚家の血筋は途絶え、金丸が尚円王として第二尚家を築くのです。
さて、この御殿の前に鳥居があるのですが、この鳥居、例によって沖縄県民の皇民教育の一環として昭和6年に建てられたものです。神国日本の思想を住民に刷り込むために、この時期あちこちの御獄や拝所にこのような鳥居が建てられたのです。
この鳥居、近づいてみるとあちこちが削られ、中の鉄筋がむき出しになっています。米軍と日本軍の戦闘にあって、銃弾によってできた傷です。
戦前の皇民化のために建てられた鳥居ということで、二重の意味で貴重な戦跡といえます。
内間御殿の中に樹齢480年といわれるサガリバナの大木があります。毎年7月ごろ、白い花房をつけるサガリバナにちなみ、さわふじ祭りが行われます。鳥居の下に露天が並び、エイサーやバンド演奏などが行われ人々で賑わいます。
この鳥居が再び銃弾を浴びることの無いように願うばかりです。
私のテンションもサガリっぱな~
博士のゴーヤーも下がりっぱなし~?ww
がははは、
私のゴーヤーは常に上向きだぞ。
この鳥居がどんな目的で建てられたかを
わかりやすく展示するほうがいいかもしれませんね。