親愛なるアッティクスへ
「今年も残すところ、あと三ヶ月となりました。」
・・・これは、今朝のラジオの一言です。
そうなんですよね。
気が付けば9月ももう終わり・・・。
早いものです。
もう、中秋の名月(←)の季節を過ぎれば、瞬く間に冬、そして、正月です。
などという感慨に浸っている場合ではなく、今日の本題です。
以前、清水 一行著、「花の嵐」という本を読みました。
(よろしければ、レビューなど書いておりますので、お目通し頂けると幸いです。)
国際興業創業者の小佐野賢治氏について書かれた小説だったのですが、小佐野氏といえば、国際興業創業者・・・というよりも、むしろ、ロッキード事件の被告人に名を連ね、故田中角栄元首相の「刎頸の友」であるとか、「昭和の政商」とも呼ばれたダーティなイメージでご存じの方も多いのではないでしょうか。
で、なぜ、私が彼に興味を持ったかというと、ひとつ、以前から引っかかっていたことがあったからです。
以前、ある昭和三十年代に名を馳せた老財界評論家(元財界誌記者)の著書を読んでいたとき、ある記述が目にとまりました。
昭和34年(1959年)8月14日・・・、東急の創始者にして、強引な吸収合併を繰り返したことから、「強盗慶太」と呼ばれた五島慶太翁が亡くなったとき、翁の晩年、二人の人物が五島翁に食い込んでいたそうです。
ひとりは、小佐野賢治・・・。
もう一人は、ホテルニュージャパン火災で悪名を高めた横井英樹・・・。
それに対して、五島翁逝去で名実共に東急のTOPとなった翁の息子の五島昇氏(元日本商工会議所会頭、故人)は、この二人に対してどのような処遇をする決定を下したか・・・。
即ち、五島昇の決定・・・、それは「小佐野は残し、横井だけを切る」というものでした。
このとき、東急内部には、「この際、小佐野も切るべきだ!」という声もあったと言いますが、五島昇は、その声を抑えて、敢えて、小佐野は残したと・・・。
私が長年、引っかかっていたのは、この部分でした。
どうして、若き五島昇は、「小佐野は残し、横井だけを切る」決定をしたのか・・・?
このときの、「小佐野と横井」の差は一体、何だったのか・・・ということです。
五島昇は1916年8月、東急財閥の御曹司として誕生しています。
小佐野は、1917年2月、山梨県甲州市勝沼町に住む家さえない極貧の小作農の長男として誕生。
横井は、1913年7月、愛知県中島郡平和町(現・稲沢市)の貧しい農家にて誕生。
つまり、五島昇と小佐野は同学年であり、小佐野と横井は同じような生い立ちから、徒手空拳でのし上がってきたという共通体験を持っていたと言えるわけです。
このとき、五島昇と小佐野賢治は同学年の43歳、まるで違う生い立ちをもった二人の同級生はお互いをどうみていたのか・・・。
私には、二人の間には、何か微妙な友情があったように思えるのですが如何でしょうか・・・。
この二人の関係は、そのまま、田中角栄と中曽根康弘のに妙な友情に投影されるようにも思えます。
(中曽根と五島昇は東大時代の本物の同級生。)
横井英樹のみは3つ年上の46歳・・・、三人とも、ほぼ、同世代と言ってよかったでしょう。
ただ、それが、片方は従来通り、出入りを許され、もう片方は出入り禁止となったわけで・・・。
そこで、この小佐野について書かれた物を求めたわけですが、結論を言えば、それが「小佐野は一個の小佐野であったが、横井は一個の横井ではなかった」ということなのだと思います。
小佐野は、前述しましたように、ロッキード事件に連座したことで、どうしても、「政商」としてのダーティなイメージが強いようですが、一方で、五島慶太翁もさじを投げた会社の立て直しに成功するなど、会社再建に対する手腕には翁さえも一目おいており、つまり、別に東急に寄生しなくとも、十分に一個の事業家として存在していたといえるでしょう。
それに対し、横井は、同じく、白木屋乗っ取りなどで総会屋を巻き込んだ、その手段を選ばぬ抗争劇や、その結果として、自ら、暴力団の襲撃を受けるなどというダーティな面は小佐野と同様だったのかもしれませんが、ただ、小佐野が東急とは別個に会社を持ち、東急とは同盟関係に近い意識を持っていたのに対し、横井はあくまで、五島慶太の名を利用し、大東急に寄生することで利益を得ようとする寄生虫に過ぎなかったようです。
この五島昇の目は間違ってなかったようで、小佐野はロッキードに連座したものの、山梨交通を始め数多くの倒産寸前の会社を立て直し、かつ、「人切り」をしない事業家として、その評価は没後さらに高まっていると言われるのに対し、横井はホテルニュージャパン火災では、数々の違法運営により、多くの犠牲者を出し、業務上過失致死傷罪で禁固3年の実刑判決を受けるに至ったことからも明白であったろうと思います。
ちなみに、
小佐野賢治は1986年死去。享年69歳。
五島昇は1989年死去。享年72歳。
横井英樹は1998年死去。享年85歳。
・・・賛否両論、色々あったでしょうが、今となっては、「兵どもが夢の跡」かと・・・。
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「今年も残すところ、あと三ヶ月となりました。」
