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管理人のうちなーライフかりゆし日記

管理人てぃんがーらが沖縄の生活を綴ります。

読谷の戦跡 その12 米軍上陸の地碑

2011年10月30日 | 博士の研究日記

 戦跡を訪ねるシリーズ、読谷村の戦跡の最後として、読谷村渡具知にある米軍上陸の地の碑をご紹介します。
 比謝川の河口、渡具知城につながる小高い丘の上に「勿為沖縄戦場」の碑があります。

 アメリカ軍は日本本土攻略の足掛かりとするため、沖縄上陸作戦をアイスバーグ作戦と名付け、周到な準備のもとに太平洋軍のほぼ全兵力を集結させ、この小さな島に投入しました。
 その兵力、戦闘部隊と補給部隊あわせて550,000人。大量の航空機、戦艦、戦車、火器が投入されました。
 1945年4月1日午前5時30分、1,300隻の艦隊を率いるターナー海軍中将は読谷村渡具知から嘉手納、北谷にかけての本島西海岸に向けて一斉に艦砲射撃を仕掛け、それに続き、米第十軍バックナー陸軍中将の率いる海兵隊は水陸両用戦車、上陸用舟艇で60,000名が無血上陸を果たし、1日にして橋頭堡を築いたのです。
 従軍記者のアーニー・パイルは、あまりにあっけなく上陸を果たせたので、エイプリルフールではないのか、と本国に打電しました。

 渡具知から嘉手納方向を望みます。この海岸が米軍の艦隊、上陸用舟艇で一面埋めつくされました。これを迎え撃つ牛島中将率いる沖縄守備隊は総勢で約110,000人。主力部隊は中国戦線から移動してきた精鋭部隊といわれた第三十二軍ではありましたが、米軍沖縄上陸に先立つ1945年1月にフィリピンが陥落し、色をなした大本営は次の標的と思われた台湾に沖縄守備隊の最新鋭だった第九師団を転出させ、実際のところ沖縄の防衛力は大幅に弱体化していたのです。
 さらに守備軍の三分の一は軍事訓練もされてない防衛隊と称する現地沖縄で集められた補充兵や学徒隊であったこと、物資の補給路を絶たれ物資や火器銃弾も欠乏していたことなどから、どう考えても戦闘にはならないほどの戦力差があったのです。
 その結果、沖縄戦は米軍を引き込んで持久戦にに持ち込み、本土決戦までの時間を稼ぐという捨て石作戦にならざるを得なかったのです。

 戦後50周年を記念して造られた石碑には、平和への近いが刻まれています。我々はこの願いを次の世代に伝えていかねばなりません。

 ところで余談ですが、米軍は上陸すると直ちに補給基地として軍事物資の集結倉庫、兵舎、ガソリン貯油タンクを作ります。そして次ぎに作るのが米兵にとって欠かせない物なのですが、それは一体なんだと思いますか?

 答えは郵便局と教会です。戦争の最中でも敵地に作るのですね。米軍の余裕を感じます。
 


 


ふつうの上等

2011年10月29日 | 博士の研究日記

 久しぶりにヘリオスの轟を飲んでいます。ヘリオス酒造は名護にある酒造メーカーで、県内で唯一5種類の酒造免許(泡盛、リキュール、ウィスキー、スピリッツ、地ビール)を持つ総合メーカーです。ヘリオスの泡盛といえば「くら」が有名です。泡盛を樫樽に入れて寝かしたもので、琥珀色の酒はブランデーと間違えるほどフルーティに仕上がっています。
 さて、もともと轟は名護酒造が造っていた酒ですが、名護酒造がなくなり、その後ヘリオス酒造が復活させたブランドです。
 轟のキャッチフレーズは「ふつうの上等」。一日車に乗っているとカーラジオから、この「ふつうの上等」というCMのフレーズを何回か聞くことになります。
 上等という言葉、標準語と意味は同じなのですが使い方が少々異なります。と、いうより日常会話で非常に頻繁に使います。
 友人がおしゃれな服を来てきたら、ヤマトでは「その服、上等ですね。鞄も上等です」とはあまり言わないと思います。しかしながら沖縄では「あい、この服上等さあ。バックも上等さねえ」と、ごくごく普通に言っています。あまり「上等、上等」と言われると、本当に上等なのかな、と思ってしまいますが、とにかく相手をほめておく常套句なのですね。(別にシャレたわけではないのですが)
 


