南海泡沫の後で

貨幣収集を時代背景とともに記述してゆきます。

1000円銀貨・東京オリンピック記念

2013年10月13日 07時29分08秒 | 投資
つい最近、2020年のオリンピック開催地が東京に決定されたことについての報道が繰り返しされていた。


特に興味はない。



以前書いたように昭和40年代にコインブームの主役ともなった1964年開催の東京オリンピック記念1000円銀貨である。
昭和で言えば36年。太平洋戦争の後16年経過してのオリンピックとそれを記念しての貨幣である。

当時の造幣技術を結集して作られたと思われる、また、戦後昭和の日本のモノづくりの真摯さが良く表されているコインだ。
このコインは日本的な真面目さ、真摯さ、そして凛とした美を持っている、傑作と言えよう。

特に富士と桜の絵柄の表面は迫力があり、そんじょそこらのコインを寄せ付けない。厚み、重厚感もあり
やはり眺めていると満足度がある。(Φ35、20.00g、銀92.5%、銅7.5%)
造幣局による絵は精緻で絢爛さも併せ持っているが、簡潔さも持ち合わせておりくどくない。

発行当時、各家庭に1枚を目標に生産されたという。
これの子分役のオリンピック記念100円貨は国民全員に1枚づつを目標に発行された。
実際にその建前通りに各家庭に1枚づつ入手されたかどうかは想像に任せる他はないが、発行直後より引き換えに長者の列ができるなど
人気となり、即プレミアムがつく値段で売買されるようになった。また、このコインがきっかけともなりコインブームが起きる。
この後コインは徐々に値を上げ、高騰するようになり、昭和48年にブームが最高潮に達した後、終焉したことは以前書いた。

当時は当然このコインも人気絶頂だった。
発売当時はオリンピックへの期待感と、記念に所持しておきたいという興奮から人々は列をなしたのだろうが、
その後なぜか引っ張りだことなり、コインブームを惹起させることともなる。
昭和の30年代、続く40年代当時を考えると、今ほど大人の趣味娯楽というのも多様化していないから、
コイン収集という趣味も人気が多く集中していたのであろうと思われる。切手もしかりであろう。

しかし昭和40年代後半になると趣味の対象のみならず投機対象となっていったような有様だ。
結局ブームは一過性で終わるものの、しかしこの時の白熱ぶり、人口集中の様子は、戦後の昭和の時代の熱気が感じられる。
背景には戦後、経済成長を続ける国内の、社会が発展し生活が良くなることへの期待感、豊かになることへの
喜びがあるのだ。

ネットの記事によるとバブル期にはこの1000円銀貨は2万5千円を付けたこともあったという。
昭和のコインブームは40年代の終焉の後、バブル期にもうひと花咲いたようだ。
しかしその後の凋落についてはまた繰り返し述べるまでもなかろう。



私が小学5年の時に、母方の祖母が死去した。

そのとき遺品の中に数枚の貨幣があり、その中にオリンピック1000円銀貨があった。
それは額面のあるほうがやや黒ずんでおり、とっくに発売当時の艶はなくなっていた。
その頃実に細々とコインを集めていた私はそれをもらいうけ、ためつすがめつ眺めたものだが、
何分に子供であったこともあり、そのやや煤けた感じに好印象を持ちはしなかったが、なにしろ当時、月々の小遣いが500円だった
から、プラモデルやその他に使う分もあり、事実上買えるコインもほとんどないに等しく、一応コインアルバムに
フォルダーに入れてコレクションとしていた。その中身は例の1ドル貨、インドのスカラップの10パイサアルミ貨、
同じく祖母の遺品の戦時中の貧相なアルミ貨などであった。

どういう過程で祖母が1000円銀貨を持っていたのか不明であるが、発売当時にこのコインを買いに
祖母が長者の列に並んだとは思えない。祖母は普通の昭和の老人であって、昔の多くの人々のように、特段趣味らしい物もなかったように思う。
オリンピック銀貨が発売された時に記念銀貨欲しさに列に並んだ人々の動機は、新し物好き、投資目的、収集目的、雷同的に、
などそれぞれあるだろうが、祖母はそのどれにも当てはまらないような人であった。


