親愛なるアッティクスへ
明日、十一月十五日は、幕末の英雄、坂本龍馬が暗殺された日ですね。
最近では、龍馬暗殺犯は薩摩説が主流になりつつあるようですが(私も西郷主犯説をとりますね。西郷の了解無しに、比較的、龍馬とは疎遠だったと言われる大久保利通の一存説もありますが、少なくとも、これはあり得無いと思います。)、この事件については、もう一人、共に襲撃にあい、翌々日、絶命した陸援隊隊長、中岡慎太郎の存在があります。
その中岡という人物についてですが、彼はあの武張った写真で知られてますが、もう一枚、笑顔の写真があることは意外に知られていないようです。
武張った方の写真は、当時の人間の写真という物に対する意識からすると、ごく一般的な映り方ですが、笑顔の方は、よく、当時の写真技術で、あんな屈託無く笑っているような写真が撮れたなと思います。
その上で、この二枚を見比べると、中岡という人は、思わず、どこかの大学の体育会にいそうな顔にみえてしまいました。
おそらく、結構、そういう人だったんではないでしょうか・・・。
熱血漢で、大酒飲みで、後輩の面倒見が良く、先輩は立てる・・・。
で、坂本龍馬で思い出したのですが、16歳の時に、司馬遼太さんの代表作「龍馬が行く」を読んで、(以来、しばらく司馬作品にはまり、乱読の限りを尽くしましたが・・・。)大変、印象に残ったことがありました。
そこに出てくる登場人物たちは、皆、自分の命というものを、まるで、ポケットから落ちたティッシュペーパーくらいにしか思ってない。
そして、それ以上に理解に苦しんだのが、多くの人、それも教養人ほど、イデオロギーというものに、おそろしく従順だ・・・ということです。
いくら、奸計であるとわかっていても、「朝命である!」と言われれば、あっさりと従うし、切れと言われれば腹も切る。
これが、16歳の私には、どうにも、不思議でなりませんでした。
ただ、この時代に、薩摩のみは「朝命」を受けながらも、「『それは扇動者の仕業であり、本当に天皇の命令であるとは思えないから従わない。』といって、これを拒否した。」ということが、書いてありました。
私には、この薩摩の行動こそが、ごく普通の考えのように見えましたが、司馬さんは、このあまりに周囲の反応との違いに、「際だって異質に見えた・・・。」というふうに書いておられたと記憶しております。
まあ、こういう、その時代の空気というのは、本当にその時代に生きた人間にしかわからないんでしょうね。
今でも、事象が起きたら、まず安易に右か左かのイデオロギーに鑑みて、意見を述べる人が多いように思えます。
私などは、事象を見て、右か左か決めればいいのに・・・と思いますが。
特に、私のようなオヤジよりは、むしろ、頭の柔らかいはずの若い方に、そういう傾向が多いように感じます。
そういえば、若き日の西郷盛に対して、その主君であると同時に師でもあった島津成彬は、京・江戸で諸藩の士と交わる中で、とかく、西郷が「勤王」や「攘夷」などといった「まずイデオロギー有りき」に陶酔しようとする姿を憂慮し、度々、注意したが、西郷はなかなか、これを聞き入れず、時には激論が交わされた・・・という話を聞いたことがあります。
若さとは、むしろ、己が未熟さを補う意味で、イデオロギーというものに安心感を求めるものなのかもしれません。
(この点ではまさしく、明日は我が身ならぬ、昨日は我が身かと・・・(笑)。)
西郷さんも、島流しにされず、あのまま、都会の喧噪の中に浸かったままだと、後の大西郷もなかったのかもしれません・・・。
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明日、十一月十五日は、幕末の英雄、坂本龍馬が暗殺された日ですね。
最近では、龍馬暗殺犯は薩摩説が主流になりつつあるようですが(私も西郷主犯説をとりますね。西郷の了解無しに、比較的、龍馬とは疎遠だったと言われる大久保利通の一存説もありますが、少なくとも、これはあり得無いと思います。)、この事件については、もう一人、共に襲撃にあい、翌々日、絶命した陸援隊隊長、中岡慎太郎の存在があります。
その中岡という人物についてですが、彼はあの武張った写真で知られてますが、もう一枚、笑顔の写真があることは意外に知られていないようです。
武張った方の写真は、当時の人間の写真という物に対する意識からすると、ごく一般的な映り方ですが、笑顔の方は、よく、当時の写真技術で、あんな屈託無く笑っているような写真が撮れたなと思います。
その上で、この二枚を見比べると、中岡という人は、思わず、どこかの大学の体育会にいそうな顔にみえてしまいました。
おそらく、結構、そういう人だったんではないでしょうか・・・。
熱血漢で、大酒飲みで、後輩の面倒見が良く、先輩は立てる・・・。
で、坂本龍馬で思い出したのですが、16歳の時に、司馬遼太さんの代表作「龍馬が行く」を読んで、(以来、しばらく司馬作品にはまり、乱読の限りを尽くしましたが・・・。)大変、印象に残ったことがありました。
そこに出てくる登場人物たちは、皆、自分の命というものを、まるで、ポケットから落ちたティッシュペーパーくらいにしか思ってない。
そして、それ以上に理解に苦しんだのが、多くの人、それも教養人ほど、イデオロギーというものに、おそろしく従順だ・・・ということです。
いくら、奸計であるとわかっていても、「朝命である!」と言われれば、あっさりと従うし、切れと言われれば腹も切る。
これが、16歳の私には、どうにも、不思議でなりませんでした。
ただ、この時代に、薩摩のみは「朝命」を受けながらも、「『それは扇動者の仕業であり、本当に天皇の命令であるとは思えないから従わない。』といって、これを拒否した。」ということが、書いてありました。
私には、この薩摩の行動こそが、ごく普通の考えのように見えましたが、司馬さんは、このあまりに周囲の反応との違いに、「際だって異質に見えた・・・。」というふうに書いておられたと記憶しております。
まあ、こういう、その時代の空気というのは、本当にその時代に生きた人間にしかわからないんでしょうね。
今でも、事象が起きたら、まず安易に右か左かのイデオロギーに鑑みて、意見を述べる人が多いように思えます。
私などは、事象を見て、右か左か決めればいいのに・・・と思いますが。
特に、私のようなオヤジよりは、むしろ、頭の柔らかいはずの若い方に、そういう傾向が多いように感じます。
そういえば、若き日の西郷盛に対して、その主君であると同時に師でもあった島津成彬は、京・江戸で諸藩の士と交わる中で、とかく、西郷が「勤王」や「攘夷」などといった「まずイデオロギー有りき」に陶酔しようとする姿を憂慮し、度々、注意したが、西郷はなかなか、これを聞き入れず、時には激論が交わされた・・・という話を聞いたことがあります。
若さとは、むしろ、己が未熟さを補う意味で、イデオロギーというものに安心感を求めるものなのかもしれません。
(この点ではまさしく、明日は我が身ならぬ、昨日は我が身かと・・・(笑)。)
西郷さんも、島流しにされず、あのまま、都会の喧噪の中に浸かったままだと、後の大西郷もなかったのかもしれません・・・。
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