読谷村の戦跡めぐり

2011年10月23日 | 博士の研究日記

 先日、座喜味城跡を訪ねた際、入り口にある読谷村歴史民俗資料館に寄って、以前にグニさんが教えてくれた「読谷村の戦跡めぐり」をゲットしてきました。

 この本、2003年3月に初版が出されています。115ページにわたり読谷村の33ヶ所の戦争遺跡を細部にわたり解説しています。
 付録として新聞紙大のマップも付いており、戦跡の解説書としても、ガイドブックとしても非常にクオリティが高く仕上がっています。資料館の受付で500円で購入できました。
 思うに、この本にもっと早く巡り逢えていれば戦跡探訪ももっと効率よくできたことでしょう。
 当然、戦争遺跡は読谷だけでなく、離島を含め県内各地に残っています。しかし戦争遺跡というものに対し、このような書籍を編集・発行している自治体は読谷村ぐらいだと思います。もしかしたら単に私が知らないだけなのかも知れませんが、他の市町村でもこんな資料があるという方、ぜひ教えてください。
 ただ、戦跡探訪は地図も無い中、地元の人に尋ねながら一日かけて捜し当てるというところにも醍醐味があります。こうした資料は後から確認するという使い方が私にはいいのかも知れません。

 


読谷の戦跡 その11 座喜味城高射砲陣地跡

2011年10月22日 | 博士の研究日記

 世界遺産である座喜味城跡。15世紀初頭に護佐丸が築いた二連郭式の城砦です。中山の尚巴志が北山を攻略するにあたり、参戦した護佐丸が居城としました。
 本丸である一の郭には建築物の遺構が残っています。瓦が出土されていないことから、板葺き、または茅葺きの建物であったと思われます。一の郭の城壁の上に立つと、首里や慶良間まで見通すことができます。

 この高台を利用し、沖縄戦において独立高射砲第二十七大隊第三中隊が駐屯し、高射砲陣地が構築されました。
 しかし、実際の米軍の攻撃は低空から行われ、打ち上げ角度の高い高射砲で対戦することができなかったということです。

 読谷村の村史のHPに高射砲陣地の解説があります。

 


読谷の戦跡 その10 カンジャーヤーガマ

2011年10月19日 | 博士の研究日記

 長浜の集落の中、家々に囲まれた一角にあるガマがカンジャーヤー(鍛冶屋)ガマです。道の突き当たりに壕口があります。以前にブログでご紹介したウフガマと並んで古来よりこのガマは長浜の住民たちの集会場所として使われてきました。
 戦時中は住民が避難しましたが、米軍の投降の呼びかけに応じず、ガス弾が打ち込まれ、亡くなった方もいたということです。

 内部は左右に広く、向かって右側には外と繋がる裂け目があります。天井が妙に黒くなっている部分があるのですが、火炎放射器で焼かれた跡なのでしょうか。
 ガマの中は現在は物置と化しているようです。

 内部から外を見ます。建ち並んだ家々が見えますが、当時はきっと海まで見通せたものと思います。内部の保存状態もよく、後世に残したい戦跡です。

 


読谷の戦跡 その9 ティラの壕

2011年10月18日 | 博士の研究日記

 去った連休に、まだ取材していない戦跡を訪ね、読谷方面をドライブしてまいりました。今回ご紹介するのは、以前ブログで紹介したトーチカが残る都屋漁港のすぐ上の高台にあるティラの壕です。
 都屋の住宅地の真ん中に、整備された芝生があり、大きなドリーネが垂直に口を開けています。
 言い伝えによりますと、三山時代、中山と北山との争いの際、落ち延びた北山の按司(地方豪族)が隠れたガマであるとのことです。
 戦時中は住民たちの避難洞窟となり、米軍の艦砲射撃から住民を守りました。

 65年の歳月の間に、ドリーネの底に生えたモクマオウが枝を伸ばし、穴を越えて繁っています。洞窟はこの縦穴から左右に数十メートル伸びており、多くの住民が避難しました。

 この敷地の片隅に都谷出身の戦没者55名の慰霊碑が建立されています。
 またこのガマは都屋の拝所となっており、旧暦9月18日には「ティラ拝み」が執り行われるとのことです。

 


デポ・アイランド

2011年10月17日 | 博士の研究日記

 北谷のサンセットビーチ脇にあった沖縄国民年金健康センター跡地に建設されたファッション&エンターテイメントシティー北谷、デポアイランドに行ってきました。

 アメリカンビレッジにつながる商業施設で、おしゃれなカフェや土産物屋、衣料品店などが入っています。

 現在もテナント募集中のようです。デポアイランドのHPはこちら

 店内も古い町並みのようです。

 ハロウィンのディスプレイもあちこちで見かけました。

 


幻の琉球菓子「千寿こう」

2011年10月16日 | 博士の研究日記

 池上永一氏の小説テンペストの中で、真鶴の親友であり国王の側室として登場する真美那が、たびたび作るお菓子である千寿こう。
 琉球王国が消滅し、戦争を経る中で、レシピも失われ、幻の琉球菓子と言われていた千寿糕を、ちんすこうでおなじみの新垣菓子店が再現したものです。
 赤・緑・黄色のカラフルな焼き菓子で、あちこうこうのさんぴん茶に良く合います。
 商品のしおりには、
「琉球時代からの口伝のレシピを元に、形や味、さらには歯ごたえまで再現した菓子です。小麦粉・ラードで作ったパイ生地に包まれたゴマとピーナッツを混ぜて作った餡にはふわっと香る桔餅(きっぱん・・・柑橘類の皮を砂糖で煮詰めたもの)をアクセントとして混ぜ混んでいます」
と書かれています。
 新垣菓子店のブログによると、もともと法事用に珍重されたお菓子で、蓮の花をイメージしているとか。
 その用法も特徴があり、一回忌、三回忌では色が薄く、七回忌でほんのりと色を付け、三十三回忌で華やかな色になるそうです。
 日本と中国の狭間に有り、独特の文化を育んできた琉球。その文化に触れることのできるお菓子です。


