桜の季節、唐突に始まった写真論だが、やはり唐突に今回で終了。
しかし今回考えてきたことを踏まえて、
改めて
水谷氏のブログを眺めてみると、
なんと、記憶と出会いに充ち満ちていることでしょう!
ただ今回もうひとつよく理解できたことがあって、
それは私はあんまり「ポートレート」を撮ったことがなく、
人という被写体に弱いということだった。(反省。あ、またサルだ)
さらに言えば基本的には「マクロ」が好きだし、
(クローズアップが撮れないカメラは買わない)
かと思えば「フィッシュアイ」が好きなくらいだし、
(
lomoのフィッシュアイを即買い!)
「ポートレート」と「ランドスケープ」という
オーソドックスな、写真の王道(絵画の王道)的なジャンルは
いずれもたいして撮影したことがないのだ。
「対象に対して気持ちを持つ」といったときに
「何かに見える」というふうにすぐ置き換えてしまうのは、ここに由来する。
ということは、私が興味があるのは、ほんとうのことを言うと、
「目」や「ココロ」ではないんだろうと思う。
「レンズ」という機能を実証するような写真、
レンズという装置が存在したことを証すような写真なんだろう。
もっと言うと、私が撮りたいのは「私の偏見」そのものというか、
人が考えるすべての考えは、時代の影響を受け、いろんな影響下にあり、
つまり「存在拘束性」のもとにある。
私の考えが間違っていることもあるし、記憶が間違っていることもあるし、
なんかちょっとした「下ゴコロ」を持っているときだってないとは言えない。
つまり、いろんな「色めがね」がかかっているんだということを、
レンズを通して、あからさまにしたいのだ。
その「歪み」をレンズが肩代わりしてくれるように思うのだ。
さらに言うと、これはかなり写真=複写を逸脱していて、
もはや捏造=
フィクションではないか?
というのも、思うに
フィクションとは必ずこの位置にある。すなわち
誰でもリソースとしては現実から出発しなければならないが、
故意であれ偶然であれ、それが現実とずれてしまったとき(イデオロギー)に、
そのことを証して、そっと置いてくるのではなく、
そこからもうひとつtransportなりtransformして
別のworldへ行こうとするものだ(ユートピア)。
写真の第一の機能は、言うまでもなく「そっと置いてくる」ほうだが
写真をいろいろ見回してみると、ユートピア系ものもあるように思う。
たとえば↓
 | 桜 |
蜷川 実花 |
河出書房新社 |
ま、そのように考えると、私はやたらと
(ある意味正統的な)「modern」にこだわるヤツよのう~
という気もする。。
というわけでこのたびはどうしたことが、
ずいぶん自分について語ってしまいました。。。
けれども、前半は「桜」とか撮るときに使えると思いますのでね、
ぜひぜひ試してみてください。
すばらしい写真家から学んだことをひろくお伝えしたいというのが
そもそもの投稿の動機であります。
一方、なぜ私が写真について考えるのかといえば、
私はもともと文章を書くのが仕事ながら、「文章において」考えると
リカージョン(再帰)を起こしてしまって健康に悪いので(なんのこっちゃ!)
「別の表現(たとえば写真とか音楽とか)において」考えると
きれいに整理できることがあるのです。
というわけで、写真についてもっと考えたい方は、
水谷さんも参加されている、たとえば↓
というわけで、またもしポートレートなんぞに開眼したら
(そうそう、いま仕事場で「心眼」が流行っている!?のだった)
またリポートいたしますね。
ではでは。
※関連記事はこちら↓
[ クラシックイタチの写真論 2012 関連記事目次 ]