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管理人のうちなーライフかりゆし日記

管理人てぃんがーらが沖縄の生活を綴ります。

うりずん 濁

2011年12月14日 | 博士の研究日記

 マックスバリューで石川酒造の「うりずん濁(にごり)」を買ってまいりました。(なぜかマックスバリューやジャスコでよく見かけます)
 ♪うり、うり、ずんずん、うり、ずんずん♪のCMでおなじみのうりずんは、CMの通り県内唯一の甕仕込みで造られた島酒。そして、この濁は無濾過で瓶詰めされた、白っぽく濁りがある酒です。
 石川酒造の酒は、どちらかというと新里酒造に似て、フルーティー。古酒よりも若い酒が美味いような気がします。おそらく濁り酒はもともと古酒にするには似合わない酒なのでしょうねえ。
 濁は度数25度。このままロックで楽しみましょう。

 


久々に「残白」

2011年12月12日 | 博士の研究日記

 久々に残波の白を買ってきました。
 読谷の比嘉酒造が「残波」を送り出してから20年経つそうです。当初、あまりに軽く、クセのない爽やかな飲み心地のために、「こんなのは酒じゃない」と泡盛通からは不評でした。「水のような」と表現されるように、泡盛本来の風味が無く、島酒好きには物足りない酒のようです。しかし、その飲みやすさから、若者、特に女性から支持され、泡盛のファンを広げた功績は非常に大きいと思います。
 個人的には酒のバリエーションが広がるのはいいと思いますが、やはり比嘉酒造といえば「まる」がいいですねえ。終売と聞いて、あわてて一升瓶を買い込みましたが、それも2本しか残っていません。

 時々飲みたい衝動にかられるのですが、ここまできたらもうちょっと寝かせて古酒にしようと思っています。

 


本部・今帰仁の戦跡3 運天港の魚雷秘匿壕

2011年12月10日 | 博士の研究日記

 天然の良港である今帰仁村運天港には、1944年8月に、旧海軍蛟龍隊と第27雷艇隊が配備されました。魚雷を秘匿するため、運天港を中心に多くの壕が構築されました。
 今でも港の周辺に軍の構築壕が散在しています。

 運天港の西側、駐車場の並びに民家があり、園となりが空き地になっています。画像に見える青いドラム缶の背後のがけ下に防空壕があります。

 中央に壕が見えますが、これは避難壕です。

 内部は崩落しており、上部にわずかな隙間しかありません。この壕の右側、民家のブロック塀の裏に魚雷秘匿壕があります。

 画像左側のブロック塀と壕口のある崖とは50cmくらいの幅で、人がやっと通れるほどです。トの字型に壕が掘られ2つの壕口が確認できます。

 正面の壕口が魚雷の搬入口、右側が人の入り口であったと思われます。

  魚雷秘匿壕は縦横2mほどの正方形の断面で10mほどの深さに掘られており、補強のための杭を立てた跡が壁に残っています。内部には瓦礫が散乱しています。

 内部から外を見ると民家のブロック塀が視界を塞ぎます。当時は海岸まで見通せました。

 運天港では戦後、魚雷の解体中に暴発が起こるという事故も発生しています。

 


本部・今帰仁の戦跡2 上運天ウンシマヌ拝所

2011年12月08日 | 博士の研究日記

 源為朝が流れ着いたという運天港。その南側の集落の高台に「ウンシマヌ拝所」があります。この拝所に昭和15年に造られた祠があります。

 コンクリートで造られた小さな祠です。住民には「お宮」と呼ばれて親しまれている拝所です。

 脇に「神殿改築紀年碑」という石碑が立てられています。グスクや御獄に代表される拝所と神道を結びつけ、皇民化政策のためにこうした神殿や鳥居などが多く造られました。

 石碑の裏面には皇紀二千六百年の年号が刻まれています。

 さて、この祠に弾痕が残されています。西側を除く三面に銃弾の痕があります。
 この地で米軍との戦闘があったという記録は無く、どのような経緯で銃が撃ち込まれたのかは不明です。

 祠の軒下に集中していますが、壁面の弾痕はモルタルで埋められています。

 周囲の欄干にも弾痕が有りました。
 ところで、この桜のマーク、日本軍の匂いを感じてしまいます。

 