祖母は満州からの引揚者であった。
祖母と祖父の夫婦は、地元から満州へ渡り雑貨店を営み、母の兄弟を生み育てていた。
満州といってもソ満国境などと言った辺境ではなく大連にいて食料などを売買していたという。
辺境地帯に行っていたら生還できていなかったかもしれないが、商売には物資の流通が活発な海沿いの大都市が有利だと
判断したのか大連に住み着いていて良かったのかもしれない。

とはいえ、その大連からの引き揚げも当然、苦渋であった。ほとんど身の回りの物だけを持って、夫婦と母の兄弟の子供6人を連れて
の帰国をせねばならなかった。その過程で母の妹が1人、腸チフスで死亡している。
奥地の満蒙開拓団の人々と比べれば、まだマシだったというだけのことである。
(この頃の話は今回の1000円銀貨とはあまり関係がない。いずれ満州の貨幣で語る機会があればと思う。)

祖母は帰国後、実に細々とした行商をやって生活を支えた。引き揚げてきても祖父は就職もならず、稼ぐことができず、
結局祖母が米塩の資を稼ぐ他なかった。

そうした祖母が、昭和39年ごろに生活が一息ついていたかどうかはわからない。1963年であるから、母と伯母は教員として就職していた。
ただ、こうした戦中戦後の苦労を底辺で繰り返していた祖母がオリンピック銀貨欲しさに列に並んだかどうかは、どうもそれはないのではないかと思うのである。


祖母が鬼籍に入ってより幾星霜、オリンピック銀貨がなぜ手元にあったのか、もう永久に謎だ。
祖父が買ったのを祖父の死後、祖母が形見として保管しておいたのか。それとも祖母がとっておけば値上がりすると
知人から聞いて1枚買ってみたのか。知ることはできない。


そうした事を思う時、それは他の、私の手元にあるコインすべてに言える事に想到する。
国内外のコインと紙幣…幾ばくかのものであるが…
だが、それは結局考えても考えても、感傷に過ぎない。
因果律を全て知ることなどできないのだ。世界というのは。


私が貰った1000円銀貨は、あまり美しくない煤のような黒ずみがついていたこともあり、愛着もなく、
銀行で1000円に換金してしまった。
その換金したのはそれほど以前でもない。いつだったかは忘れたが、ここ10年以内だと思う。その時はコイン集めは始めていなかった。
その後コインを集め始めても、しばらくは買わなかった。


祖母の死は、パーキンソン症によるものであった。
発症後、典型的な症状の進行により、痴呆が進み、(当時は認知症という言葉はなかった)
最後は身動きもしない寝たきりの蝋人形のような状態になって、死去した。

当時の私はそうした祖母の病の有り様を忌避していた。末期状態になってからはほとんど病院にも行かなかった。
不徳であるのは子供ながら薄々わかっていたが、自分の好きな遊び事や楽しい事の方を優先していた。

その後大人になり、やはり悔恨が残った。祖母には散々世話になったのに、である。


そうした悔恨の情もありながら1000円銀貨を銀行で換金したのは、身元のガラクタを整理する時に取っておいても仕方ないと思ったからであったが、
コイン1枚残さずに手放したのはいつまでも薄らと残る悔恨の呪縛を消し去りたいという、意識してはいなくても
潜在意識的な働きがあったかもしれない。
また、コインを集め始めてもすぐに1000円銀貨を買わなかったのも、それがあるかもしれない。(いつでもあるからというのもあったが)


今年になってから、写真の1000円銀貨を買った。改めてみるとその精密な絵に迫力を覚える。
私が手放した祖母の1000円銀貨はもうとっくに鋳潰されて、銀のインゴットとして保管されているか、
新たに記念銀貨として使用されただろう。永久にないのである。



しかし手放してよかったかもしれない。所詮は瑣末な事であろう。いつまでも瑣末な事に拘泥しているなと祖母は言っただろう。


商売人だった祖母だったら、そんな煤けたような銀貨は売って、もっときれいな銀貨の方を買って取っといた方がいいと
あっさり言うのではないか。
私が長々とこのように1000円銀貨について書くほど、祖母は執着はなかったと思う。


持っていることさえ忘れていたのかもしれない。私の手元にある他のコインのように。

古いコインなど、ほとんどは忘れ去られたものなのだ。






最新の画像もっと見る

コメントを投稿