ハーベスト・タイム『収穫の時』

毎月発行の月刊紙『収穫のとき』掲載の聖書のお話など。

きみの帰る場所

2004-03-18 | 中川健一のおはなし
◆3月号◆きみの帰る場所

 昨年の12月23日、ある小さな出来事がテレビのニュースで流れました。

 元銀行員の男性(26歳)が、名古屋市のテレビ塔から紙幣をばらまいたというのです。その後の調べで、この男性の素性が明らかになりました。彼は、東京の国立大学を出て大手銀行に就職したエリート。しかし、将来リストラされるのではないかとの不安から半年でそこを辞め、公認会計士になるべく勉強を開始。その内、財務諸表に詳しくなり、株の売買にのめり込むようになる。

 彼が行なっていたのは、インターネットで短期売買を繰り返し、利ざやを稼ぐというものです。そのような人のことを、「デイトレーダー」と呼ぶそうです。いわば、株取引の「一匹狼」です。「一匹狼」の生活は、何ともわびしいものです。平日は午前7時半頃起床。新聞やテレビで海外相場や経済ニュースを確認。取引開始前の売買注文を分析しその日の市場動向を予測。取引のある午前9時から午後3時まで、パソコンに向かう。日に数回から数十回売買を繰り返す。こういう生活が、3年続いたのです。これまでに稼いだ金は、約1億2千万円だそうです。

 名古屋でばらまいた紙幣は、経営破たんした足利銀行系の株で大儲けをしたものでした。ではなぜその金をばらまいたのか。彼はこう証言しています。「自由な反面、市場から利益をもぎ取るだけで、世間に何のプラスも生み出していない。この世界に自分がいてもいなくても同じと思うと、たまらない気持ちになった」(毎日1/25)。
 事件後、警察から厳重注意を受けた彼は、これからは外に出て他人と交流を持ちたい、将来は事業を始めたいと語っているようです。

 この男性の行動は異常とも思えますが、彼の内面は正常に機能していると判断されます。自分の生活の異常さに気づく能力がまだ失われていなかったという意味で、彼は正常なのではないでしょうか。なぜ彼はたまらない気持ちになったのでしょうか。それは、自分の居場所を見つけ出すことができなかったから、また、生きていることの意味を見失ってしまったからです。
 人は誰でも、「帰属意識」と「生きる意味」とを求めながら生きています。帰属意識は、私たちに安心感を与えてくれます。自分はここにいていいのだ、ここの一員なのだ、ここで必要とされているのだ。そういう内的な確信がないなら、常に不安の波にもてあそばれるような生活になってしまいます。
 生きる意味は、私たちに物事にチャレンジする力と喜びを与えてくれます。私はこのために生きている。いや、生かされている。私の仕事は、社会に役立っている。そういう確信の中で働いている人は、本当に幸いです。

 話は映画に飛びます。
 2002年に米国で上映された映画に、『アントワン・フィッシャー』という作品があります。日本では、『きみの帰る場所』というタイトルで2003年に上映されました。実話をもとにして作られた非常に良心的な映画です。監督は、オスカー名優として有名なデンゼル・ワシントンです。
 主人公は、誕生の時に、監獄に入っていた母親から見捨てられ、その後孤児院、養家、更正施設などを転々とした青年です。18歳で海軍に入ったアントワンは、そこで何度ももめごとを起こします。その結果、カウンセリングを受けるようにとの命令が下り、精神科の軍医(デンゼル・ワシントン)のもとにやってきます。
 軍医は、彼の問題行動の背景に少年時代の悲惨な児童虐待があることを見抜き、内面の癒しのために自らのルーツ探しを始めることを勧めます。彼は方々に電話をかけ、ついにクリーブランドに叔母さんと叔父さんがいることを発見します。アントワンは、彼らの案内で実母の住むアパートを訪ねます。
 息子の突然の訪問に驚いた母親は、ただ涙を流すだけで何も語ろうとはしません。アントワンは、なぜ自分を捨てたのか、どうして探そうとしなかったのかと問いますが、答えはありません。ついに彼は、母親の頬に優しく口づけしそこを去ります。それは、あたかも「あなたを赦します」と語っているかのようです。
 アントワンは孤独でした。しかし、叔母さんの家に着いた時、その扉の向こう側には彼が経験したことのない世界が待っていました。五十人以上の親戚たちのコーラスが彼を迎えたのです。そこには、子ども、夫婦、従兄弟、叔父、叔母などが勢ぞろいしていました。みんな、会ったことのないこの青年を親族の一員として迎え入れるために集まったのです。その日、彼のために大祝宴が催されました。
 騒ぎが収まった頃、一人の老婦人がアントワンを傍に呼び、両腕で彼を抱擁します。彼女の頬には涙が流れています。そして彼女はしゃがれた声で、全力を振り絞るかのようにしてこう言うのです。「よく帰ってきたね」。

 罪人である私たちが、イエス・キリストを救い主として信じる時に起こるのは、これと似たようなことです。父なる神は、私たちを両腕に抱き、「よく帰ってきたね」と語りかけてくださいます。私たちは、人種、言語、性別を超えた神の家族の一員となります。その家族生活の中には、帰属意識も、生きる意味も、すべて備えられています。

 「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」(ルカの福音書15・20)