平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

伝統継承的視点にみる無神論者の十日恵比須参拝 その3

2008年01月22日 | 社会全般
親愛なるアッティクスへ

先日の続きです。

私は神様など信じていないのに、この日、十日恵比須神社に参拝に行きました。
これはどういうことかというと、神様は信じないものの、先日も書いた若八幡神社同様、こういうのは「信仰の対象」としてではなく、地域の継承文化・・・、つまり、「風物詩」として遺して行かなくてはならない・・・と考えているからです。

日本中の風習、習俗というものは、煎じ詰めれば、大半が何ら合理性を持たないものでしょう。
お正月、年賀状、初詣、門松、注連縄、七五三、盆、彼岸etc・・・。

そもそも、私には、年始の挨拶というのが理解できませんでしたね。
年明け最初に顔を合わせるときは、皆、儀式的に、「明けましておめでとう御座います」と挨拶しなければならない・・・。
家庭や近所・親戚はまだしも、仕事始めの日に、大して親しくもない取引先などと会っても、絶対にあの挨拶をしなければならない・・・。
ああいう儀式めいた物が、大嫌いな性格でしたから、私的には、どうにも、違和感がありましたね。
ついでに言えば、私は未だに「花見」というものは理解できません。
あんなのは、江戸時代の娯楽が少ない時代の習慣であって、今時、あんな寒い中、わざわざ、そこで宴会しなくても・・・。

ただ、最近は、少し考えが違ってきましたね。
これは、日本の文化、地域の文化だと思うんですよ。
それを、合理性だけで切り捨ててしまうと、日本人がこれまで守り育んできた「文化」というもの自体が成り立たないと思うのです。

年賀状なんて、今時、メールでやればいいジャン・・・と言えば、それは確かに、そうなんでしょう。
わざわざ、葉書を出すなんてのは、メールファックス・・・果ては電話もなかった時代の遺習以外の何ものでもないでしょうから。
でも、それを言って、すべての風習を否定してしまえば、やがて、「昔は、正月になれば年賀状が来たもんじゃったが・・・。近頃では、味気ないのう・・・」となるわけで。
(実際、今では、年始の挨拶などというのは、すでに、絶滅危惧種となっていることを思えば、ない話ではないわけで・・・。)
同様に、竹とんぼや祭りの出店なども、文化であり、風物詩でもあるのでしょうが、今時、そんな物必要ないわけですから、「消してしまえ!」と言って、簡単に消してしまった後に、「懐かしいから見たいな」って言っても、「紙芝居」と一緒で遅いんですよね。

だから、自分が神様を信じても信じなくても、「年末には、こうやって厄八幡に行く。若八幡と書いて厄八幡と読む。理屈ではない。それが、語り継がれてきた博多の文化だ」ということを子供に教え、子も、やがて、たとえ場所はどこに居たとしても、「そう言えば、昔は年末になると、毎年、親父があそこ行ってたよな」と思い出せる・・・ということが大事なんだと。
それが、父から子へ、子から孫へと伝えていくべき「文化」と、そしてそれが、郷土愛という名の「誇り」なのだと、最近、そう思うようになった次第です。

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