妻はアルツハイマー型認知症だった 介護終了・・・介護者のゆくえ

妻は入居中の特養で平成28年6月4日最重度の段階で永眠しました
妻の遺言を一生忘れないで生きていくつもりです(秘密)

1945年8月15日この日は記憶にあります

2019-08-15 19:06:26 | 日記

 当時は、横須賀から母の実家のある湯河原に疎開してました。

その日は、私は6歳で一人でセミ取りをしていた。

入れ物は思い出せないが、網は使わず素手で捕まえていた。

 

 近くに親せきの家があり、捕ったセミをもって寄ってみると母を交えて大人たちが身動きもせずラジオに聞き入っていた。

この光景は鮮明に脳裏に焼き付いています。

 

 この時,日本は戦争に負けたのだと聞かされた。

私はこの時、戦争が終わって良かったという思いはなかったと思う。

湯河原でも防空壕を掘り空襲警報が鳴ると防空頭巾をかぶり、焼いたコメをもって防空壕へ避難した。

B29は見たことはなかったがグラマンが現れてトンネルから出てきた汽車を機銃掃射したのを何回も見たし、

空中戦も見ました。

 

 機銃の薬きょうを拾ったりした。

 

 広島の原爆投下の新聞記事も記憶にあります。

新聞の配達はあったのです。

何新聞だかは分からないが紙質の悪いわら半紙でA4判くらいで1枚だけだったと思う。

爆弾投下の被災写真が載っていた。

母が新型爆弾が広島に落ちた記事だと教えてくれた。

 

 私の6歳の記憶ですが、終戦までは食糧事情は極端に不足はなかったと思う、終戦から少したってから

急激に食糧不足になったと思う。

米は年に数回しか口にしなかったし、肉類はほとんど食べた記憶がない。

魚類はなんとか、大半がうまくないサツマイモとか家畜のえさにするカボチャだった。

今現在でも世界では、当時の私たちと同じような食糧事情で苦しんでいる人々がいることに心が痛みます。