
さて昨日の投稿
写真ゴコロとは何か!?(クラシックイタチの写真論1)
コレクション/2012-04-14 のつづき。
前回も登場したResearchmapつながるコンテンツのインタビューだが、
このインタビューのお話の途中で、水谷氏がよく何かについて「憶えている」、
たとえば「○○の頃、○○というものがあったのを憶えています」
というふうに語るのを、何度か聞いた。
なんでかなあ、とずっと思っていたんだけれども、
今回の考察で、このことが少し解明されたのでは、という気がする。
さて。
ある対象が何かに見えたり、何かを思ったりすることが、
撮影の第一歩であり、非常に重要な点なんですということを、
前回述べた。。

そのように思って撮影すると、そのことが必ず写真に現れる。
そう見えたんですとか、そういう形にとか書いたわけではないし、
何かわざとそうしなくても、そのように思ったことは写る。
これは間違いない。
とすると、じゃあどんなものに見えるのかというと
前回は「サルの顔に見える」「パンジー」というのを挙げたのですが、
より幅広く当てはまる例としては、
ミレーの絵とか、ダ・ヴィンチの絵みたいに、といったらどうだろうか。
ここには写真に定石の区分
「ポートレート」と「ランドスケープ」もあるわけだが、
そのいずれにしても見たことがあるという感覚、すなわち
──ミレーみたいな農村風景、モナリザのような微笑み──
を、自分は今、目前にしているから、写真を撮りたい!
というわけである。
そうそう、前回はつい「脳科学」などと言ってしまったが(!)
言い換えると「なぜ人は写真を撮るのか?」ということになる。
(人がシャッターを押す「ふんぎり」をつける要件といいますか。)
写真の側から言えば「なぜ写真は撮られるのか?」となり、
この問いが、どうしたことか、最近しごく気になるのであります。
(これは「写真」のところを別のものに置き換えることがいろいろと可能です)

写真は「自然をうつしとる」ことを絵画に真似ていた、
というふうに写真史は説明する(のが一般的なんじゃないかな)。
けれども、写真の手本は自然ではなく、もっと直接に絵画なんだと思う。
風景にシャッターを押すのは、自然を複写しようとしてではなく、
それを描いた絵画(の記憶)を複写しようとしているのだ。
ということはつまり、写真(家)のリソースは記憶なのではないだろうか。
出会ったときに何かを想起できること、言い換えると
今見えているものと重なる「別のイメージ」を抱いて出会うこと、
それが(よい写真となる)撮影の要件ということになるのである。

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