・・・これは、今朝のラジオの一言です。
そうなんですよね。
気が付けば9月ももう終わり・・・。
早いものです。
もう、中秋の名月(←)の季節を過ぎれば、瞬く間に冬、そして、正月です。
などという感慨に浸っている場合ではなく、今日の本題です。
以前、清水 一行著、「花の嵐」という本を読みました。
(よろしければ、レビューなど書いておりますので、お目通し頂けると幸いです。)
国際興業創業者の小佐野賢治氏について書かれた小説だったのですが、小佐野氏といえば、国際興業創業者・・・というよりも、むしろ、ロッキード事件の被告人に名を連ね、故田中角栄元首相の「刎頸の友」であるとか、「昭和の政商」とも呼ばれたダーティなイメージでご存じの方も多いのではないでしょうか。
で、なぜ、私が彼に興味を持ったかというと、ひとつ、以前から引っかかっていたことがあったからです。
以前、ある昭和三十年代に名を馳せた老財界評論家(元財界誌記者)の著書を読んでいたとき、ある記述が目にとまりました。
昭和34年(1959年)8月14日・・・、東急の創始者にして、強引な吸収合併を繰り返したことから、「強盗慶太」と呼ばれた五島慶太翁が亡くなったとき、翁の晩年、二人の人物が五島翁に食い込んでいたそうです。
ひとりは、小佐野賢治・・・。
もう一人は、ホテルニュージャパン火災で悪名を高めた横井英樹・・・。
それに対して、五島翁逝去で名実共に東急のTOPとなった翁の息子の五島昇氏(元日本商工会議所会頭、故人)は、この二人に対してどのような処遇をする決定を下したか・・・。
即ち、五島昇の決定・・・、それは「小佐野は残し、横井だけを切る」というものでした。
このとき、東急内部には、「この際、小佐野も切るべきだ!」という声もあったと言いますが、五島昇は、その声を抑えて、敢えて、小佐野は残したと・・・。
私が長年、引っかかっていたのは、この部分でした。
どうして、若き五島昇は、「小佐野は残し、横井だけを切る」決定をしたのか・・・?
このときの、「小佐野と横井」の差は一体、何だったのか・・・ということです。
五島昇は1916年8月、東急財閥の御曹司として誕生しています。
小佐野は、1917年2月、山梨県甲州市勝沼町に住む家さえない極貧の小作農の長男として誕生。
横井は、1913年7月、愛知県中島郡平和町(現・稲沢市)の貧しい農家にて誕生。
つまり、五島昇と小佐野は同学年であり、小佐野と横井は同じような生い立ちから、徒手空拳でのし上がってきたという共通体験を持っていたと言えるわけです。
このとき、五島昇と小佐野賢治は同学年の43歳、まるで違う生い立ちをもった二人の同級生はお互いをどうみていたのか・・・。
私には、二人の間には、何か微妙な友情があったように思えるのですが如何でしょうか・・・。
この二人の関係は、そのまま、田中角栄と中曽根康弘のに妙な友情に投影されるようにも思えます。
(中曽根と五島昇は東大時代の本物の同級生。)
横井英樹のみは3つ年上の46歳・・・、三人とも、ほぼ、同世代と言ってよかったでしょう。
ただ、それが、片方は従来通り、出入りを許され、もう片方は出入り禁止となったわけで・・・。
そこで、この小佐野について書かれた物を求めたわけですが、結論を言えば、それが「小佐野は一個の小佐野であったが、横井は一個の横井ではなかった」ということなのだと思います。
小佐野は、前述しましたように、ロッキード事件に連座したことで、どうしても、「政商」としてのダーティなイメージが強いようですが、一方で、五島慶太翁もさじを投げた会社の立て直しに成功するなど、会社再建に対する手腕には翁さえも一目おいており、つまり、別に東急に寄生しなくとも、十分に一個の事業家として存在していたといえるでしょう。
それに対し、横井は、同じく、白木屋乗っ取りなどで総会屋を巻き込んだ、その手段を選ばぬ抗争劇や、その結果として、自ら、暴力団の襲撃を受けるなどというダーティな面は小佐野と同様だったのかもしれませんが、ただ、小佐野が東急とは別個に会社を持ち、東急とは同盟関係に近い意識を持っていたのに対し、横井はあくまで、五島慶太の名を利用し、大東急に寄生することで利益を得ようとする寄生虫に過ぎなかったようです。
この五島昇の目は間違ってなかったようで、小佐野はロッキードに連座したものの、山梨交通を始め数多くの倒産寸前の会社を立て直し、かつ、「人切り」をしない事業家として、その評価は没後さらに高まっていると言われるのに対し、横井はホテルニュージャパン火災では、数々の違法運営により、多くの犠牲者を出し、業務上過失致死傷罪で禁固3年の実刑判決を受けるに至ったことからも明白であったろうと思います。
ちなみに、
小佐野賢治は1986年死去。享年69歳。
五島昇は1989年死去。享年72歳。
横井英樹は1998年死去。享年85歳。
・・・賛否両論、色々あったでしょうが、今となっては、「兵どもが夢の跡」かと・・・。
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