沖縄本島北部の羽地内海に運天港があります。ここは天然の良港で、沖縄県のHPによると「琉球王府時代には今帰仁間切所が設置され、北部の行政要所であった。また、17世紀の薩摩軍の琉球進入時に第1歩を踏み入れた港として、その後も薩摩との航路としても利用された。大正期から昭和にかけては、奄美諸島や近隣離島との流通の中心地として畜産物・サトウキビ等を取り扱い、黒糖の本土向け積み出し港として栄えた。戦後、北部製糖が水深5m、1,000㌧級の船舶利用ができる岸壁を建設、本格的な港湾機能が再開し昭和47年5月には沖縄の本土復帰と同時に沖縄県を港湾管理者とする重要港湾として指定された。」とあります。
現在は、伊平屋、伊是名島へ渡るフェリーが就航しています。
この運天港を見下ろす高台に、国定公園の運天港園地があります。

展望台があり、古宇利大橋を眼下に眺める事ができます。コバルトブルーの海が広がる絶景です。

この高台に「源為朝公上陸之址」が建てられています。
源為朝は、1156年の保元の乱にやぶれ、身柄を捉えられ伊豆大島に流されました。しかし、そこから船で大島を脱出したものの、航海の途中に嵐にあい、今帰仁村運天港に漂着したという伝説があります。運を天に任せて漂着したことから、運天の地名がついたということです。
大里按司の妹を妻に迎えた為朝は子供をもうけ、その子供がのちに舜天王になったと言われています。これが琉球の正史「中山世鑑」や「おもろさうし」に著された為朝伝説です。

源為朝公上陸之址と記された石碑です。この石碑の台座に砲弾の跡が残されています。高台にある石碑ということで、艦砲射撃の着弾目標にされた可能性があります。

直径30cm位の弾痕があります。また、石碑の裏側にも砲弾によって削られた跡が認められます。

背後には、「元帥伯爵東郷平八郎書」と記され、大正十一年の年号が書かれています。大正になってからこの石碑が造られたというのは、日本が軍国主義に染まっていく過程において、日琉同祖論をより鮮明にし、琉球人を皇民化していくための道具として使われた感があります。