宮古島の戦跡9 元陸軍海上挺進第四戦隊駐屯地跡

2011年10月15日 | 博士の研究日記

 平良港の北側にある荷川取漁港の東側の谷から海岸線に沿って、特攻艇の秘匿壕の跡が点在します。
 戦時中、ここには旧日本陸軍船舶隊および陸軍海上挺進第四大隊が配備され、マルレ型特攻艇47隻を秘匿していました。

 平良港から荷川取方向に進むと、右手に「喫茶ぶながや」があります。お店と駐車場の間の道を入ります。

 この小道は荷川取の公園まで続きますが、もとは荷川取川が流れていました。
 しばらく進むと右手に石碑があります。

「元陸軍海上挺進第四戦隊 駐屯地跡」と彫られています。その石碑の背後に斜めに掘られた洞窟があります。

 これが特攻艇「マルレ」の秘匿壕跡です。マルレというのは秘匿呼称で、〇の中にレと、一文字で記されていました。レは連絡艇のレで、計画当初は沿岸の海上防衛を海軍に頼るのでなく、陸軍が自ら行うという思想で、米艦隊に対し側背に回り込み機雷による後方攪乱を行うというものでした。
 機雷は船尾に吊るされ、投下後直ちに反転し離脱するという作戦でしたが、戦局が悪化すると、体当たりで攻撃した方が戦果が上がるということで、特攻作戦に切り換えられました。

 宮古島の戦跡にしては、いや沖縄全体としても珍しく、立派な案内板が設置されていました。
 文章を転記します。

 元陸軍海上挺進基地第四大隊基地壕および第四戦隊特攻艇秘匿壕の大略

 この地図に朱色で示す数多くの壕は、陸軍海上挺身隊(通称・水上特攻艇)の宮古島配備に伴い、第四戦隊(金子少佐率いる隊員63名、舟艇47隻)が昭和20年1月に上陸し、下崎地区、荷川取地区の海岸に西江大尉率いる海上挺進基地第四大隊と伴に、基地壕や特攻艇秘匿壕を構築し駐屯していた。
 この第四戦隊は、長さ約6m、幅約2mの木製一人乗りモーターボートに240kgの爆雷を装着し、敵艦隊に体当たり攻撃を任務とした17~18歳の少年を隊員として構成された部隊であった。基地第四大隊は、第四戦隊の秘匿壕構築や後方支援を任務としていたようである。
 昭和20年8月まで島の守備に従事していたが、出撃することなく終戦を迎えた。しかし、復員するまでの間には、空襲やマラリア、栄養失調などにより約63名(正確な数字は不明)の尊い命が失われたという。
 平良市には、この地区のほかに久松のトゥリバー地区、大浜地区一帯に陸軍海上挺進基地第三〇大隊が構築した秘匿壕や狩俣の西海岸八光湾近くに海軍第三一三設営隊が構築し、震洋型特攻艇八木部隊が駐屯していた秘匿壕が存在する。久松の2地区の秘匿壕については、戦況により特攻艇が配備されないまま放棄された。
 戦後、一部の秘匿壕が諸事情により失われたが、多くの秘匿壕が54年経った今も残されている。

平成12年3月設置  平良市教育委員会

 特攻艇〇レ。ベニヤ製のモーターボートで、最初の頃は戦果を上げましたが、米軍の警備も厳しくなり、敵艦に接近する前に沈められてしまったということです。

 


宮古島の戦跡8 大浜特攻艇秘匿壕跡

2011年10月12日 | 博士の研究日記

 現在埋め立て整備が続く宮古島コースタルリゾート・トゥリバー地区。毎年ロックフェスティバルが開催されています。
 今後ホテルやコテージ、マリーナなどが造られる予定です。

 トゥリバー地区に隣接する大浜地区に、特攻艇秘匿壕が多数現存しています。

 大浜地区では、トゥリバー地区に連絡する道路の拡張工事などが行われています。その道路脇に壕が口を開けています。

 多くの壕は保存状態も良く、天井の崩落防止のために立てた柱の跡や、特攻艇を運ぶためのレールを敷設した跡などがはっきりと確認できます。

 壕の中から外を見るとトゥルバー地区が見えますが、当時はすぐ前が海でした。
 この壕から特攻艇が出撃することは無かったようですが、当時の特攻隊員は17~8才の若者が多かったといいます。
 これらの壕も道路拡張のため取り壊されています。保存状態が良いだけに管理・整備が望まれます。