本部・今帰仁の戦跡1 源為朝公上陸之址

2011年12月07日 | 博士の研究日記

 沖縄本島北部の羽地内海に運天港があります。ここは天然の良港で、沖縄県のHPによると「琉球王府時代には今帰仁間切所が設置され、北部の行政要所であった。また、17世紀の薩摩軍の琉球進入時に第1歩を踏み入れた港として、その後も薩摩との航路としても利用された。大正期から昭和にかけては、奄美諸島や近隣離島との流通の中心地として畜産物・サトウキビ等を取り扱い、黒糖の本土向け積み出し港として栄えた。戦後、北部製糖が水深5m、1,000㌧級の船舶利用ができる岸壁を建設、本格的な港湾機能が再開し昭和47年5月には沖縄の本土復帰と同時に沖縄県を港湾管理者とする重要港湾として指定された。」とあります。
 現在は、伊平屋、伊是名島へ渡るフェリーが就航しています。
 この運天港を見下ろす高台に、国定公園の運天港園地があります。

 展望台があり、古宇利大橋を眼下に眺める事ができます。コバルトブルーの海が広がる絶景です。

 この高台に「源為朝公上陸之址」が建てられています。
 源為朝は、1156年の保元の乱にやぶれ、身柄を捉えられ伊豆大島に流されました。しかし、そこから船で大島を脱出したものの、航海の途中に嵐にあい、今帰仁村運天港に漂着したという伝説があります。運を天に任せて漂着したことから、運天の地名がついたということです。
 大里按司の妹を妻に迎えた為朝は子供をもうけ、その子供がのちに舜天王になったと言われています。これが琉球の正史「中山世鑑」や「おもろさうし」に著された為朝伝説です。

 源為朝公上陸之址と記された石碑です。この石碑の台座に砲弾の跡が残されています。高台にある石碑ということで、艦砲射撃の着弾目標にされた可能性があります。

 直径30cm位の弾痕があります。また、石碑の裏側にも砲弾によって削られた跡が認められます。

 背後には、「元帥伯爵東郷平八郎書」と記され、大正十一年の年号が書かれています。大正になってからこの石碑が造られたというのは、日本が軍国主義に染まっていく過程において、日琉同祖論をより鮮明にし、琉球人を皇民化していくための道具として使われた感があります。
 

 


石垣島の戦跡5 宮良の特攻艇秘匿壕跡その2

2011年12月05日 | 博士の研究日記

 前回ご紹介した宮良の特攻艇秘匿壕跡よりも海よりの集落の背後にも特攻艇秘匿壕が残されています。

 海岸のすぐ近く、アパートの背後に藪があり、道路から10mほど入ると壕口が見えてきます。

 草木が生い茂り、道を切り開きながら近づきます。
 この壕も第38震洋特別攻撃隊旅井隊の特攻艇秘匿壕であると考えられます。

 壕の内部は大変に綺麗な状態であり、土砂の流入や崩落も無く、ゴミなどの廃棄物もありません。突き当たりまで約15mほど進むと、壕は左側に分岐します。

 その左側の壕を進むと出口が見えてきます。つまりV字型に掘られています。高さは2m位で楽に立って歩けます。

 アパートの先はすぐ海です。海岸から海に向かって石が直線に並べられています。これは特攻艇を係留した桟橋の跡であるという事です。

 これで石垣島の戦跡を一旦終了します。次回、本島の戦跡を北部からご紹介します。

 


石垣島の戦跡4 元海底電線陸揚室

2011年12月04日 | 博士の研究日記

 大崎付近のビーチ。白い砂浜と珊瑚礁のコバルトブルーがとても綺麗な海岸です。このあたりはあまり観光客も無く、ひっそりとしています。

 その砂浜の背後に石垣に囲まれた石造りの小屋が残されています。地元ではデンシンヤー(電信小屋)と言われる海底電線陸揚室です。

 これは明治30年に造られた海底ケーブルの陸揚施設です。はるか内地から本島を経て、石垣そしてかつて日本の領土だった台湾を結ぶ通信施設でした。
 沖縄戦では重要な軍の施設と見なされ、連合軍からの猛攻撃を受けました。

 レンガ造りの上からセメントで固めた小屋ですが、全体に砲撃を受けた痕が生々しく残っています。

 四方から攻撃を受けたようです。

 内部は天井が黒く焦げており、火災が起きたものと思われます。それにしてもすさまじい攻撃を受けたことが分かります。

 このデンシンヤーは石垣市の史跡に認定されており、現状の保存がなされています。
 ちょっと看板の説明が読みにくいので、以下に転記します。

元海底電線陸揚室
 俗にデンシンヤー(電信屋)と呼ばれているこの元海底電線陸揚室は、1897(明治30)年に建てられたもので、沖縄本島や日本本土、台湾間の通信に利用された海底線の中継地として約半世紀にわたり、その役割を果たしてきた所である。
 1895(明治28)年の日清戦争終結後、日本はその領有するところとなった台湾との間に軍用海底線を敷設する必要が生じたことから、1896(明治29)年、まず鹿児島と沖縄本島の間に、ついで翌97(明治30)年、石垣島を経て台湾との間に海底線を敷いた。これによって、本土-沖縄本島-石垣島-台湾間の通信施設が完成したのである。 なおこの年、石垣・西表間にも海底線が敷設された。
 開通したこの海底電信線は、当初陸軍省が管理していたが、のち逓信省に移管され、一般公衆用通信にも使用された。
明治30年のことである。この年、石垣島では大川12番地に八重山通信所が設置され、一般公衆電報取扱いが開始されている。なお、太平洋戦争の際には連合軍の攻撃目標となった。無数の弾痕がこれを示している。
 なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁止されています。
昭和62年10月 石垣市教育委員会


石垣島の戦跡3 石垣島地方気象台

2011年12月03日 | 博士の研究日記

 石垣島の戦跡シリーズの第3弾は、石垣の市街地にある戦跡です。

 台風銀座と言われる南西諸島。その気象観測の要である石垣島地方気象台は、米軍からも軍事上重要な拠点として攻撃を受けました。

 気象台の南側に残るコンクリート製の石塀、1928年(昭和3年)に造られたものですが、現在約80mが残されています。その塀には多くの銃弾の跡が現存します。

 大きいものだと直径30cm位あります。上部が欠けた部分もあります。

 塀の内側にコンクリート造りの小屋があります。エンジン小屋と呼ばれているこの建造物も当時のもので、壁に被弾した跡が残されています。

 これらの弾痕は、艦砲射撃によるロケット弾の痕だと思われます。

 さて、この石垣島地方気象台ですが建物自体の老朽化のため建て替えられるということです。画像を撮ったのはしばらく前で、ここ何年かは石垣島を訪ねていません。もしかしたら、石塀も撤去されてしまっているかもしれません。
 こうした戦争遺跡は物言わぬ証人です。適切な保存が求められます。

 


女性を犯す前に、犯しますよと言いますか

2011年12月01日 | 博士の研究日記

 さあ、いよいよ12月に入りましたなあ。2011年もあと1カ月です。年賀状どーしましょ、大掃除もしなきゃ、と慌ただしい中、またまたお馬鹿さんがお粗末な発言をしましたねえ。

 沖縄タイムス紙によると、「田中聡沖縄防衛局長(50)が、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設計画に向けた環境影響評価(アセスメント)の評価書提出時期を政府が明言していないことをめぐり、女性や沖縄を侮辱する不適切な発言をしていたことが29日、関係者への取材で分かった。一川保夫防衛相は田中氏を東京に呼び直接事情聴取した上で、更迭処分を発表した。沖縄側は発言に強く反発しており、政府の普天間対応に影響を与えるのは必至。野田政権に大きな打撃となった。 田中氏は28日夜の記者団との酒席で評価書の提出時期について問われ「犯す前に、犯しますよと言いますか」と女性への乱暴に例えて応じた。 沖縄県の仲井真弘多知事は発言について記者団に「コメントしたくない。口が汚れるから」と強い不快感を表明した。」ということです。

沖縄タイムスの号外はこちら

 過去を見ても、要人の不用意な発言で、基地問題はこじれにこじれています。ある程度の立場にある人は、自分の言葉の重さについて認識しなければなりません。
 一般の会社でも、平社員が「うちの会社はもうおしまいだ」と言うのと、社長が記者を前に「うちの会社はもうおしまいだ」」と言うのと、事の重要性が全然違います。
 しかも、女性を犯すことに例えるとは、もう感性を疑いますね。この御方、今までそういうことしてきたのでしょうか?

 


石垣島の戦跡2 宮良の特攻艇秘匿壕跡

2011年11月30日 | 博士の研究日記

 石垣空港から県道390号線を東に進むと、マングローブ林のある宮良川を渡ります。その少し先の左側に畑があり、畑の突き当たりに壕口が開いています。

 この壕は小浜島から石垣島に転進してきた、第38震洋特別攻撃隊旅井隊の特攻艇秘匿壕です。

 内部はだいぶ土砂が流れ込み、入口付近は半分ほどの高さまで埋もれています。四角い形で掘り込まれ、落盤を防ぐための坑杭の跡がわずかに確認できます。

 内部から外を見ます。畑の先の資材置き場が見えますが、かつては海岸まで見通せる下り坂でした。この坂を利用し、特攻艇を人力で海まで下ろす計画だったようです。
 ただ、宮古島や本島の秘匿壕でもそうでしたが、出撃することなく終わったようです。